× 第4章 【炎と烙印】 38 ×




 微妙な体勢のまま、イグネアは怒って出てゆくヒュドールの背中を見送っていた。不機嫌をそのまま表現したかのようにけたたましく閉じられた扉が合図となって、途端に思い出したかのように脱力する。
 なんだろうか、ものすごく疲れる……そんな風に思いながら、イグネアはぐったりとベッドに突っ伏し、緊張の糸が解けたように盛大な溜め息を吐いた。
 疲れると感じた最大の原因は、恐らくヒュドールの不機嫌ぶりではない。自分の想いを言葉にするというのは、とても疲れるのだ。それにとても難しい。……まあそれ以前に、あまりの展開の速さに付いて行けない疲労感が最も大きいのだが。
 ぐったりと横たわりながらも、イグネアは色々と考えてみた。思い返すとこっぱずかしい以外の何物でもないが、そこはぐっと堪えて考えた。
 先日“古臭い”と言われたものの、イグネアの中で“男女のアレコレ”が夫婦以外に許されないという考えは未だに変わっていない。というか、千年もの間ずっと信じてきた事がたったの数日であっさり変化したらそれはそれでおかしいだろう。だからこそ、これまでどんなに迫られても頑なに拒んでいたのだ。
 それを踏まえると。膝枕どころかうっかり口付けを許してしまったからには、イグネア式に考えると、嫁に貰ってもらわなければならないわけで。
 枕に顔を埋め、イグネアは「ぐふっ」というわけのわからない呻き声を発した。
 今まで誰かの嫁になりたいとか思った事はなかったが、改めてそんな風に考えると非常に気恥かしいものである。
 ヒュドールは自分の事を好きだと言っていた。以前「それはいずれは嫁にしようという“好き”なのか」と聞いた時には確か、「そうだ」と答えていた。だから一言「お願いします」と言うだけで、二人の間には特別な関係が生まれるわけである。ぶっ飛んで考えれば、いわゆる“夫婦”である。相手が望んでいる以上、他に障害は、多分、ない。
 そう考えると、途端に動悸が起こった。なんだか未だかつてない動悸っぷりに、むしろ心臓が止まるのではないかと思ってしまったほどで、イグネアにとっては衝撃的だった。
 もしかして、もしかしなくとも。
 これが“恋”とかいうものなのだろうか!
 恋というものはある日突然降って来るものらしいが。そしてイグネアはそれがどんな感情なのかはっきりと理解してはいないが……もしや。
 考えるとまたしても動悸が。
 そんな感じで、時折奇妙な呻き声を発しつつ悶々と考え込んでいたイグネアだったが、やがては疲れ切ってそのまま眠ってしまったのだった。

 翌朝は、それまで眠っていた分を取り返すような勢いで早起きをした。まだ空も眠っている時候、窓の外をのぞいても外界は薄暗い。
 いつもならばせっせとメイドの仕事に取り掛かるところだが、いかんせん左腕は使用不可なため、とりあえずやれる範囲で自分のことをやろうと、イグネアは身体を気遣いつつ動き出した。
 どうやら先日服用した【万能薬(エリキシル)】が少しずつ効果を発揮してきたようで、昨日よりも身体の調子は幾分か良い。
 とはいえ、また倒れそうになっても困る。本当は朝一で風呂に入りたかったものの、湯に漬かっている間に倒れたらそれこそ大変であるため、濡れた浴布で拭く程度で我慢した。
 そんな感じで一通り身体を拭き終え、さっぱり爽快な気分で浴場を出て廊下を歩いていると、ちょうど出かけようとしているモルを見かけた。言わずとも、自分が頼んだ仕事を遂行するためだろう。外はまだ暗いというのに、全く仕事熱心である。
「あの、おはようございます。北の山に行かれるんですか?」
 問いかけると、モルは無言でうなずいた。
「たぶんあると思うんです。なので、よろしくお願いします。お気をつけて」
「……了解」
 端的な言葉だけを残し、モルはさっさと玄関を抜けて行ってしまった。
 倒す前に確かに見つけた、カディールの“ある証”。もしもあれが事実ならば、自分にはその後を見届ける責任がある気がした。

 モルを見送った後は、うっかりいつもの習慣で厨房に向かってしまっていた。しっかりエプロンまで装着していたのだから、慣れとは非常に恐ろしいものである。
