× 第4章 【炎と烙印】 31 ×





 一方その頃、リトスのベルンシュタイン邸では。
「町長さん、おはようございます。はいこれ、朝のごはんですよ」
 にっこり笑顔と共に小包を手渡しているのは、マイルを連れてやって来たミリアムだ。小包の中身はお手製惣菜の詰め合わせで、彼女はイグネアに頼まれて昨夜に続きこうしてオンブルの世話を焼いてくれているのである。
 当のオンブルはといえば相変わらずの仏頂面で、神経質そうに眼鏡を押し上げながら……
「ああ、どうも」
 などと感謝の欠片も感じられない礼を述べるだけだった。いくら町長とはいえ不躾過ぎである。
 しかしそれなりに付き合いの長いミリアムはそれをも理解しているらしく、さらに笑顔を深めて応じたのだ。全く、料理上手な上に出来た奥様である。
「イグネア達はまだ戻ってないんですね。皆で道に迷ってしまったのかしら」
 こうしてオンブル自ら玄関口まで出て来るということは、まだ戻っていないという何よりの証拠である。ちなみにミリアムはイグネア達が楽しく山登りにでも出かけたと思っているようで、心配しながらも口調は若干呑気だ。
 というか、奴らがこのまま一生帰って来ないとしても全く微塵も困ることなど無く、むしろ平穏が戻って有難いというか切実にそれを望んでいるのだが……などとオンブルは内心でブツブツぼやいていたが。
 唐突に、カディール襲来の警鐘が鳴り響いた。
 はっとして顔を上げ、北の方角に瞳を向ける。まだ小さくはあるが、視界に七色の魔鳥の姿が映った。
 オンブルの表情がわずかに険しくなる。何か、今までとは違うような気配を感じるのは……気のせいではない。
「中に入りなさい」
 幾分せかすような口調で屋敷の中に入るよう促すと、ミリアムはさっとマイルを抱え上げて素直に応じた。彼女とてカディール来襲には慣れているため、取り乱す事もなく落ち着いている。
 むしろ慌てているのはオンブルの方で、ミリアムとマイルの安全を確保するやいなや、窓に飛びついて外の様子をしきりにうかがっている。
「どうかしたんですか?」
 カディールが町にやってくるなんて日常茶飯事である。だからそんなに慌てる必要はないのに……不思議そうにミリアムが問いかけるも、オンブルは心ここに在らずといった感じで外を見ている。
 警鐘はしばしの間けたたましく鳴り響いていた。しかしそれがぴたりと、不自然に止んだと同時――山の方角で火の手が上がっているのが見えた。
「まさか……?」
 あの炎からは、強烈に不穏な気配を感じる。カディールの襲来、そして炎――もしや“本物”だろうか。
 ミリアムとマイルの不思議そうな視線を受ける中、オンブルは(珍しく)迅速な動きを見せ、さっと地下室に降りて行ったかと思えばごそごそと何かを持ち出して来て、そのまま玄関へと向かった。
「君の家には言っておくから、しばらくここにいなさい」
「え、町長さん外に行かれるんですか? 危ないですよ」
 すると、オンブルは振り返り、神経質そうに眼鏡を押し上げつつ一言。
「私は平気だ」
 そして重そうなコートの裾をひるがえし、まるで正義の味方のごとく出て行ってしまった。
 その後姿を見送った母子はというと。
「町長さん……いつもそんな感じなら、きっとお嫁さんも見つかるのに」
 などとミリアムは微妙に余計なお世話を焼き、マイルはその小さな手をたどたどしく振っていた。


 玄関を飛び出した途端に肌を震わせた魔力に、オンブルは思わず笑みを零した。今では幻となり、“あの”リーフでさえ諦めた本物が、目前に迫っている。これが喜ばずにいられようか。
 しかし“やや”変人な研究家とはいえ、オンブルとて(一応は)人の子である。町中が未だかつてない混乱に陥っているのを、黙って見ているほどの人でなしでもろくでなしでもない。
 カディールの襲撃に慣れている住民たちは、急いで近隣の家に飛び込んで行くが、魔鳥が吐き出す炎は確実に町に迫って来ている。すでに山近くの家は焼かれており、住民たちは必死に逃げ惑っていた。
 所々に護符とは異なる符を貼り付けながら、オンブルはとにかくカディールに向かっていた。伝説の魔鳥の姿を一目見たいという願望と、そして“彼ら”が戻るまで町を護るつもりでいるのだ。
 ――全く、早く帰って来い!
 先ほど「帰って来なくていい」などと考えていた事は、すでに彼の頭からは抹消されているらしい。





