× 第4章 【炎と烙印】 29 ×





 足場が崩れ、身を躍らせた先は見事な崖で、(死ねる身体ではないものの)イグネアははっきりと死を覚悟した。が、落下死を免れたのはヒュドールのおかげだろう。自身も落下中だというのに咄嗟に魔術を発動させ、宙に出現した氷槍の螺旋階段(もどき)が幾分か衝撃を和らげてくれた。不規則に並んだ氷槍をゴロゴロと転がり、最後は群生する木々に突っ込んだのだが、その際軽く頭を打ったものの文句や不満を言えるわけがない。
「ぎゃっ!」
 派手に木々の枝を折り、踏み潰された猫のように無様な声を上げ、イグネアは地面に落下した。様々な衝撃を受けたせいで大いに疲れ、うつ伏せで倒れた状態でそのまま停止する。とにかく鳴り止まない心臓を落ち着かせるべく呼吸を繰り返した。まさかあんな所で落ちる羽目になるとは……つくづく自分の間の悪さと言うか何というか、が嫌になった――などと心中で考えていると。
「……おい」
 すこぶる不満げな声が間近で聞こえ、イグネアは弾かれたように顔を上げた。木々の合間から注ぐ月明りの下、視線を上げた先には不機嫌そうな白銀の魔人様の顔があり、思わず「げっ!」と声に出しつつ青ざめた。
「動けるならさっさとどけ。背中が痛い」
 言われて初めて、倒れ込んでいるのがヒュドールの上だと気づき、イグネアは大慌てで身を起こした。どういうわけでこういう体勢になったのかは全くもって不明だが、どうやら落下する前に下敷きになってくれたらしい。そのせいで圧迫を受けているのかそれとも打ったのかは不明だが、本人の言うように背中が痛いようで眉間にしわを寄せていた。
「す、すまないっ。大丈夫かっ?」
「……ああ」
 素っ気なく答えて、ヒュドールはゆっくりと、様子をうかがうように身体を起こした。背中は打ったところへ重圧を受けたために若干痛むものの、まあ大事には至らない程度だろう。そのまま立ち上がると、今度は頬にひりっとした痛みが走った。どうやら軽く切ったらしい。触れてみると指先には血が付着した。
 それを見て慌てたのは、本人ではなくイグネアである。
「怪我しているではないかっ」
「この程度、怪我のうちに入らない」
「し、しかしその、顔が……」
 美意識は低いくせして、美形の顔に傷を付けた事実は大いに気にするポイントらしい。イグネアはひたすらオロオロしていたが、ヒュドールはすこぶる不愉快気で、あからさまにムッとしていた。
「あのな……俺は男だから、顔に傷が付こうが何だろうが別に関係ないんだ」
「そ、そうなのか?」
「当たり前だろう。そんな下らない事を気にするな。それより、アンタこそ怪我は?」
「わ、私は何ともない」
 さっき軽く頭を打ったから少し痛い、などとは口が裂けても言えない状況だった。というか、怪我しても死なないから大丈夫だが……と思ったものの、言った途端に怒鳴られそうな雰囲気だったのでやめておいた。
 答えを聞くと、ヒュドールは「そうか」と言ってほんのり安堵したように息を吐き、次いで上空を見上げた。
「……この高さから落ちて死ななかっただけ、有難いと思うしかないな」
 イグネアも倣って顔を上げてみた。確かによく生きていたものだと感心してしまうほどの崖っぷりである。もしもヒュドールが一緒に落ちてくれなかったら(?)、間違いなく大惨事となっていたはずだ。
「あの……」
 恐る恐る声をかけると、青碧の瞳がこちらを向いた。
「その、助けてくれてありがとう」
 素直に礼を言うと、ヒュドールは一瞬うっと怯み、そして視線を逸らしてしまった。怒っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「とりあえず、ここから離れるぞ」
「なぜだ?」
「どのみちここを登る事も下る事も不可能だ。アイツらだって先に進みながら探すだろうし、敵に場所を知らせるのも避けたい。相手は鳥とはいえ賢しい頭を持っているようだからな」
