× 第4章 【炎と烙印】 35 ×





 一方その頃、一歩帰宅の遅れたヒュドールはというと。
「……何してる」
 廊下で行倒れているオンブルを発見し、至極胡散臭げに声をかけていた。
 声をかけられたオンブルはびくりと背中を震わせ、そしてのろのろと顔を上げる。いつも以上に顔色は悪く、ものすごい陰気を振りまいている。まあ昼夜問わず地下に籠り切りであったため仕方ないが。
「おい、大丈夫か?」
 流石に心配になったため、ヒュドールは手を貸そうと差し伸べたが、その手に渡されたのは何やら液体の入った小瓶であった。
「こ、これを……」
「何だこれは?」
「【万能薬エリキシル】の、サンプルだ……」
 途端、ヒュドールの表情がはっとした。
「出来たのか?!」
「い、いやこれはあくまで試作品だ。呪いを解くほどの効果は期待できないが、傷を癒す程度には使えると思う……」
 あくまで私の予想だが、という言葉は最早聞いてもらえていないらしい。しかも個体に精製する時間がなかったため、とりあえず液体止まりなのだとオンブルはしっかり説明を加えたが、ヒュドールの耳には届いていない。
「そうか、わかった!」
 と言いつつ、ヒュドールは小瓶を握り締めてさっさと行ってしまった。
 無残にも取り残されたオンブルはというと。
「こ、この薄情者めっ! は、腹が減った……」
 再び廊下の床にぐったりと突っ伏した。
 その後オンブルは、数分後に通りかかったモルにより救われることとなる。


 遠慮もなしに扉を開け放つと、そこには何故かリヒト及びリーフがおり、ヒュドールは眉をひそめた。
「お前達、ここで何をしている」
「そういうお前こそ、血相変えてどうしたのさ?」
 ベッドの隅に腰かけたままリヒトが問うと、ヒュドールはあからさまに不愉快気な顔をする。お前はそこで何をしていると問い詰めたい気持ちを抑え、気を取り直す。今はそれどころではない。
「そこで、行倒れているオンブルからこれを受け取った。【万能薬エリキシル】のサンプルだそうだ」
「本当か?」
 言いながら、リヒトは立ち上がる。
「解呪までは無理だが、傷の治癒くらいは可能だそうだ」
 それならば早く飲ませてやろう、とリーフもリヒトも頷いた。
 しかしふと、そこで誰もが気付く。イグネアは昏睡状態のため、自ら【万能薬エリキシル】を飲む事は不可能だ。つまり誰かが飲ませてやらなければならない。要するに“口移し”で。
 一瞬、奇妙な沈黙が漂った。
「さっさと瓶を寄越さぬか」
「何故貴様に渡さなければならない」
「だからって、お前が独占する理由もないよな?」
 青碧と深緑と黄金の瞳が互いに牽制する。
 互いに一歩も引かぬであろうというのは、表情を見れば一目瞭然だ。
「兎も角、どのような理由があれ、あやつに手を出す事はこのわしが許さん」
 と、リーフが言えば。
「何故貴様に許可を得なければならない」
 ふざけるな、と言いたげにヒュドールが睨む。
「あやつは儂の嫁になるのだ、当然であろう」
「それは貴様の勝手な妄想だろうが」
「そうでもないぞ? イグネアが普通の娘のように変化して来たのは、何を隠そうこの儂のおかげだ。むしろ有難く思え。それは儂が預かっておく故、お主等はさっさと国へ帰るがいい。目障りだ」
「そこまで待つ必要がどこにある。今すぐ飲ませれば目覚めるかも知れないだろう。そうすればアイツも連れて帰るだけだ。最も貴様は別に来なくてもいいがな。邪魔だから」
 青碧と深緑がにらみ合い、そして険悪そうにふいっと顔を背けた。
 そんな二人の仲裁に、いつものごとくリヒトが口を挟んだ。
「まあまあ、二人ともとりあえず落ち着け。やっぱりここは俺の出番だと思うんだよね」
「何故そうなる!」
「ほら、眠れる姫の目覚めに必要なのは、素敵な王子のキスって相場は決まってるでしょ?」