 自分が眠っている間、朝食の準備はヒュドールがしていたと聞いた。朝は弱いのに……どれだけ気力を盛り上げてやっていたのか計り知れない。まあ、その怒りの矛先は他の住人に向けられていたと安易に想像がつくが。
「せめて、野菜スープだけでも作ろうかな」
 などと言いながら、野菜をごそごそあさっていると。
「………………何してる」
「ひええええっ!」
 静寂の中で背後からいきなり声をかけられ、イグネアは遠慮もなしに悲鳴を上げた。本気でびっくり仰天して振り返ると、耳を塞いだ状態でヒュドールが立っていた。表情はすこぶる渋い。
「………………朝っぱらから、うるさい」
「ひいっ、す、すまないっ」
 疲れ切った溜め息と共に心底うるさそうな顔をされ、イグネアは思わず怯んだ。昨日の今日で顔を合わせるのも微妙な心境であるが、そのあたりは朝のヒュドールには全く通じないらしい。
 ヒュドールの顔色は極めて悪い。青いというより、もはや白い。多分、いや間違いなく立っているのさえ辛いのだろう。言葉の切れ味もすこぶる悪い。
「だ、大丈夫なのか?」
「………………いいから、あっちへ行ってろ」
「そうは言っても、おぬし倒れそうだぞ?」
「………………アンタに包丁握らせるより、マシだ。気付いたら血の海とか、血入りのスープとか、本気で勘弁して欲しい」
「うっ、それはそうだが……」
 というか、朝っぱらからなんとえげつない事を言うのだろうか。
 それでも往生際悪くオロオロしていると、溜め息をひとつ、ヒュドールがこちらを向いた。
「……怪我人を働かせるほど、俺は鬼じゃない。面倒をかけたくないと思うなら、頼むからあっちへ行っていてくれ」
 思い切り睨まれた挙げ句に文句でも言われるかと、一応の心構えをしていたのだが。意外にもやんわりと願われ、イグネアは少し拍子抜けした。
 そこまで言うなら……と理解し、イグネアは邪魔しないようにと居間へと移動した。ここにいれば何かあってもすぐに動けるし大丈夫だろう。そんな感じで、しばらくぼんやりとソファに横たわってゴロゴロしていた。

 そんなこんなで、数十分後。オンブルの設定した時刻ぴったりに朝食の準備は整い、イグネアは意気揚々として席に着いた。というか時間ぴったりというのもある意味神業である。まあ、オンブルに文句を言わせないための意地なのだろうとは思うが。
 さすがはヒュドール、手抜きという言葉を知らないのか、朝っぱらから見事な料理の数々である。こんな贅沢が許されていいのだろうか、とほんのり機嫌を良くしていたイグネアであったが、突然に降って来た強烈なまでに不穏な空気を感じ取り、ぴたりと手を止めた。そうしてゆっくり視線を上げると、何やら猛烈に険悪な空気が辺りを包んでいるではないか。
 まずリーフ。けだるげな顔で現れたかと思えば、その仏頂面のままどっかりと隣に座り、そして終いには何が気に入らないのか舌打ちまでする始末である。
 続いてリヒト。普段は眩しくて見ちゃいられないほどの笑顔を振りまいているくせに、今日はなぜか不機嫌で、しかもそれを惜しげもなく表情に出しているのだ。
 でもってヒュドール。二人の“不愉快・不機嫌”の向かう先は彼にあるようだが、如何せん本人は全く微塵もこれっぽっちも気にしちゃいないのだ。あれはきっとあえてだろう。あえて無視しているのだ。さすがというか、ある意味猛者。それがかえって二人の感情を煽っているのは明らかである。
 なんだろうか、この険悪すぎる空気は……内心で非常にうろたえつつ、イグネアは身を縮こまらせていた。せっかくの料理もうまく喉を通らない。というか正直息をするのさえはばかられる状況である。ちなみに当然というか、会話は一切ない。
 一体この嫌な空気はいつまで続くのだろう。非常に居た堪れない思いをしていた矢先。
「ああ……久々のまともな食事だ……!」
 死にそうな声と共に現れたのは、朝のヒュドール以上に顔色の悪いオンブルであった。
 これはいいところにやって来たな! などとオンブルの登場にほんのちょっぴり喜んだイグネアは、空気を変えようとして無理やりに口を開いた。