 なるほど、と納得していると、さっと手を取られ、イグネアはほんのり戸惑った。そのままヒュドールは歩き出してしまい、有無を言わせぬ状況であった。
「な、なぜ手をつなぐのだ?」
 焦りつつ問いかけると。
「振り向いたらいませんでした、なんて展開は迷惑極まりないからな」
 キツイお言葉を頂戴し、ごもっとも……とあえなく閉口したのだった。

 すっかり日が沈んでしまった森の中は非常に歩きづらかった。運良く一緒に落ちてくれた【魔光燈】は残念な事に壊れてしまい、使いものにはならなかった。仕方無く、木々の合間から注ぐ月明りだけを頼りに二人は少しずつ慎重に先を進んだ。一歩先を行くヒュドールが危険は無いかと足場を確認し、イグネアを誘導してくれている状況だ。
 周囲の静けさに加え、重苦しい沈黙が続いていた。ずっと握られている手もいつもと違って妙に気遣わしげで、甘い雰囲気というより完全迷子防止的気配が漂っている感は否めないものの、それでも何となく落ち着かない気がする。
「皆は無事だろうか」
「……大丈夫だろ」
 どうにも耐え切れなくなって問いかけてみるも、ヒュドールは素っ気なく答えただけである。けれどその一言の中には明らかな信頼がうかがえた。自身でも言っていたように彼らは弱くないし、心配は無用だろう。きっと無事だと思う事にした。
 再び沈黙が広がる。その状態でしばし進んでいたが、ヒュドールが立ち止まり、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「どうかしたのか?」
「この先を進むのはキツそうだな」
 ささやかな月光に照らされた先には、ごつごつとした岩場が広がっていた。日の光が差す日中であれば気にせず行ってしまうところだが、暗闇に覆われた夜間は視界が狭く、なおかつ先程の落下事件を考慮すると、明け方まで待つのが賢明な判断だろう。幸い、夜間はカディール達も行動しない。ならば今のうちに休息を取っておくのが妥当だ。
 ということで、二人は適当な場所を見つけ、明るくなるまで休むことにした。複雑に絡まった木の根に背を預け、ふさふさと生い茂った草の上に腰を下ろす。一応周囲の木々に魔除けを貼っておいたので、突然の襲撃に遭っても時間稼ぎにはなりそうだ……と考えた所で安堵と疲労を混ぜて溜め息を吐くと、隣に座ったヒュドールに思い切り怪訝そうな顔をされ、イグネアは慌てて口を押さえた。そもそもこんな状況になったのは自分のせいなのだから、疲れたとか考えている場合ではない。
 しかし疲労と睡魔は否応がなしに襲いかかって来る。普段はすでに寝床にいる時間だから仕方がないものの……ここで寝てしまってはわざわざ山に来た意味がないし、足手まとい以外の何物でもないではないか! と、すでに足手まといになっている事実に微塵も気付かず、イグネアは必死に瞳を開こうとする。しかしその努力も虚しく、無意識のうちに頭が大きく揺れていた。
「……眠いなら、寝てればいいだろ」
 声にはっとして瞳を見開くと、げんなりしたヒュドールの顔が飛び込んできた。
「ね、眠いはずがないだろうっ」
 何を言っているのだとでも言いたげに姿勢を正すも、じっとりした視線は変わらず……
「思い切り、頭が揺れていたぞ」
「うっ」
 痛いところ突かれ、イグネアは呻いた。バツが悪くなって顔を背けると、ヒュドールの溜め息が聞こえた。
「どうせ夜明けまで動けないし、むしろ隣で頭が揺れている方が煩わしくて敵わない」
 言いながら、ヒュドールは羽織っていた外套を脱いだ。
 その外套が肩にかけられ、イグネアは一瞬きょとんとしたが、次いで強く腕を引かれて転がる勢いで倒れ込んだ。
「ぎゃっ!」
 無様な声を上げつつ倒れ込んだのは何とヒュドールの膝の上で、イグネアは半ば青ざめながらひたすらにおろおろした。起き上がろうとして身もがいてみるも、包むように外套を掛け直され、かつ肩を押さえられて見事に動きを封じられた。
「な、な!」
「いいから、大人しく寝ていろ」
