× 第4章 【炎と烙印】 39 ×




 揃いも揃って住人たち(オンブル除く)が出払った昼近い時候、屋敷にはマイルを連れてミリアムがやって来た。製菓店は休業中、夫のハンスも町復旧の手伝いに出ているため、家事がひと段落すると時間が出来るようである。イグネアが目覚めたとはいえ家事は無理なので、それで気を使って手伝いに来てくれたのだ。
「どうもすみませんです」
「いいのよ。お昼作るのは一度だし、皆で食べたほうが楽しいでしょう」
 申し訳なさそうに言うと、ミリアムはにっこり笑顔で返してくれた。
 ミリアムが厨房にて食事の支度に取りかかっている間、イグネアは居間でマイルと遊んでいた。人見知りが激しいというが、屋敷にもすっかり慣れたのか遊びに来るたびに元気いっぱいだ。ふわふわのじゅうたんの上で跳ねたり笑ったりとすこぶる楽しそうである。ひとりで立てるようになったとはいえまだまだ不安定で、時折転びそうになったりするがもはや愛嬌だ。
「ほらほら、あんまりはしゃぐと危ないですよ」
「あい」
 すかさず手を伸ばして支えてやると、マイルは愛らしい笑顔を向けてきた。口調もたどたどしく、不完全な返事だが、それがいっそう可愛らしい。
 なんだろう、この言葉に言い表せない感情は。今すぐ抱きしめたい衝動に駆られ、イグネアは思わずぎゅっとしていた。マイルはきょとんとしていたが、抱きしめられると安心するのは子供ならではなのだろう。
 あの時、命を懸けて闘ってよかったと思えた。小さな命を見捨てるような事になっていたら……この笑顔を二度と見られなくなったとしたら、本当に後悔しただろう。だから護れてよかった。
「あら、どうしたの?」
 ちょうどその時、支度を終えたミリアムが居間に入ってきて、運んできた昼食をテーブルに置きながら不思議そうに首を傾げていた。
 ちなみに余談だが、オンブルの昼食はすでに地下へ運搬済みらしい。さすが気配り上手である。イグネアが目覚めるまで屋敷の家事全般を担ってくれていただけあって、こちらもすっかりアレコレ慣れている様子。
「その、なんだか可愛らしかったので、つい」
「ふふ、その年頃が一番可愛いんですって。でもすぐ可愛げなくなってきちゃうって。男の子は大きくなるにつれて特にねって、近所の奥様方が言ってたわ」
「そういうものですか?」
 と言いつつも、普段可愛げのない屋敷の男共を想像してみれば何となく理解できる。リヒトはまあともかく、ヒュドールにしてもリーフにしても気は強いし毒は吐くし、オンブルやモルに至っては変人と呼ぶに相応しい。きっとああいう事なんだろう(ちょっと違う)。
「男の子は力も出て来るし、そのうち口答えとかされちゃうかも。でもそれでも優しい子に育ってくれればいいと思ってるわ。ね、お兄ちゃん」
 口に運ばれた物を咀嚼しながら、マイルはくりくりと愛らしい瞳を瞬かせながら小首を傾げていた。ミリアムの言葉の意味も理解していないだろうが、マイルはもうすぐ“兄”となるのだ。他に家族のない身には、兄弟や姉妹の絆というものはわからないが、優しい兄になってくれればいいなとイグネアも切に願った。
「あっ」
 ふいにミリアムが声を上げた。
「どうしました?」
「いま、動いたのよ」
 何のことやらわからずに傍へ寄ると、ミリアムは大きく張ったお腹を優しくさすっていた。
「えっ、動いたって……もしやお腹の子ですかっ?」
「そうよ。最近よく動くの。もしかしたら、また男の子かも」
 あんまり元気だから、とミリアムは嬉しそうに笑っていた。
「触ってみる?」
「ええっ、いいんですか?」
 と言いつつも、わくわくしながら遠慮なく手を伸ばし、イグネアはミリアムのお腹にそっと触れた。その感触に気付いたのか、トンと内から反応があった。
「おお!」
 何とも言えぬ感動が手のひらから全身に伝わった。赤子とは母の胎内にいる頃から動くものなのか。全く生命とは素晴らしい。何度も何度も返ってくる反応がたまらなく嬉しかった。マイル同様、この子も護れて本当に良かった。
 あとは無事に産まれてくるだけだな……などと考えているうち、イグネアの心の中には特別な気持ちが生まれていた。そしてその気持ちは、夜になる頃には確かな“決意”へと変わるのだった。


 午後になるとミリアムとマイルは帰ってゆき、入れ替わりで帰宅したのはリヒトである。朝は猛烈に不機嫌だったが、外出したおかげかすっかり治っている様子。
 いつもは夕方まで戻らない面々のはずが、今日に限ってなぜか早い。リーフはともかくとして、そのうちヒュドールも戻ってくるだろうという。その理由を尋ねてみると。