 と、リヒトは一寸の躊躇もなく余裕気に、しかも眩しい笑顔で言いやがった。
 ヒュドールとリーフは思い切り頬を引き攣らせた。流石は自他共に認めるナルシスト野郎、よくもそんな恥ずかしい発言が出来るものだ。というか誰が姫で、そして貴様は一体何処の王子だ! と大いに憤慨する。
「そこは別にお前じゃなくても問題ないだろうが!」
「いやでもさ、初めてのキスは上手い方がいいと思うんだよね。癖になるから」
「どうせ寝ておるのだ、無関係だと思うがな……」
 というか、こやつはそんな所まで自負するのか、とリーフはげんなりしていた。正直ここまでのナルシスト精神とは考えていなかったらしい。何というかある意味見事だ。
「まあ、本当の所は上手い下手じゃなく、イグネアは誰にも渡さないよって話なんだけど」
 先程までの余裕の笑顔は何処へやら。リヒトは至極真剣な表情を浮かべた。そこには明らかな警戒心が浮かんでいる。
 と、そんな中。
 何やら唐突に思い出したらしいヒュドールが、言い難そうな表情で小さな咳払いをした。
「……初めてじゃないぞ」
 ぼそりと呟かれた言葉に、リヒトとリーフは異様に反応した。黄金と深緑の視線を一気に集めたヒュドールはというと、若干罰が悪そうに視線を逸らしている。
「まさか、それは嘘であろう?」
「というか、まずそれは無いよね?」
 二人同時に、いやまさか的な言葉を投げる。最も縁遠いと思われるヒュドールがそんな積極性を出すとは考え難い。というかそんな度胸があるわけない。
「言っておくが、俺からしたんじゃないぞ」
 いぶかしげかつ疑わしげな視線を受け、ヒュドールはあからさまにムッとしていた。まあ若干微妙ではあるが、一応触れたしな……などと心中で考えつつ。
「いやそれこそ嘘であろう」
「お前にそんな妄想癖があるなんて……俺ちょっとショック」
 大体、あの古風を形にしたようなイグネアが自らそんな大胆な事をしでかすなんて、それこそ信じ難い話だ、などとまるで信じていない。そもそも、二人ともイグネアは自分に気があると思っているから当然だろう。
 あくまで嘘だと決めつけられ、ヒュドールは沸々と怒りを募らせた。どうでもいいが、何でこの俺が嘘吐き及び妄想癖呼ばわりされなきゃならんのだ。
「嘘だと思うなら、コイツに聞いてみればいいだろうが!」
「ならば、儂が目覚めさせてやるからその瓶を寄越せと言っておるだろう!」
「だから、それは許さないってさっきから言ってるでしょう」
 三つの異なる色を持つ視線が、再び見えない火花を散らし始めた。
「大体、貴様等はコイツの意志は完全無視で、隙あらば手を出そうとしやがって。節操無し共が!」
「小煩い母親のような事を言うな、餓鬼め」
「まあまあ、お年寄りは少し黙っていてね」
 爽やかな笑顔と共に発せられた発言に、リーフの頬がピクリと引き攣った。
「年寄りだと?!」
「ああ、そうだな。ご老体は大人しくしていた方が身のためだ。血圧が上がってうっかり逝ってしまうかも知れんしな」
 お前なかなか上手い事言うじゃないかリヒト、とか考えつつ、若干ほくそ笑みながらヒュドールが余計なひと言を付け加える。クソガキ呼ばわりされても平然としていたリーフが面白いほどに反応したため、便乗してみたのだ。
 案の定リーフは不機嫌そうに睨み付けたが、ヒュドールは素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。
「儂が年寄りだと言うならば、あやつも千歳以上の老婆であろうが! ヒヨっ子の小僧共はさっさと手を引け!」
「そういう、いちいち理屈っぽい所が年寄りだと言っているんだ、このジジイめ」
「あとちょっと小言も多いよね。お爺さんていうか、むしろ頑固親父みたいな」
 深緑の瞳が今度はリヒトを睨むが、嘘くさいほどに爽やかな笑顔が返ってくるだけだ。
