× 第4章 【炎と烙印】 32 ×





 紅く燃え盛る炎はまるで大蛇のごとくうねり、勢いを増してあちこちの家を焼き始めた。立ち上る白煙が空気を濁し視界を悪くする。カディールが吐き出す炎は魔力を帯びており、人為的なものよりもはるかに強力で、家一軒焼き尽くすなど造作もないように見えた。
 強力な魔力を持つ“本物”は“偽物”をも呼び寄せ、リトスの町は普段の平穏さを失い、混乱に満ちていた。
 一歩遅れて山から帰還したリヒトとヒュドールは、暴れ回るカディールと炎から町民達を護るため四方八方に走っていた。とりあえず本体はリーフに任せ、偽物と対峙しつつも、逃げ惑う町民達の安全確保を第一とした。
 正直甘く見ていたと、ヒュドールは忌々しげに舌打ちする。さすがは古の魔鳥、一筋縄ではいかないようだ――考えながらふと立ち止まり、周囲に人気がないか確認している最中、炎が爆ぜた。恐らく民家に備えてあった油に引火したのだろう、飛散した硝子片が顔を庇った腕を掠め、薄っすらと傷が浮かんだ。
 再び爆発が起こらないとも限らない。巻き込まれるのを避けるため場を離れようと駆け出したヒュドールだが、その足はすぐに止まった。青碧の瞳に映ったのは、全速力で炎に向かって突進している――イグネアである。
 屋敷に置いて来た、と先ほどすれ違い様にリーフが言っていた。この状況下で嘘を吐くような馬鹿とは思えないため、閉じ込めるなり何なりして来たのだろう。それが、なぜ一人で外をうろついているのか。あの小娘は本当に自覚がないほど愚か者なのか。
 腹の底で沸き上がる怒りを感じながら、ヒュドールは再び動き出した。
 

 屋敷を飛び出したイグネアは、脇目も振らずに走り続けた。額にじんわりと汗が浮かんだが、それは全速力で走っているせいではない。炎の周りは思いのほか早く、すでに町中へと近づきつつあった。その熱がじかに肌で感じているのだ。
 イグネアの目的はカディールの本体だ。あまり民家が近いと、炎を操った際に巻き込んでしまう可能性もある。ゆえに本体を見つけ出し、出来るだけ町から離れた場所へとおびき出すのが先だと考えた。
 異様な魔力の高まりを見せている場所にカディールはいる。奴は炎を吐き出す際、一瞬だけ魔力を増幅させる習性があるからだ。肌を震わせる熱と力を頼りに、イグネアはひたすらに走っていたが。
 不穏な風の流れを感じて足を止めると、目の前の民家が奇妙な音を立てていた。まずい、これは炎が爆ぜる前触れだ……! と瞳を見開いた瞬間、予測通り轟音を立てて家が燃え上がった。強烈な熱風が破片やらを吹き飛ばし、容赦無く襲いかかって来た。

