× 第4章 【炎と烙印】 40 ×




 オンブルの説明によると、鳥の卵とは温めるだけでなく適度な湿度が必要らしい。そのうえ、数時間ごとに転がす作業が必要らしい。
 ということで。負傷中のためにやる事がないイグネアは、その後居間に入り浸り、ソファに座ってひたすら卵を抱えていた。温度と湿度はオンブルが周到に用意した符で補えるとして、時間がきたらしっかり転がさねば! とやる気満々である。
 真っ白で丸い卵はかなりの巨大さと重量感を持っているものの、イグネアにはそこはかとなく可愛らしく見えるようで、軽く一時間以上ひとりデレデレしていた。
「そんなに眺めてても、すぐには孵らないよ?」
 声をかけられて顔を上げると、リヒトが苦笑していた。出立の準備は粗方終了したようで、二人分の茶を乗せたトレイを手にイグネアの隣に座った。
「嬉しそうだね」
「ええ、だって可愛いんですよ。ほらこの辺りの丸みとか、こっちの方の白さとか、ちょっと他にはない愛らしさではないかと」
 イグネアは瞳を輝かせ、非常に理解しがたい可愛さを主張した。卵が孵るのが待ち遠しくて仕方ないらしく、楽しそうである。
 そんなイグネアに、黄金の瞳が静かに向けられる。
 何と言うか……カディールの卵はその大きさ・重さゆえに、見ようによればちょっと不気味だ。それを可愛いと言っているイグネアの感性は若干疑っても良いとして、リヒトにしてみれば卵自体ではなく、卵を可愛いがっているイグネア本人の方が可愛く見えているわけである(恋は盲目状態)。
 抱えているのは赤子ではないが、こうして並んでいるとまさに新婚みたいだ……というリヒトのおかしな思惑になど全く微塵も気付かず、イグネアは卵に夢中になっていた。ゆえに気付いた時には距離がやたらと近くなっており、案の定慌てる始末である。
「ち、ちょっと近いですよ!」
 と言いつつ身を引こうとするも、膝の上の卵が意外に重くて上手くいかない。そうしている間にもリヒトはさらに身を寄せてきて、ソファの背もたれに片腕を乗せちゃって、今にも迫りそうな勢いである。
「俺は卵より、君を可愛がりたいな」
 などとこっ恥ずかしい台詞を吐きつつ、リヒトはもう片方の手でイグネアの髪に触れた。
 何だこのさっきの延長戦のような展開は……! とイグネアは青ざめ、返す言葉も見つけられずにひたすら固まっていた。逃げ出したくとも下手に動けば大切な卵を落としかねない。というか正直重たい。
 しかしその姿は、リヒトには違って見えたようで。
「そうやって恥じらう様が、また俺の理性を吹き飛ばそうとするんだよ」
「は、は?」
 訳がわからず困惑するイグネアの顎を、リヒトの長い指が捕える。そうして強引に首を捻らされた先には、胸やけしそうなほど甘ったるい眼差しを浮かべる黄金の瞳があった。
「……今キスしたら、俺のこと好きになってくれる?」
 一体この人は何を言っているんだろうか、と心の中で別の自分が上げる声を聞きながら、イグネアは壮絶に青ざめていた。一般的な乙女ならば、もう間違いなくこの視線と台詞だけで天国どころか地獄の底にまで堕ちてしまいそうな口説き文句だが、イグネアにとっては異界の呪術か何かにしか聞こえない。
 いやいや、したからと言って好きになるとかそういう問題じゃないだろう! と考えている間にも、確実に危機は迫っている。何だかもう逃げられそうにないやも! という焦りでついついうっかり力がこもり、イグネアは卵をぎゅっと抱きしめてしまっていた。
 すると。
 パリッという軽快な音が胸元から聞こえ、真紅の瞳が瞬いた。それはリヒトの耳にも届いたようで、危うくな際でぴたりと動きを止め、視線を落とす。
 イグネアの腕の中、白い卵には見事な亀裂が走っているではないか。
「ひいっ! 割れてしまいましたよっ!」
 どうしてくれるんですか! とでも言いたげに、イグネアは壮絶に青ざめた。うっかり力を入れてしまったのは自分だというのに、全く他人のせいにするとはある意味都合の良い女である。
 割れた原因にされたリヒトはというと、イグネアの奇妙な悲鳴を耳に留めつつも、慎重に卵の様子をうかがっている。
「いやちょっと待って。これは力を入れたせいで割れたんじゃないよ」
 卵の殻はちょっとやそっとで割れそうにもない分厚さである。たとえば大人の男が力任せに圧迫したならともかく、イグネアの細腕、しかも片腕負傷中の力など所詮たかが知れたものだ。
「もしかして、孵るんじゃないかな」
「えええっ?!」
 いや持ち帰ったばかりで早速孵るとは……嬉しいけれど、何だか急展開で焦るばかりである。
「どど、どうしましょう!」
「とりあえず、自分の力で出て来るのを待ってみよう」
 困惑しつつもイグネアは頷き、毛布に包んだままの卵を床に置いてじっと見守る事にした。
 卵の殻はパキパキと音を立てながら少しずつ、けれども確実に割れて行く。やがて内側から小さく鳴き声が聞こえ、割れた隙間から灰色の羽が時折のぞく。
 そうして見守る事、約数分。
 静まり返っていた居間に産声が響き渡った。