「おはようございますオンブルさん。ささ、早く座ってくださいな」
 ぐったりとして倒れそうなオンブルの腕を掴み、席まで連れて来る。イグネア的には「さっさと座らんか!」という感じだったのだが、そんな事に気付いてもらえるはずもなく、リヒトおよびリーフどころか、今度はヒュドールのお怒りまで買うことになったのである。……まあ、イグネア本人は全くこれっぽっちも気付いていないが。
「魔女様、お加減はもうよろしいのですか?」
「へ? ああ、【万能薬(エリキシル)】のサンプルのおかげでだいぶ良くなりました。どうもありがとうございます」
 すると、オンブルは途端にぱあっと明るい笑顔を浮かべた。しかし目の下にくっきりと“クマ”が刻まれたその笑顔は、申し訳ないことに正直不気味である。
「そうですか。それは良かった。貴女のために、寝る間も惜しんで作りましたから」
 などと言いつつ、きらきらと瞳を輝かせてがっちり手を握っているし。
「い、いや、それはどうも……」
 背中に凍えるような殺気が突き刺さり、イグネアは恐る恐る背後に視線を向けた。そうして思い切り頬を引きつらせて青ざめる。
 青碧と黄金と深緑の瞳が、何だか今にも“やらかしそう”な視線を向けているではないか!
「と、とりあえず食べましょうか!」
 と無理やりに明るく振舞って再び席についたと同時、イグネアの前に派手な音を立てて茶の入ったカップが置かれた。その際中身が大いに飛び散ったが、ここは突っ込んではいけないのだきっと。
 ひいっ! と心中で悲鳴を発しつつ見上げてみれば、もはや殺意に等しい冷ややかな眼差しを浮かべる青碧の瞳があった。
「そうか、ならば今日も寝る間を惜しんで作成に励め。明日中に完成するようにな」
 きつい毒舌はオンブルに向けられているのに、何でか青碧の瞳はこちらを向いている。イグネアは絶対に瞳を合わせないよう、視線を泳がせまくっていた。
 さらに。
「そうそう。“魔女様”もそれを切望されているようだよ。ねえ?」
 嘘くさいほどに爽やか極まりない笑顔を向けてきたのはリヒトである。目が笑っていないのは、見間違いでも何でもないはず。
 そしてさらに。
「いや、むしろいつまでかかっても良いぞ。お主が苦しみながら【万能薬(エリキシル)】作成に励む姿は、見ていて(わし)も辛い。心置きなく納得の行くまで時間をかけて作るが良い」
 まさか貴様、小僧共よりも儂の意見を取り入れるのだろうな? という無言の圧力(または脅しともいう)をかけて、リーフがにっこりと愛嬌のよい笑顔を向けてきた。
 要するにヒュドールとリヒトはさっさと呪いを解いてイグネアを連れ帰りたいと考えており、対するリーフは帰りたくないがために、わざと時間を稼ごうとしているのである。
 一気にあれこれ注文されたオンブルはというと、イグネアに命令されるのは構わないが、他の住人に文句等を言われる筋合いはない、とやたら強気でムッとしていた。
「だから、寝る間も惜しんで励んでいると言っているだろう。あまり無茶を言わないでもらいたい。ところで、モル君の姿が見えないが?」
「あ、モルさんなら、私がお使いを頼みました。たぶん、今日は遅くなるのではないかと……」
 言うやいなや、またしてもあちこちから視線を向けられた。というか、何なのだこの状況は。
「なんとそうでしたか。ならば結構」
 どうやらモルを助手に引っ張って行きたかったようだが、イグネアの用事の方が重要だとか言って、オンブルはあっさり引き下がった。これまでと対応が百八十度違っていて、何ともやりづらい感が募るばかりだ。
 それはさておき。
「わざわざ儂に許可を得てまで、あやつに何をさせているのだ」
 リーフが問うと、すぐさま向こうの方でヒュドールが不愉快そうな顔をしたが、もうこの際気にしないことにした。たぶん「またコソコソしやがって」と言いたいのだろう。
「実は、その……先日カディールと闘った時にですね、“あるもの”を見つけてしまったのです」
「あるもの?」
 誰ともなしに口にした問いに、イグネアは深くうなずいた。
「カディールの腹部に、赤い斑点が見えたのです」
 その言葉で、リーフだけは何の事か理解したようで。