来たれ、氷の盾(ライ・ジェロ・アスピス)!」

 聞きなれた文句と同時、イグネアの前に青白く輝く氷の盾が出現し、その身を護った。しかし爆風は思いのほか勢いが良く、そむけた顔からは眼鏡が外れて吹き飛んでしまった。地面に転がった衝撃で魔力抑制効果の高いレンズは無残にも粉々に砕け、もはや使い物にはならないだろう。
 ――丁度よい。
 粉々に砕け散ったレンズが、後戻りを拒否するようで。どうせ外さなければならなかったのだから都合が良い、とイグネアはまだ少しだけ揺らいでいた決意を固め、覚悟を決めた。
 しかし、それを簡単には許さない者がいるわけで。
「何してる!」
 怒声に弾かれて顔を上げると、鋭い視線を向けて来る青碧の瞳があった。その瞳に浮かぶのは純粋なる怒りで、周囲の炎さえも敵わぬほどに熱く燃えている。腕を掴んだ手は決して離さんとばかりに力強く、正直折れるのではないかと思ったほどだ。
「屋敷にいろと言われなかったか?!」
 もちろん言われたし、止められもした。だがこうなったからには腹を括らねば。ぬくぬくと護られるだけの立場に収まる気はない。
「手を放せ。(わし)は戻らない」
 揺らぐことのない決意を秘めた真紅の瞳が、青碧の瞳をじっと見上げる。強大な魔力を秘めた紅い瞳は、周囲の炎の熱を吸ってまるで自身が燃え上がるかのように妖しい光を湛えている。
 こうして裸眼で見られたのは、彼女の正体を知った日以来である。その真摯な表情と眼差しで、イグネアが何をしようとしているのか察知したらしい。ヒュドールがさらに怒りを募らせたのは、表情を見れば明らかだった。
「そう言われて易々と離すと思うか? いいから来い!」
 腕を掴んだままヒュドールは歩き出そうとした。恐らくそのまま屋敷まで引きずって行こうと考えたのだろうが、イグネアも頑として譲らなかった。
「ヒュドール、手を放せ! (わし)はこの炎を止めねばならないのだ!」
「そんな事をしたらどうなるか、分かって言っているのか?!」
「承知の上に決まっているだろう!」
 イグネアが声を張り上げると、ヒュドールは躊躇し、次に吐き出す言葉を詰まらせた。けれど、それでも掴んだ腕を解放しようとはしなかった。
 イグネアはふっと気が抜けたように息を吐いた。
「……(わし)にとって、この町も人々も、そして“おぬしら”も。みな失いたくない大切なものだ。だから私は、この身が滅んでも護りたいと思う。これで過去の大罪が清算されるなどとは思っていない。その罪滅ぼしだなんて思っていない。だが、かつて自分が焼き払った大地に宿った命を見捨てるような真似はしたくない。もう……後悔はしたくないのだ。だから、わかってくれ」
 諭すように綴られたイグネアの想いを聞いても、ヒュドールは手を離す事ができなかった。恐らくこれがリヒトやリーフでも、同じようにしただろう。
 イグネアが抱えた呪いは複雑だ。罰が返って来ても、呪いのおかげで命が助かる可能性は高い。魔除けを持たない身ではあるが、ミールスの力であるいはカディールの魔力を回避できるかも知れない。だからと言って、助かるという確証もないのだ。万一に命は助かっても、一生消えないような傷を負うかも知れない。本人はそれでも構わないと思うに違いないが、そうやって傷付く姿を見るのは嫌だ。
 迷う心とは裏腹に、ヒュドールの手は力強さを増す。魔術では上回るといっても、男女の力の差は歴然としており、振り切って逃げ出すことは不可能だった。
 だが、こうしている間も惜しい。早く行かねば、本当に町が燃えてしまう。イグネアはほんの数秒の間に頭をフル回転させて考えた。逃れるには、ヒュドールに隙を作らせ、そこを突く以外に方法はない。しかしどうしたらいいのか。
 考え抜いた末に、イグネアが下した決断は――

 自分でも、なぜこの方法を選んだのか理解に苦しむのだが。何だかもう、夢中だったのだ。
 イグネアは開いた手を伸ばし、肩に流れていた白銀の長い髪を掴んでぐいっと引っ張った。引力には見事忠実に従い、ヒュドールは体勢を崩して前傾姿勢を取らざるを得なくなる。
 容赦無い力で引っ張られた髪は当然痛い。ヒュドールは遠慮なしに不快気な表情を浮かべたが、それは次の瞬間に百八十度変化した。
 青碧の瞳が、これまでにない驚愕を目の当たりにして見開かれる。
 イグネアの唇が、ヒュドールのそれに、間違いなく触れていた。

 甘さや切なさなど微塵も感じられないそれは、口付けと呼ぶには不完全で、むしろ事故という表現が適当である気もするが。
「もし、無事に戻れたら……その時は、(わし)を連れて行ってくれるか?」
 周囲の音にかき消されそうなささやきは、確かに耳に届いていた。答えようとしてヒュドールが口を開きかけた直後、その隙を待ってましたとばかりに思い切り突き飛ばされ、イグネアは掴んでいた手からするりと抜けて身をひるがえしていた。
「……っ、待てっ!!」
 呼び声には決して振り返ること無く。
 逃げ足だけは一級品のイグネアは、あっという間に炎の向こうへと消えて行ってしまった。