「明後日の朝にはここを発たなきゃならないから、その準備だよ。明日は時間がなさそうだし、今のうちにやっておかないとね」
 答えを聞いて、イグネアはあっと声を上げた。そうだった、二人は明後日にはこの屋敷を発たなければならないのだった。
 いずれは自身も帰るとはいえ、それがいつになるのか未定だ。【万能薬(エリキシル)】が出来るのは早くて五日というが、それも定かではない。数か月か半年先か……あるいはそれ以上かかる可能性もある。それだけ長く離れることを考えると、やはり寂しい感じがした。
 その気持ちは思い切り表情に出ていたらしい。ふっと笑いがもれたかと思うと、見上げた先には少し困ったようなリヒトの微笑みがあった。
「その気持ちは、少しは俺にも向いているのかな」
「え?」
「今ちょっと寂しいなって考えてたでしょう? 俺にもそう思ってくれているのかなって」
「……? もちろんですよ?」
 何を当り前のことを言っているのだろうか、とイグネアは首を傾げた。案の定、リヒトの真の意図はさっぱり理解していないのだが。
「本当かなあ?」
 と言いつつ、リヒトはどさくさに紛れてしっかりと手を握り、気付けばイグネアは壁際に追い込まれてしまっていた。
「ひっ、なんですかいきなり。近いですよっ。というかなぜに手を握るのですか」
「質問に答えてくれたら離してあげる……かも知れない」
「かも知れないって、なんですかそれ!」
「返答次第では離さないかもってこと。ねえ、ヒュドールのこと好きなの?」
 問いかけられた途端、イグネアはさっと青ざめた。
「なっ、なな、なぜそう思うのですか。というか、いきなりそんな事を聞かれても……!」
 普通の娘ならばこういう時は赤くなるものだが。青ざめて慌てるイグネアの姿に、リヒトは内心で笑いを堪えていた。相変わらずこの手の話題は苦手らしい。
 しかしここは割と真剣な雰囲気で話を進めないと口を開かないだろうなと考え、リヒトはすこぶる真面目な顔をしてみせた。さすがは女という女を泣かせてきたある意味の猛者、イグネアのように何でも態度及び表情に出す相手はお手の物である。
「あの状況なら誰でもそう思うよ。まあ君が軽々しく唇を許したとは思えないから、選択肢は二つ。あいつが(珍しく)強引に迫ったか、事故……このどちらかだと俺は推測しているんだけど」
 意外にも的を射た推測ぶりに、イグネアはうっとうめいた。何という勘の良さ、敵に回すと恐ろしそうな相手である。今更だが、よく秘密がばれなかったものだ。
 自分で言っていたから仕方ないのだが……口付けひとつでここまで大袈裟な展開になるとは思いもしなかった。というか何故にリヒトやリーフに知られているのか未だに謎なのだが。
「古風な恋愛観を持っている君だからこそ、理由が何であれキスした事が引き金になる可能性はすこぶる高い。それにヒュドールは君の正体も知っていた。二人だけの秘密があるっていうのは、当人が思っているよりも親密度が上がるものなんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「うん」
 その証拠に、ヒュドールがいい例である。もしもイグネアがただの娘だったら恐らくここまで深入りしなかっただろうし、秘密を知り、命を掌握していたからこそ、責任感の強い彼は他者からイグネアを護ろうとしたのだろう。その結果、イグネアを特別な目で見るようになり、己の領域にも易々と入れるようになったのだ。
「だからこそ俺は君の気持ちが知りたい。付け入る隙がまだあるのか、それとも全くないのか。愛しい君の恋を応援してあげたいところだけど、残念ながらそんな余裕は微塵もなくてさ。俺とした事が、すっかり心奪われ状態だからね。手に入るなら何でもするし、許されるなら今ここで押し倒したいくらいなんだけど」
「ひいいい!」
 何だその壮絶にこっ恥ずかしい脅し文句は! とイグネアは青ざめた。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるも、如何せんうっかり手を握られているため侭ならない。
 大体にして、その“好き”という感情が未だによく理解できていないのだ。共に帰りたいと想った心を“恋”と呼べるならば、きっとヒュドールのことを“好き”なのだろうが……よくわからない。“好きか嫌いかの真っ二つに分ける”ヒュドール式で言えば、屋敷の住人も町の人々もみな好きだが。