「キエエエエーーッッ!!」

 正直、不気味。
 これが二人が抱いた第一印象だった。
 見てくれは一般的な鳥のヒナと相違なく、幼さ特有のぎこちない動きも相まって、まあ普通に可愛らしい。卵の中である程度の成長を遂げるのだろうか、表面はすでにくすんだ灰色の羽毛に覆われている。成鳥のカディールは見事な七色の翼をしているが、それは成長してゆく段階で生え変わるのだろう。瞳の色は親と同じ翡翠色で宝石のように綺麗だ。卵の巨大さ相応しく、一般的なヒナ鳥よりもはるかに大きい。人間の頭くらいはありそうである。
 とりあえず見てくれは、まあ可愛い。
 問題は鳴き声だ。
 成鳥の声は透き通るような美しいものである。害鳥でなく、またあの巨大さでなければ飼っても良いと思え、午後のティータイムのひと時を優雅に彩ってくれそうなほどに。
 しかしヒナの声は、むしろそれ自体が害になるのではないかと思えるような耳障りなものなのだ。
「こ、これは予想外でしたね……」
「たしかに。見た目は割と可愛いんだけどね……」
 鳴き声を上げつつ、小さな翼を羽ばたかせて迷子のように彷徨うヒナを見つめ、二人は思わず苦笑した。
 ともあれ、無事に孵ってくれたことは嬉しい限りで。
「触っても大丈夫でしょうか?」
 と言いつつ、イグネアは床を這うような体勢を取り、ヒナの目線に高さを合わせた。怯えさせないようにとの配慮である。被害をこうむってもいいように……とわざと負傷中の左手を伸ばし、ゆっくりと慎重に近づける。ヒナは鳴き止み、しばし不思議そうに小首を傾げていた。
 包帯からのぞく指先が、微かにヒナの翼に触れる。ヒナはびっくりしたように一瞬膨らんだ。オンブルの話だと生まれたてでも防衛本能があるとの事だったが、翼に触れても痺れはしなかった。代わりに特有の温かさを指先に感じ、次第に手の中へと広がってゆく。ヒナが自らすり寄って来たのだ。一応仲間と認められたらしい。
「おおお……!」
 柔らかく温かな感触に言い表しがたい感情が生まれた。
 若干耳障りではあるが、小さな鳥が一生懸命に翼を伸ばし、声を上げ、そこに確かな命があると主張する姿は感動以外の何物でもない。
 イグネアは慎重にヒナをすくい上げた。真紅の瞳がじっと見つめると、ヒナは嬉しいのかさらに鳴き声を上げる。若干耳障りだが、この際問題ではない。
 翡翠色の瞳を見つめて、イグネアはうっとり……いやむしろデレッと締り無く表情を崩した。そんな中でも、ヒナは相変わらず奇怪な鳴き声を上げまくっているが。
「可愛いですね!」
 満面の笑みを浮かべ、イグネアは振り返る。
 その笑顔に、リヒトは一瞬目を奪われた。今までこんなにも明るく輝くイグネアの表情を見た事が無かったからだ。
「うん、可愛いね」
 むしろ君がね、と心の中で付け加え、リヒトは自分も触れてみようとしてヒナに手を伸ばしたのだが。
「……?!」
 灰色の羽毛に、ほんの少し指が触れた瞬間。異様な感覚が指先から腕に流れ、終いには全身に伝わった。くらり、と眩暈に似たものに襲われ、リヒトの身体は意図せず大きく傾いた。
「ひえっ! ど、どど、どうしたのですかっ?」
 傾いたリヒトは隣にいたイグネアにもたれかかり、細い肩にはずっしりと重圧がかかった。過去にヒュドールがそうなったように、イグネアの肩にもたれてぐったりと休憩状態のリヒトは、そのまましばらく微動だにしなかった。
「ごめ……やら、れた……」
「は、はあっ?!」
 リヒトは言葉を発するのも苦しいらしい。
 もしや、とイグネアは気付いた。もしやこの子は、リヒトに麻痺攻撃を仕掛けたのではなかろうか。
 それはまずい! いやその前に、この状態はいかがなものか! とイグネアは青ざめつつ非常に慌てた。リヒトの方が背もあるし体重もあるため、ヒュドールの時以上に肩が重いのだ。床に手をつき、完全に倒れ込むのだけ辛うじて防いだのは、恐らく騎士としてのプライドが勝ったためだろう。
 いやしかし、この状態が長引けばさすがに倒れてしまう。というか、すでに限界っぽい。さらには首筋に髪が触れて非常にくすぐったい。と言って突き飛ばすわけにいかず、イグネアはひたすらおろおろしていた。
 そこへ。