 炎の発源地点にほど近い場所で、リヒトは町民救済に尽力していた。持ち家を焼かれてしまって逃げ惑う人々を誘導し、できるだけ遠い民家に逃げ込むよう指示しつつ、本物が呼び寄せた偽物達と闘う。本物の威を借る偽物は我が物顔で町中を暴れ回り、破壊活動に勤しんでいた。
 その一羽を仕留めた後、リヒトは頬に流れる汗を乱暴に拭いながら、息を吐いた。いつもは爽やかで煌びやかな彼ではあるが、今はそんな余裕もない。麗しい顔は汗と血で汚れ、黄金の瞳が放つ視線は鋭い。まさに戦場に佇む戦士のそれと化していた。
 そんなリヒトの視界の隅に、見慣れた、けれどもこの場に不釣り合いな人物の姿が映った。重苦しい色と素材のコートを翻し、陰鬱なほどの空気を振りまいている。その明らかに場違いな人物は――屋敷の主、オンブルである。
「ちょっと何してるんですか?!」
 普段は引きこもっているくせに、こういう時に限って何をしているんだろうかこの人は……リヒトは慌てて駆け寄り、声をかけた。
「ああ、君か」
 などと言いつつ、呼びかけに振り返ったオンブルは神経質そうに眼鏡を押し上げた。
「君か、じゃなくて! 何でこんな所にいるんですか!」
「何故とは愚問だな。私だって、この町を護りたいと考えているんだよ。見たまえ」
 リヒトの言いっぷりに若干ムッとしつつも、オンブルは近くの民家の壁に貼りつけた符を指さした。
「あれは魔力を受けると跳ね返す効果がある。まあヒュドール君の盾の魔術のようなものだな。あそこまで強力なものではないが、少しは役立つだろう」
 オンブルの説明の最中、風に乗って流れて来た炎が民家の壁にぶつかった。すぐさま呑み込まれてしまうかと思いきや、魔力を帯びているために先程の符の効果が発揮され、まるで球面を滑る水のように、炎は流れて行ってしまう。
 どうやら同じ符をあちこちに貼って来たらしい。付近の家々も同様に、炎の攻撃から護られていた。
「全て護ることは不可能だが、逃げるまでの時間稼ぎにはなるだろう。“本物”は近くにいるようだから、もう少しやっておいた方が良さそうだな……何だね、その意外そうな顔は!」
 説明の途中でおかしな視線に気づいたらしく、オンブルは再びムッとしてリヒトを振り返った。
 意外そうというか、何というか。
「俺、あなたの事を少し見直しましたよ」
「少しとは何だ! 失敬だな! 一応は町長なのだ、町のために働かなければただの肩書だろう!」
 言っていることは若干無茶苦茶な気もするが、彼なりに町の事を考え、そして大切に思っているのは確かだ。もう少しこの付近をうろつくというオンブルの安全を確保するため、リヒトは彼の護衛を買って出た。
 そんな中。
 不意に、奇妙な事が起こった。渦を巻いて建物に食らい付こうとしていた炎が、形を変え、一点に集結し始めたのだ。
「何だ……?」
 リヒトとオンブルは炎が流れていく方角へと視線を向ける。途端、ぞくりと背筋が震えるような魔力を感じ取り、二人とも表情を強張らせた。
 目を凝らして見てみれば、炎が集結する地点には本物と思わしきカディールの姿があった。その周囲には数羽の偽物、そしてその偽物の周りには小さな紅い羽根を持つ無数の蝶が。
「まさか、イグネア?」
 蝶の魔術に覚えがあるリヒトが呟いた。しかし、まさかと思いたい。魔除けを持たない彼女が、カディールの傍にいればどんな危険が伴うか……想像に難くない。
 一気に指先まで冷える思いがした。いっそう表情を強張らせ、リヒトは躊躇うことなく本物がいる方向へと走り出した。






 到達したイグネアを待ち構えていたのは、本物のカディールと偽物が三羽。倒すべき敵を見定めた魔鳥たちは互いを鼓舞するように代わる代わる鳴き声を上げ、威嚇していた。
 イグネアは民家の屋根によじ登り、魔鳥達と対峙していた。肌が焼かれそうなほど炎が近いが、その熱が増すたびに真紅の瞳は輝きを増す。炎の魔術師、いや【紅蓮の魔女】である彼女にとって、魔力を帯びた炎ほど高揚するものはない。
 この心を奮わせているのは、果たして不安なのか、それとも悦びなのか。よくわからなかった。
 魔除けを持っていれば、偽物だけは遠ざけられたかも知れないが、そうは言っても結局持っていないのが現実だ。先陣を切った偽物が一羽、イグネアに食い付こうとして素早く飛翔して来た。