「それにご心配なく。俺、年上も射程範囲内だから全然問題ないし」
「その情報は別に今はいらないだろうがっ」
 その後もギャアギャアとどうでもいい事を言い争う小僧共に、ご老体……もといリーフが切れた。
「やかましいわ、この餓鬼共が! 今日という今日は許さん! その青臭い根性、叩きのめしてまとめてあの世に送ってやる!」
「煩いのは貴様だ、このクソガキめ! 返り討ちにして地獄に突き落してやる!」
「そういう品のない事、揃って言わないでくれる? 俺まで同類だと思われたくないから」
 ヒュドールとリーフの毒舌に、穏やかながらもさらりとキツイ一言を浴びせるリヒトが加わり、舌戦は壮絶さを増した。普段仲裁しているリヒトさえも加わってしまったために、口論は止まる様子を見せない。
 三人ともあまりに夢中になっていたせいか、その背後で異変が起きている事になど気付きもしなかった。ギャアギャアと喚く声に反応したのか、昏睡状態にあるはずのイグネアの指がピクリと動き、しかも穏やかな寝顔を浮かべていたはずの眉間にしわが寄った。
 若干下らない、もはや意地とプライドをかけた舌戦は、徐々に最高点へと達していた。屋内だというのに大人気なく本気を出した面々が、一色即発の空気を発する。
「覚悟は良いか青二才共!」
「煩い! 二人まとめて葬ってやる!」
「やれるものなら、やってみるがいいよ!」
 深緑と青碧の瞳がギラリと妖しい光を放ち、魔術を放つ前に切り裂いてやるとばかりにリヒトが腰に佩いた剣に手をかける。
 三つの力が、まさに激突しそうになった次の瞬間。
 爆睡していたはずのイグネアの瞳がかっと見開いた。強大な魔力を秘めた真紅の瞳がぎろりと睨み付けると、傍にあったやたらデカイ花瓶が音も派手に弾け飛んだ。
 その突然の出来事に、舌戦を繰り広げていた三人はぴたりと動きを止め、驚愕の表情で振り返る。その瞳に映ったのは……起き上がり、ものすごい形相でこちらを睨んでいる【紅蓮の魔女】の姿が。
「やかましいッ! このわしの眠りを妨げるなど許せん! 地獄に落ちる覚悟が出来ているのだろうな、この下衆共めッ!」
 カディールと闘っている時の興奮冷めやらぬ雰囲気で、イグネアが吼えた。同時に、壁に飾ってあったヘンテコな絵画(オンブルの趣味)が一瞬にして燃え尽きた。
 眠りを妨げられたことで、魔女の機嫌は最高潮に悪かった。真紅の瞳は、その場の全てを焼き払ってやろうとばかりにギラリと妖しく、ぞくりとするほど艶やかに輝いていた。
 完全に意識混濁というか、いわゆる寝ぼけた状態なのだが。

 一瞬、シンとした空気が広がった。
 怒り狂っていたイグネアは、二三度瞬き、そしてそこにいる面々がやたらと見慣れた顔ぶれであると気づき、ふと我に返った。
「お、おや……? 皆さんお揃いで、どうかしました?」
 驚きすぎて唖然としている三人に、イグネアは大いに困惑した。もしや、私はまた何か余計な事をしでかしただろうかと。
 何だかよくわからないし、何か詳しく聞くのが怖い。ので、とりあえず寝てしまおう! と勝手に自己解決をしたイグネアは、再び毛布をかぶり直し、横になろうとしたが。
「ひええええ!」
 唐突に背後から抱き付かれ、久々に頓狂な悲鳴を上げた。
 誰だいきなりこんな破廉恥な行為をする奴は! と青ざめた顔で振り返ってみると。
「お目覚めになったのですね、魔女様ッ!」
 一体いつの間に、そして何処から入り込んだのか、感極まったような表情でオンブルがしがみ付いていた。
「ぎゃーっ!」
 イグネアは再び悲鳴を上げた。
 そしてオンブルが、例の三人にものすごい口撃を受けたのは言うまでもない。




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