× 第4章 【炎と烙印】 36 ×





 ひと悶着あったものの。
 イグネアが無事に目を覚まし、周囲は安堵した。当の本人はカディールと闘っていた時から記憶が曖昧になっているらしく、なぜ眠っていたのかさっぱり理解していなかった。リーフが詳細を説明してやると、案の定というか何というか、大いに困惑していた。と同時に少しずつ色々思い出したらしく、自ら正体を暴露したリヒトと、そしてある意味最も顔を合わせたくないヒュドールとはほとんど視線を合わせられずにいた。
 さてそんな中、恐らく誰よりもイグネアの復活(?)を願っていただろう人物がひとり。
「これまでのご無礼、どうかお赦し下さい、紅蓮の魔女様」
 などと言いつつ、床に頭を擦りつけそうな勢いで土下座をしているのは、屋敷の主・オンブルである。プレシウの魔術師を研究対象としていた彼は、殊のほか【紅蓮の魔女】を崇拝していたらしい。まさかその当人に会えると、しかもそれがこれまで散々こき使っていたメイド娘であったなどとは思いもしなかったようで、相当卑屈に変貌していた。ちなみに他の住人に対しては普段通りである。
 そんな様を、案外プライド低いんだなこの人……と考えつつ、イグネアは引き攣った表情で眺めていた。
「あの、別にいいですから」
「いいえ! それでは私の気が治まりませんので、今後は貴女の下僕として扱って下さって構いません」
「いやあの……ちょっとそれは相当迷惑なので、普通にしていてください」
 というか、今までの姿を考えればむしろ気色悪い……と内心で突っ込みつつ、イグネアは苦笑した。
 おかしな崇拝者を得たことはとりあえずさて置き。オンブルはイグネアの言う事なら何でも聞くと豪語していたため、そこを少々利用し、解呪効果のある【万能薬(エリキシル)】の生成に全力を注ぐように命じておいた。憧れの魔女様(?)から直々に頂戴した命令にいたく感激し、オンブルは再び地下室の人と成り果てるのであった。ちなみに彼が昨日まで必死に【万能薬】を作っていたのはリーフの命令があったからではなく、イグネアが【紅蓮の魔女】だと知ったからであるらしい。が、その事実に気付く者がいるはずもない。

 急ぎで作成した【万能薬(エリキシル)】は、とりあえず怪我の治癒に大いに役立った。けれど左腕の火傷は呪いの影響か全く治癒されず、さらに五日間寝っぱなしだったこともあり、イグネアはしばし寝台上の生活を余儀なくされた。
 そんな感じなので、起きて動き回るのは不可能だろうと判断したヒュドールが夕食を運んで来たのだが、せっかく目覚めてもほんの少しの時間起きていただけで、イグネアはまた眠ってしまっていた。千年封印してきた力を駆使した影響もあり、かつ呪いの効果も相乗し、それで疲れているのだろう。
 ぐったりとした寝顔をのぞき込みながら、ヒュドールは軽く息を吐いた。こうして寝ているのを見ると、また目を覚まさないのではないかと思ってしまうが、時折寝返りをうち、訳のわからない寝言を言っている辺りからして大丈夫だろう。
 色々聞きたい事はあるが、今はゆっくり休ませてやる必要がある。そんな風に考えながら、ヒュドールは静かに部屋を出た。
 自分達がここに滞在できるのは、あと三日。それまでに、イグネアの口からもう一度、あの言葉を聞きたいと思った。