来たれ、炎の狼よ(ライ・フラム・ヴォルフ)!」

 二本の指で印を切りつつ声高に叫ぶと、イグネアの背後で渦巻いていた炎は見る見るうちに形を変え、燃え盛る炎のたてがみを持つ狼へと変化した。炎狼達は唸りを上げ、イグネアに襲いかかる前に偽物に飛びついた。その数十体、一度に食い付かれたカディールの悲痛な叫びが木霊する。そして骨の髄まで焼き尽くされるのに、そう時間は必要なかった。
 役目を終えた炎狼達が消え失せると同時、イグネアの左腕に異変が起きる。いつかのように烙印が熱くなり、やがて炎に巻かれてゆく。
 しかし大事ないと言い聞かせ、イグネアは必死に己を奮い立たせた。そう思うのは強がりでも何でもなく、以前よりも返って来る“罰”は確かに軽減されていた。その理由は、先ほどの炎狼達がカディールが吐き出した炎、しかも強力な魔力を帯びたものを操って創り上げたからだろう。媒体を使えば、その分罰が軽減されるのだ。
 ――まだ行ける。
 深く頷き、イグネアは顔を上げた。残るは偽物二羽と、本物だけ。間違いなく本物相手には、己の持つ最大の術でしか対抗できないだろう。だからその余力は残しておく必要があった。
 しかし相手は古より“魔”と呼ばれてきた存在だ。その辺の鳥とは比べ物にならぬほど賢い。そのうえ仲間意識が強い種で、一羽で敵わないのならば連携だ、と判断するような鳥である。加えて仲間を失った事で怒りを煽られたらしく、すぐさま次の攻撃態勢に入った。
 本物がひと羽ばたきすると、その翼が生んだ力は魔の風となり、炎を膨れ上がらせる。さらにその風圧といえば暴風のごとく強烈で、小柄なイグネアは大いによろめいた。何とか踏ん張ってはみたものの、どう足掻いても立っていられない。飛ばされまいとして屋根板にしがみ付き必死に耐えるも、今度はその隙を狙われ、二羽の偽物が同時に襲いかかって来る。
 
来たれ、火の鳥よ(ライ・アウィス・イグネア)!」

 再び印を切ったと同時、今度は左腕を激しい痛みが襲う。先程のカディールが起こした風が周囲の炎をだいぶ鎮火させてしまったせいで、その分身体への負担が大きくなったのだ。有り得ないほどの熱を感じたかと思った矢先、腕どころかもはや左半身が炎に包まれた。
「くっ……あうっ!」
 火の鳥の魔術は、イグネアが扱う魔術の中で第二位の力を持つ。それなりの罰を覚悟はしていたが、それでもこれはかなりきつかった。声を上げまいとして必死に唇を噛んで耐えるが、痛みと熱は容赦なく身体を襲っていた。
 イグネアが苦悶している間、炎の鳥は燃える両翼を羽ばたかせ、天に向けて鳴き声を上げた。そして真っ赤に燃える瞳をぎらりと妖しく光らせると、向かって来る偽物に怯むことなく挑んでゆく。
 七色の翼を炎の翼が焼き、あっという間に一羽は消滅した。それでも炎の鳥の攻撃は止まない。天に向かって飛翔すると、くるりと舞って方向を転換させ、残る偽物を目掛けて真っ直ぐに落ちて来る。偽物も負けじと挑んだが、翼に食い付かれ、そこから強烈な炎が回り、そうしてやがては跡形もなく消え失せた。
 その勢いに乗って、炎の鳥は本物のカディールに襲いかかる。声を上げて大きく嘴を開き、頭に食い付こうとしたが……無残にも返り討ちに合ってしまう。炎の鳥の喉元に食い付いたカディールは、なんとそのまま炎を飲み込んでしまったのだ。
 さすがは自身も炎を吐き出す魔の鳥、所詮は魔術で創り上げた存在であることを嘲笑うかのようで。猛威を振るっていた炎の鳥は、あっけなくカディールの体内に吸い込まれてしまった。
「そんな……」
 ようやく痛みと熱の収まった左腕を押さえながら、イグネアは呟いた。額にはびっしりと汗が浮かび、左の顎から首筋にかけては火傷が生じていた。【万能薬(エリキシル)】を摂取していないせいで、傷跡の回復には時間を要するのだ。おそらく火傷は目に見えない箇所にも生じているだろうが、今はそれどころではない。
 炎の鳥をかのように容易く扱われるとは。やはり本物は一筋縄では倒せない。どう足掻いても、最後の手を使うしか滅ぼす方法はないらしい。
 とにかく立ち上がらなければ、隙を狙われてやられてしまう。イグネアは必死に立ち上がろうとしたが、上手く力が入らずすぐに膝を付いてしまう。罰を受けると、体力を激しく消耗するせいだ。
 そうこうしている間に、カディールは狙いを定めて襲いかかって来た。まずは完全に動きを止めようとでも考えたのだろう。両翼を大きく広げ、その羽根を飛ばそうとしていたが。