 マイルと共に屋敷に残されたミリアムは不安を募らせていた。ただならぬオンブルの様子を不思議に思い、窓から外を眺めてみれば、町が赤く燃えているのが見えたのだ。
 皆は無事だろうか、家はどうだろうか、ハンスはどうしているだろうか――そんな中、唐突に聞こえて来たけたたましい音にはっとし、ミリアムはマイルの手をしっかりと握って玄関に向かった。
 そして、玄関では。
「ぎゃっ!」
 無様な悲鳴と共に転がり込んで来たのは何とイグネアで、その背後にはリーフの姿もあった。
 リーフはイグネアを放り込んですぐに身をひるがえしたが、その腕をしっかりと掴まれ、軽く舌打ちをしつつ振り返った。
「待て! わしも行く!」
「煩い! 許さんと何度言えば気が済むのだ!」
 イグネアとリーフは遠慮もなしにプレシウ訛りで口論を繰り広げていた。どちらも譲らずと言った表情で、険悪な雰囲気を漂わせている。
「あの炎を止められるのはわしだけだ!」
「あれ程のものを操れば、どれだけの“罰”が返って来るか解って言っておるのか!」
 もっともなリーフの言葉に、イグネアは続ける言葉をぐっと押し留めた。
 勢いを増す炎、しかも魔力を帯びたものを操れば、それ相応の罰が返って来る。手や腕を焼かれるだけでは済まないはず。
 そんなことは十分承知している。けれど、今すぐに対処できる方法はそれしかないのだ。
 再び反論しようとして口を開きかけたが、リーフの怒りを押し殺した表情を見て思わず息を呑んだ。こいつのこんな顔は……千年前の、裁判の前に見せたあの時以来だ。
「何故に“わしら”がお主を闘いから遠ざけるか、本当に理解出来ぬか?」
 深緑の瞳が、ぎろりとねめつけた。
「好いた女を傷付けとうないからだ」
 まさかの言葉に、真紅の瞳が見開かれる。それは“彼ら”の心を代弁したものなのか、それともリーフ自身の想いなのかすぐに判断できなかったが。意外な発言と気迫ですでに言葉を奪われたイグネアをよそに、リーフはふいっと顔をそむけてしまった。
「とにかく、此処で大人しくしておれ。あやつは儂が仕留めてやる」
 怒りに任せて勢い良く扉を閉め、リーフは行ってしまった。


 玄関先に立ち尽くし、イグネアは服の裾をぎゅっと掴んだ。
 リーフが何故自分を闘わせようとしないのか、それは十分理解出来たし、彼らの心遣いも有難く思う。だが事態はそんなに甘くはない。リーフとて、カディールの恐ろしさは知っているはず。そう簡単に仕留められれば苦労はない。それに、本体を相手にしながらどのようにして炎の勢いを防ぐというのだ。ヒュドールの魔術をもってしても限界はある。
 言いようのない苛立ちが胸に広がった。言われて大人しく待っていられるほど、すでに心は穏やかではなかった。
「イグネア……?」
 名を呼ばれて振り返ると、そこにはミリアムとマイルが立っていた。先程の口論が聞こえていたのかは知らないが、どこか気遣わしげな感じだった。
「ミリアムさん、どうしてここに?」
「町長さんに朝食を届けに来たら、ちょうど警鐘が鳴って……あの、大丈夫? さっきリーフと言い争っていたみたいだけど」
「ええ、まあ……オンブルさんは?」
「町長さんなら、少し前に外へ飛び出して行ってしまったわ。無事なのかしら……」
 ミリアムの不安は痛いほどに伝わって来た。そしてその心は握った手からマイルにも伝わっているのだろう。今にも泣き出しそうな表情でイグネアを見上げていた。
 このままでは町中が炎に巻かれてしまう。町が燃えてしまう。そうなったらミリアムやマイルだけでなく、町民達の命も危うくなってしまう。
 イグネアは意を決し、顔を上げた。いつから自分は言われるがまま従うような、弱い人間になったのか。過去に何と呼ばれていたのか――よく思い出してみろ。
「ミリアムさん」
 真紅の瞳がじっとミリアムの顔を見つめ、そして微笑んだ。
「今までお世話になりました。どうか、丈夫で元気な子を産んでくださいね!」
 不安に震える手をしっかりと握って、イグネアは強く頷いた。
 ミリアムやマイルだけではない。町中の人達も、オンブルも、“彼ら”も、そしてこれから生まれてくるだろう新しい命も。自分にとっては大切で、誰一人欠けてはならない存在である。生まれてくるだろうこの子が、いつでも明るく笑っていられるだろう未来を護れるならば……もはや悔いはない。
 握っていたミリアムの手を放し、イグネアは玄関を飛び出した。背後から呼び止められたが、決して振り返らなかった。
 屋敷を飛び出してすぐ、行く手を阻まれた。恐らく念を押してリーフが仕込んだのだろう、モルはイグネアの前に立ちはだかり、静かに首を振った。
「……行ってはならない」
 モルは命令には忠実だ。だからどんなに理由づけても、我を通そうとしても決して見逃してはくれないだろう。
 しかし。
「そこを退かぬか」
 遠慮なしのプレシウ訛りに、珍しくもモルは反応を見せた。が、それでも道を譲る気はないらしい。
「退かぬのならば、お主も焼き払ってやるぞ!」
 眼鏡の奥の真紅の瞳がギラリと妖しく輝く。その気迫はいつものイグネアではなく、完全に【紅蓮の魔女】へと変わっていた。
 さすがのモルも少しばかり動揺したようで。一瞬だけ躊躇し、やがては身を引いた。
「……すまんな」
 モルの脇を通り過ぎながら、一言ぼそりと呟き。
 イグネアは真っ赤に燃える町へと走って行った。





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