 イグネアが次に目を覚ましたのは、なんと翌日の昼頃であった。軽く寝過ぎた感があってそれだけでも驚きなのに、目覚めて最初に見たのがミリアムの笑顔で、二度驚いてしまった。
「良かった、目を覚ましたのね」
 安堵し、微かに瞳を潤ませながらの言葉に、イグネアは大いに焦った。自分が眠っている間はずっとミリアムが世話してくれていたと、昨日のうちに教えてもらっていた。一日でも早く目覚めて欲しいと願っていたと。彼女自身今は大事な時期であるにも関わらず、そんな風に思ってくれていたなんて、とても申し訳ない気持ちになった。
「ミリアムさん、あの、ありがとうございました。あとその……色々黙っていてごめんなさい」
 リーフからは大体の経緯を聞かされている。少々誤魔化してはあるが、呪われていることと、そして自分が炎の魔術師である事実をミリアムに話してあると。
「ううん、いいの。こうしてまたお話できて、本当に嬉しいから。まさかイグネアが魔術師だったなんて思いもしなかったけど……でも町を護ってくれてありがとう。みんな、とても感謝しているわ」
 穏やかな笑みを向けられ、イグネアは正直に戸惑った。
 これまで魔術師として炎の力を使うたび、自分はひどく恐れられ、忌み嫌われていた。だから魔術師として感謝されるなんてこれが初めてで、なんだか無性に照れ臭かった。でも、嫌な気持ちではない。
「町のみんなもだけれど、彼らもとても心配していたのよ。だからあとできちんと、元気な姿見せてあげてね」
 目を覚ました時に真っ先に見えた彼らの安堵の表情だけで、どれだけ迷惑をかけたのかよくわかった。正直あのリーフにまでそんな表情をさせたのかと思うと微妙な気持ちになったが、それでも心配されていた事に変わりはない。昨日は少し混乱していたし、すぐに眠ってしまったからろくに話もしていないけれど、もう一度きちんと向き合わなければならないと思った。
 いつもは夕刻までいてくれていたそうだが、目覚めたからにはそういうわけにいかない。今度は自分の身体を労わって欲しいと思い、午後の早いうちにミリアムには帰ってもらい、イグネアは動き出した。
 オンブルが用意してくれたサンプルのおかげで、左腕以外は健常だ。ミリアムに聞いたところによると、日中以外の家事全般はヒュドールがこなしていたそうで、腕一本使えないのが痛いので全てを請け負う事は無理っぽいが、手伝いくらいはできる。
 とはいえ、いきなりあれこれやるには不都合が生じるかも知れないので、とりあえずは自分の身の回りから始めてみよう。そんな風に考えて無意識に髪を編もうとしていたが、そこにあるものが無いと気付き、イグネアはあっと声を上げた。そういえば、髪は先が焼けてしまったため、仕方なく切ってしまったとミリアムが話していた。急に小ざっぱりして物足りない気もするが、無くなったものは戻って来ない。しばらくは長らく続いた習慣で束ねようと勝手に手が動くだろうが、それも最初だけでそのうち慣れるだろう。
 とにかくいつまでも甘えてばかりいられないし! とものすごく前向きにやる気を出したイグネアは、まずは風呂にでも入ろうかなどと考え、さっさと部屋を出た。
 しかし、普通に動けるだろうというのは気持ちだけで、思いのほか身体への打撃は大きかったらしい。
「あれ……?」
 廊下の途中でめまいを感じ、イグネアはへたり込んだ。五日前から今に至るまで食事を一切摂っていなかったのだ。【万能薬(エリキシル)】を摂取していたならともかく、ミールスのせいで普通に寝食取らねば生きていけない今はそうなって当然だろう。
 立ち上がろうとして何度か頑張ってみたが、上手く力が入らずすぐに座り込んでしまう。助けを呼ぼうにも屋敷の住人達は揃って出かけてしまっているらしく、呼んだ所で誰も来ないだろう。最後の頼みの綱(?)のオンブルも、地下にいるためまず無理だ。
 いやちょっとこれは本気でどうしよう……とおろおろしていると。
「大丈夫っ?!」
 焦ったような声が聞こえたと同時に顔を上げてみると、走り寄って来るリヒトの姿が見えた。
「何してるの、こんな所で!」
「い、いえ少し動こうかと思ったら、どうにも力が入らなくてですね……って、ひえええ!」
 話も途中でいきなり抱き上げられ、イグネアは頓狂な声を上げた。
 さすがと言うべきか、“お姫様抱っこ”もお手の物、リヒトはイグネアを軽々と抱え、ゆっくりと歩き出す。しかし以前よりも明らかに軽いと感じてか、その表情はやや渋い。
「そこでミリアムさんに会ったから、早く帰って来てみれば……無理したらダメだよ」
「す、すみません……」
 そうしてあっという間に部屋へと戻されたイグネアは、再び寝台の人へと逆戻りした。
 何か奇妙な沈黙が漂った。上手く言葉が見つけられず、さらに上手く顔を見ることもできず、イグネアはひたすらおろおろした。リヒトは隠しまくっていた正体を知っているのだ。散々騙していたというのに、今さらどんな顔をして話をすればいいのか迷った。
「俺と顔を合わせるの、そんなに後ろめたい?」
 さすが女という女を手玉に取って来た(?)ある意味猛者。表情と仕草だけで思い切りバレたらしい。おろおろと視線を上げるとリヒトの困った表情が見え、少し申し訳なくなってしまった。
「あの、その……」
「うん」
「ずっと、騙していて、その……ごめんなさい」
 それでもなかなか視線を合わせられずにいると、リヒトはベッドの傍らにあった椅子に腰掛け、息を吐いた。
「そう思うなら、もう一度、きちんと話して欲しいな。君の言葉で」
 意味がよくわからずに首を傾げると。
「俺も“おぬし”って呼ばれてみたいな」
 要するに姿を偽らずにプレシウの言葉で話せと言っているのだ。
 ああ、なるほど……と理解して顔を上げてみると、リヒトは穏やかに微笑んでいた。たぶんそれも彼なりの気遣いなのだろう。それで張っていた心はずいぶん楽になり、イグネアは自分の言葉で全てを話した。
 呪いの事も、魔女と呼ばれていた事実も。大戦の時から今に至るまで、何を感じ、どう考えていたのか。ヒュドールに正体を知られた時、嫁を殺された恨みを抱いてリーフが再び現れた時、どんな風に感じたのか。それは言葉にするのは難しかったけれど、それでも自分なりに考えて話した。偽っていた分、本当の事を伝えなければと、そう思ったのだ。
 リヒトはじっと話を聞いているだけだった。イグネアの過去を、全てを知りたいと思っていたのは事実だ。当人の口から告げられた真実は、改めて聞くと想像していたよりも壮絶なものだったが、正直言うと、魔女としての彼女の過去はきっと聞いても現実味のない話だし、もしかしたら全てを信じる事は出来ないかも知れない、と心の片隅では考えていたのだ。
 それでも、これから共にいるためには、イグネア自ら語らせる行為は重要な事である。これから先どんな風になって行くのかは未知だが、一緒にいたいと願うから、少しのわだかまりも消しておきたかった。