来たれ、荒ぶる風よ(ライ・フラカオン)!」

 突如暴風が吹き荒れ、巻き込まれたカディールは羽ばたきを止めた。翼を折るまでには至らなかったが、態勢を崩したカディールは真っ逆さまに落ちて民家の屋根に激突した。
 この声は……と頭の片隅で思ったものの、しかしすぐに対応できずにいると、右の腕を強引に引かれ、イグネアは苦痛の表情も気にせず顔を上げた。
 頭上には怒り最高潮と思わしき少年の顔が見えた。深緑の瞳は首筋の辺りに刻まれた火傷の痕を見て、その怒りを爆発させた。
「この愚か者が!」
 ぐったりとしたイグネアに、容赦無い罵声が降り注ぐ。
 罵倒されるのも当然だ。あれほどきつく言われたにも関わらず、危惧した通りの結果になっているのだから。だがイグネアは後悔などしていない。そしてこれからしようとしていることも、止めるつもりはない。
「……リーフ」
 名を呼んだと同時、深緑の瞳に思い切り睨まれた。
「“あれ”を使うから……町に被害が出ぬよう、援護しろ」
 言った途端、リーフの顔色が変わった。拒否の合図と判断したが、この際無視だ。
「あやつ、炎の鳥を呑み込んだのだ。もうこれ以外に方法はない。あやつが次に炎を吐き出した……その時が機だ。殺してしまわぬように力を抑えてはみるが、正直自信はない。だから、死んでしまう前に対処できるよう配慮を頼む」
 イグネアが何をしようとしているのか、リーフはすぐさま理解した。
 記憶を呼び覚まさなくともはっきりと脳裏にこびりついている。全ての炎を巻き込み、仲間とそして愛する妻を跡形もなく焼き払った――あの恐るべき力を。
「……お主、死ぬつもりか?」
 静かな問いに、イグネアは乾いた笑いを浮かべた。
「はは……死ねたら楽だろうがな」
 一瞬、引っ叩いてやろうかとリーフは思った。わずかながら反射的に手が動いてしまったものの、そんな事をしている場合ではないと我に返る。引っ叩くのはとりあえず後でいくらでもやれるとして、今はカディールに専念しなければならないのが現実だ。
 炎を吐き出す限り、イグネアの力は必要となる。それさえなければリーフ達だけでも対処できるが……もう腹を括るしかない。
「この(わし)を顎で使うとは、お主も随分と肝が据わったものだな」
 ふいっと顔をそむけながら、リーフが嫌味を放つ。その視線の先には、再び羽ばたき始めたカディールの姿があった。
 玉のような翡翠の瞳が、純粋な憎悪だけを浮かべて凝視していた。より一層強く大きく羽ばたかれた七色の両翼からは突風のごとき風圧が生み出され、イグネアとリーフを襲った。
「くっ!」
 風圧に耐え切れず、リーフは掴んでいた腕を手放してしまった。弱っていたイグネアは木の葉のように軽々と転がってしまい、ずいぶんと引き離されてしまった。駆け寄ろうにもカディールは間髪を容れず次の攻撃へと切り替え、無数の羽根が二人の間に突き刺さった。
「……仕方がないゆえ、その作戦に乗ってやる。だが死んだら承知せぬぞ。今度こそ、永遠に呪ってやる!」
 吐き捨てるように言い残し、リーフは背負った剣を引き抜いてカディールへと向かって行った。