 そう言ってヒュドールは顔を背けた。これでも一応「地面に頭を置いたら痛いだろう」他、色々気遣った末の行動だったのだが、何だかやり過ぎた感は否めず、彼としても相当気まずい状態に陥っていたりする。しかし今さら押し返すわけにもいかず、このままやり過ごすしかないという状況だった。もうこうなったからには「これは猫だ!」とでも考えて乗り切るしかない。
 何というか、ヒュドールにしてはえらく大胆な事をしたものだが、そんな心情が伝わるはずもなく。イグネアはひたすら困惑していた。いつもは膝枕させる立場であるが、寝転ぶ側も猛烈に恥ずかしい気がする。よくもリーフは平然とやれるものだ。というか、この状況で大人しく寝ていろという方が無理だと思うのだが。
「お、おぬしが寒いだろう?」
「平気だ」
「しかし……いつも冷たい手をしているではないか」
 かなり痛いところを突かれたのか、ヒュドールはうっと怯んだ。
 イグネアの指摘通り、ヒュドールは割と寒がりで、今も若干肌寒いのだが、ここまでしておいて外套を奪い返す事など出来るはずもなく。
「よ、余計な事を気にしなくていい!」
 終いには怒られるはめになり、イグネアはあえなく閉口した。
 何となく気まずい空気の中、再び沈黙が広がった。落ち着かない状態ではあるが、横になるとどういうわけか途端に眠くなってしまうのは、いつもの習性なのかそれとも本当に疲れているからなのか。
「迷惑ばかりかけて、すまないな」
 ヒュドールの意外すぎる行動が、恐らく気遣いゆえのものだろうと(珍しく鋭く)察したイグネアは、至極申し訳なさそうにぼそりと呟いた。何だかんだと、結局足手まといとなっているのは事実であるため、ここはもう謝る以外に選択肢はないと思われた。
 だから迷惑ではないと何度言えばわかるのだろうか……と口を開きかけたが、恐らくコイツなりに気を遣っているのだろうと思い、ヒュドールは言い止まった。その代わりに聞きたい事があると思い出し、ゆっくりと口を開く。
「……アンタは、あいつらをどう思ってるんだ?」
 静かな問いに、真紅の瞳が瞬いた。
「あいつらとは、リヒトやリーフのことか?」
「ああ」
 ヒュドール的には「男としてどう思うのか」といった意味で聞いているわけだが、イグネアがしっかりと理解しているはずもなく、案の定考え込んで唸っていた。
「そうだな……リヒトは、やたら恥ずかしい事を言ったりしでかしたりするが、気が利くし、何より親切だな。皆に好かれるのがよくわかる。リーフはずいぶん丸くなったな。あやつはな、以前はその冷徹ぶりから“氷の裁判官”などと呼ばれていたこともあったのだぞ。風の魔術師のくせに」
 眠気に襲われ始めたイグネアは、まったりのんびりとした口調で答えた。自分が何を言っているのか、あまり理解していないかも知れない。
 というか、質問の意味を全く理解していないなコイツは……とヒュドールが軽く溜め息を吐いたが、イグネアは気付いていない。
「じゃあ、俺の事はどう思っている」
 一瞬、沈黙が落ちた。
 もしやコイツは、この重要な場面でまた寝やがったのか? とヒュドールは頬を引きつらせたが。
「……こう静かならば、おぬしの傍は、案外居心地が良いのかも知れない。意外と、優しいところもあるしな……」
 ヒュドールは引きつらせていた頬を緩めた。
 それは裏を返せば「口うるさい」とか「いつも怒っている」とか言われているような気がしなくもない。そして“意外と”は相変わらず余計である。加えて、こう何の意識もされずに無防備でいられるのも男としてはどうかと思うのだが……その答えは、嫌ではない。
「居心地がいいなら、ずっとそばに居ればいい」
 答えは、穏やかな寝息だけ。
 はっきりと紡がれた言葉も、すっかり眠りに落ちてしまったイグネアには何一つ伝わらず。本気で心底面倒くさい女を好きになったものだ、とヒュドールは自嘲気味な溜め息を零したのだった。





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