 話し終えると、またしても奇妙な沈黙が広がった。
 これ以上言うことないぞ……と内心でわたわたするイグネアをよそに、先に沈黙を破ったのはリヒトだった。
「ヒュドールも言ってたんだけど。正直さ、君がかの有名な【紅蓮の魔女】だって言われても実感湧かないし、今の君からはそんな脅威は少しも感じない。だから、どこか作り話みたいに聞いている自分がいるんだよね」
 受け入れたくないと拒んでいるわけではない。あまりにも非現実的すぎて、あまりにも今のイグネアとはかけ離れていて。全く繋がらないというのが、正直なところだ。
「騎士だ、魔術師だって言っても、俺達は君やリーフのように大きな戦争を経験したことはないから、その壮絶さや辛さ、生きて行く上での過酷さは、どんなに努力しても理解できない。せいぜい書物を読んで、自分なりの意見を持つことしか出来ないだろうね。過去に君が犯した罪、奪った命は戻らないし、許されることではない。それでも君は、科せられた罰や呪いを受け入れて生きて来た」
 黄金の瞳が、真摯な眼差しを向けて来る。
「ものすごく不謹慎だと思われるかも知れないけど、そうでもして生きていなければ、俺やヒュドールは君に会う事はなかったんだよね」
 そしてイグネアが炎の魔術師でなく、単なる娘だったとしたら。「迎えに行って来い」というチョビヒゲの命令もなかった。出会う事などなかったのだ。
「それに、君はカディールからこの町を護った。過去に奪われた命は、自己犠牲で償えるものではないかも知れないけど……他の誰が許さなくても、俺は君を許してあげるよ」
 好意を抱いているからそう思うのではない。これまで辛い思いをして来たのだから、一人くらい、許してあげなければ可哀想だと心から思えたのだ。まあ、一人どころではないのだろうが。
 大きな温かい手がイグネアの手を優しく包んだ。真紅の瞳が見上げた先には、優しく眩しい笑顔があった。その笑顔には不思議と心を落ち着かせる力があり、ああきっと、普通の娘はこういう所に惹かれるのだろうな、とイグネアは初めて理解した。
 心にあったわだかまりが消えると、先程までのよそよそしさは何処へやら、自然と視線を合わせられるようになっていた。平常が戻ったようで、イグネアはほんの少し嬉しくなっていた。
 しかし。
「ところでさ、ひとつ聞きたい事があるんだけど」
 このリヒトの質問が、イグネアを再び平常から遠ざけやがったのだ。
「何でしょう?」
「ヒュドールとキスしたって本当?」
 イグネアは壮絶に青ざめた。世界の端まで飛ばしていたはずの記憶が見事鮮明に蘇り、わけのわからないうめき声を発した。というか、なぜその話をお前が知っているんだ!
「しかも君の方からしたって……俺、君の正体よりもそっちの方がショックだったんだけど」
「はっ……そ、それは、その……!」
 ねえどうなのさ的に詰め寄られ、イグネアは逃げ道を失った。左の傍らに手を付かれ、あげく右手は握られたままである。しかもやたらに距離が近い。内心で悲鳴を上げていると、続いてとんでもない一言が。
「その反応……本当なんだ? どうしよう、あまりの衝撃と嫉妬で、このまま押し倒しそう」
 などと言いつつ、リヒトはぐっと体重をかけてきた。
「ひいいいい!!」
 しそう、じゃなくてしてるだろうが! と突っ込みを入れつつ、イグネアは悲鳴を上げた。
 しかしこのとんでもない行動で、何かに火が付いた。失ったはずの活力が全身にみなぎり、思い切りリヒトの身体を押しのけると、イグネアは脱兎のごとく逃走した。




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