「成程……出産した直後に現れる紋様だな」
「どういう事だ?」
 ヒュドールが問うと、深緑の瞳がすぐさま見返した。
「卵を産んだ直後のカディールは、腹部に赤色の斑点が浮かび上がる。それは偽物も本物も変わりない。つまり先日倒した本物は、まさに出産を終えたばかりだったという事だ」
「私達が見つけた時、あのカディールは巣に産み落とした卵を守ろうとしていたのだと思います。きっとあの巣には、いまも卵が残ったままだと思い……それで、モルさんに探してきてくれるよう頼んだのです」
 イグネアが事情を説明すると、美形共およびオンブルは成程、と納得していた。
「それは理解したけれど、探してもらってどうするつもりだったの?」
 リヒトに問われると、イグネアは一瞬躊躇って後、言葉を続けた。
「その……たとえ害鳥とはいえ、私達の都合で親を殺したのです。だからその、何というか、責任を取らなければいけないような気がして……」
「だからと言って、(かえ)った後はどうするつもりだったのだ。あのように巨大な鳥、飼い馴らせるとでも思っておったのか? それに、カディールが一度に産み落とす卵は一つではない。その辺りは当然理解した上の行動なのだろうな」
「うっ、それはその……」
 リーフの指摘に、イグネアはうっと怯んだ。別に飼おうとか思っていたわけでもないのだが、卵といえばいずれ孵るのは当たり前のことで、そうなった後、世話をしなければならないのは当然の流れで。しかも相手は古より魔鳥と呼ばれて来た鳥だ。育てたところで懐くとも思えない……などと付け加えられ、ついに返す言葉を失った。
「まあ、いいじゃない。育ててみれば案外可愛らしいかもしれないよ? 魔鳥を飼い馴らすなんて機会、そうそうあるものじゃないしね」
 リヒトが賛成めいた発言をすれば。
「無茶を言うな。大体にしてあんなデカイ鳥、何を食うんだ。人間か? 餌代だって馬鹿にならないし、世話出来るはずがないだろう」
 ヒュドールがすこぶる面倒くさそうに反対する。
 確かに皆の言う事はもっともで、それでイグネアは自分の考えが甘かったと痛感した。そうして気付けば無言になり、その場に妙な沈黙が落ちる。まるで、捨て犬を拾って来たあげくに「返してきなさい」と反対された子供のようである。
 そんな中、意外な人物が賛成の意を表した。
「待ちたまえ。手近に置いておいて損はないと思うぞ」
 意外な意見を発したのは、なんとオンブルである。
「あくまで偽物と比較した場合の話だが……本物のカディールが産み落とした卵は、万能の血を受け継いでいる確率が高い。血を受け継いでいたと仮定した上で話をするが、無事孵化に成功し、成長して血を採取する事が可能になれば、今後も【万能薬】を作り続ける事が出来る。流石にプレシウレベルの濃度では常人に害を及ぼす可能性はあるが、濃度を薄めれば薬として役立てる事も十分可能ということだ」
 神経質そうに眼鏡を押し上げつつ、オンブルが(珍しく)えらくまともな事を言った。皆一様に意外そうな顔をしたのは言うまでもない。こうしてもっともな意見を言っていると、なんだか本物の研究家っぽい。
 そしてその発言に喜んだのは、案の定イグネアである。
「そ、そうですよね! いやさすがはオンブルさん、話がわかりますね!」
「お褒めに与かり光栄です、魔女様。巨大さの件、そして奴らの防衛機能についてはこの私めが何とかいたしますゆえ、どうかご安心を。【万能薬】を薬として売る事が出来れば、私の懐も安泰ですし。それもこれも全ては魔女様のお考えがあってこそです」
 と言いつつ、オンブルはどさくさに紛れてまたしても手を握っているが、まあこの際気にしない。
 何だか上手く丸め込まれているイグネアをよそに、三人は「結局目的はそこか」と遠慮もなしに頬を引きつらせていたが。
 果たしてカディールの卵が無事孵化するのか、それ以前に卵を入手することが出来るかは謎であるが、結局イグネア(とオンブル)の意見は取り入れられ、とりあえずモルの帰宅を待つこととなった。




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