 けれど、リヒトは明確な言葉をもらえるまで離してくれそうにない。ねえどうなのさ的に再度詰め寄られ、イグネアはついに逃げ場を失った。なんだこのつい最近体験したような展開は! と大いに焦っていると。
 予期せず、リヒトの背後からぬうっと顔が飛び出してきた。
「ぎゃあっ!」
 イグネアは踏みつぶされた猫のように無様な悲鳴を上げた。その悲鳴にリヒトも驚いたようで、若干血相を変えて振り返る。
 いつの間に忍び寄っていた……というか帰宅したのか、背後に立っていたのはなんとモルだ。
「うわっ、びっくりした」
「全くですよ! いきなり現れないでくださいっ」
 二人同時に驚きの言葉を投げかけるも、当のモルは何の事やらと至極冷静に佇んでいた。
「……見つけた」
 何を、と問う前に何かが差し出される。
 すかさず出したイグネアの両手の上には、真っ白な、若干大きめな卵が乗せられていた。
「これはもしや!」
「……カディールの卵」
「おお! あったのですか!」
「……ひとつだけ」
 そうとだけ言い残し、モルはさっさと廊下の向こうへ消えてしまった。夜までかかるのでは? と思っていたが、さすがと言うべきか仕事が早い。
「どうでもいいけど、いい所で邪魔するのも仕事のうちなのかな」
 他人というか人間に興味なさそうな感じだけれど、案外気があったりして……などと心中で呟きつつ、リヒトは卵を手に瞳を輝かせているイグネアに視線を落とした。
 リヒトだけでなく、ヒュドールやリーフも常々肝心なところで邪魔されている感じがするのだが、モルにしてみれば彼の仕事はイグネアの護衛であり、彼女が“危機”と感じた状況にあればさりげなく救出するのも仕事だと思っているようである。が、如何せん言葉少ない変人であるため、他者がその真意を知る術はなかったりする。

 さて、無事に(?)カディールの卵を入手したイグネアは、さっそくオンブルを地下から呼びつけた。もはや犬のごとくイグネアに忠実なオンブルは、作業途中であるにも関わらず驚くべき迅速さでもって居間へと現れ、待ち構えていたイグネアとリヒトを唖然とさせた。「さあ何でもお聞きください」とばかりに意気揚々としているし、全く変わり身の早さも変人レベルである意味見事だ。
「なるほど、これがカディールの卵か!」
 手にした巨大卵をしげしげと眺めつつ、オンブルは非常に嬉しそうである。
「魔女様は、過去にご覧になった事はあるのですか?」
「いえ、私も初めて見ました。こんなに大きいものなんですね」
 真っ白なカディールの卵、その大きさは人間の頭ほどもある。さすがは魔鳥、普通の鳥とは卵からして規模が違うらしい。
「カディールは、幼鳥のうちから防衛本能を備えている。だが、親や仲間と認められれば襲われることはないだろう。まあ、それ以前に無事に孵化させることが重要なのだが」
 持ち出してきた分厚い資料をぺらぺらとめくりながら、オンブルは神経質そうに眼鏡を押し上げつつブツブツ呟いている。
「どれくらいで、孵るのでしょうか?」
「リーフ君の話によれば、親の腹に赤い斑点が浮かんでいる期間はひと月半程度とのこと。すでにひと月が経過しているのか、産み落とされて間もないのか、この状態では判断しかねますね。そもそもカディール自体規格外ゆえ、一般的な鳥類の常識は通用しないと思った方が良いでしょう」
 なるほど、とイグネアとリヒトは頷いた。
 小鳥の卵であれば数日で孵るが、大型の鳥ではひと月ふた月要する場合もあるという。それを考慮すると、あの巨大さならばもっと時間がかかる可能性も高い。
「とりあえず温めていれば孵るかな?」
 と言いつつ、リヒトはどこからか持ち出してきた毛布で卵を包んだ。腕に抱えていると何だか赤子をあやしているようにも見える。
「これを毛布の間に入れておくといい」
 オンブルが差し出したのは一枚の符で、カディール対策の護符に酷似していた。受け取ったリヒトは不思議そうに眺めている。
「何ですかこれ」
「微熱及び湿気を発する符だ。ただ毛布に包んでいても孵らないからな。それでより孵りやすい環境が生じるだろう」
「なるほど。それにしても随分と用意周到ですね」
 若干疑わしげな視線をリヒトが向けると。
「な、何だねその疑うような瞳は! 私は魔女様のためを思い準備をしていただけだ! 失敬な!」
 と言いつつ、オンブルは神経質そうに眼鏡を押し上げ、わざとらしく咳払いをした。
 そのやたら焦っている様子で、これは間違いなく【万能薬(エリキシル)】目的だな……と確信し、イグネアとリヒトは苦笑していた。




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