 リーフが時間稼ぎをしてくれている間に、少し身体が楽になった。最後の大仕事をするくらいの力は残っているようだ。
 まだ完全に力の入らない膝を無理に立たせ、イグネアは左腕を押さえた。自身最大の魔術を使用すれば、この身は滅びるかも知れない。けれどそれでも、やらなければ終われない。
 鎮静していた炎が再び周囲を取り巻き始めた。その熱さはもはや心地よく感じられるほど、イグネアの心は“あの頃”を思い浮かべていた。
 やる事は同じだけれど、今は違う。殺めるためではなく、救うために闘いたいのだ。
「イグネア!」
 ひたすらに機会をうかがっていたイグネアの耳に、不意に声が届く。下方に視線を向けると、緊迫した表情で駆け寄って来るリヒトと、そしてオンブルの姿が見えた。
「そこでじっとしてて! 今行くから!」
 オンブルは微妙だが、リヒトは心配してくれたのだろう。その気持ちは有難く受け取ることにし、イグネアは静かに首を振って申し出を拒んだ。
 そして、リヒトとは約束している事があったと思い出した。もし無事に戻れなかった時は、また約束を果たせなくなってしまう。それだけは嫌だった。
 意を決した真紅の瞳が、立ち止まって見上げている青年をじっと見つめた。
「リヒト、おぬしには“真実を話す”と約束をしたな」
 遠慮なしなプレシウ訛りに、リヒトはおろか背後にいたオンブルさえも目を見開いて固まっていた。
 次の言葉に繋がる前に、再び名を呼ばれ、イグネアは一度そちらに視線を向ける。ふたつ屋根を越えた向こうでリーフと闘っているカディールを見遣れば、炎を吐き出す前触れであるように翡翠の瞳が妖しく輝いていた。
 イグネアは屋根を蹴って跳躍し、隣家の屋根に飛び移った。同時にカディールは炎を吐き出し、辺りが業火に包まれる。
 魔術を発動させる直前、カディールの腹部に“ある証”を見つけてしまい、イグネアは躊躇した。けれど、この機を逃せばあとはないと強く言い聞かせ、意を決し、二本の指で宙に印を切る。
 魔力を抑制されていない真紅の瞳は、ぎらりと妖しく、そしてぞくりとするほど艶やかに輝いた。

来たれ、炎の龍よ(ライ・フラム・ドラコー)!」

 呼び声に応じて現れたのは、紅蓮の鱗をまとった炎の龍。
 今しがたカディールが吐き出したものはおろか、町中に広がっていた炎さえも、まるで逆流する水のごとく龍の身体へと集結し、その形は徐々に巨大化してゆく。
 生まれたての赤子が、手足を伸ばして鳴き声をあげるように。炎の龍は天高く吼え、膨れ上がった灼熱の身体をうねらせた。うねった身体に触れた物は瞬きする間に焼き尽くされ、初めから存在しなかったかのように跡形もなく消えていた。
 これこそが、かのベルルム大戦で全てを焼き払った【紅蓮の魔女】の最大の魔術。その炎に触れたものは人であろうと何であろうと、燃えかすすら残さず焼き尽くす凶暴な――炎の龍だ。

 左腕を強く押さえながら、イグネアはがっくりとその場に崩れ落ちた。襲い来る痛みはこれまでの比ではない。寒気が全身に広がると、今度は焼けるような熱さが襲ってくる。手足が震え、血の気が失せた。
 これで最後かもしれないから……“罰”を受ける前に、この身が焼かれてしまう前に、伝えておかなければ。
 イグネアは今一度眼下を見つめ、そして驚愕の表情で見上げているリヒトに向かって微笑んだ。

(わし)の名は、イグネア=カルブンクルス。史上最悪の炎の魔術師と言われる、プレシウの大罪者【紅蓮の魔女】だ……!」

 真実を知ったリヒトの表情を目の当たりにする間もなく。イグネアの身体は紅蓮の炎に包まれた。
 同時に炎の龍がカディールに襲いかかる。その勢いは辺りを一瞬にして赤く染め、龍の身体に触れた家々は焼き払われてゆく。イグネアの姿はもはや確認できなくなってしまっていた。
「イグネア!!」
 ようやく駆け付けたヒュドールが、出会って一度として呼んだ事のない名を叫んだ。
 けれどその声は燃え上がる炎に阻まれ、果たして届いたかどうかはわからない。





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