「貴様らは一体何をしている……!」

 凍りつきそうなほど冷えた声色と共に登場したのは、不機嫌・不愉快最高潮と思わしき白銀の魔人だった。青碧の瞳には限界を超えそうな……いやむしろすでに超えてしまったのであろう怒りを湛え、口から吹雪でも吐き出しそうな、そんな勢いさえ感じた。
「い、いやこれは、その、この子がですね……!」
 というか、なぜ自分は言い訳めいたことを必死にしているのだろう? と心の片隅で疑問に思いつつも、今はそれよりリヒトをどかしてもらう事の方が先だったと思い出す。
「そ、そんな事より! リヒトが非常事態なので、ちょっと手を貸していただけませんか!」
「はあ?!」
 すこぶる不愉快そうな返事をして、ヒュドールは眉間にしわを寄せた。この状況のどこがリヒトの非常事態だと言うんだ。むしろ危険なのはお前の方だろうが! と心中どころか大いに口に出しつつ、ずかずかと近づいてゆく。
「おいリヒト! いい加減に……」
 と怒鳴りかけたところで、ようやくリヒトの異変に気付いたらしい。ヒュドールは身に覚えのある彼の様子に瞳を見開いた。
「どうした、しっかりしろ! どうなってる?!」
「この子に触れようとして……恐らく、攻撃されたのだと思います」
 イグネアの手の中で(鳥なりに)勝ち誇った表情を浮かべている灰色の物体を見て、ヒュドールはもう一度目を見開いた。
「これはまさか」
「カディールのヒナです。先程モルさんが持ち帰って来た卵が運よくすぐに孵ったのですが、恐らく防衛本能が働いてリヒトに攻撃を……」
「アンタは平気なのかっ?」
「ええ、ちっとも」
 何だそのあからさまな贔屓ぶりは! と内心で激しく毒づきつつ、ヒュドールはヒナを睨みつけた。
 睨まれたヒナはというと、鳥なりに涼しげな表情を浮かべたまま、イグネアの手からぱたぱたと羽ばたき、何でかヒュドールの頭の上に降り立った。どうやら白銀の髪が親の尾に見えたらしい。そして案の定そこで奇怪な鳴き声を上げ……ヒュドールの怒りを増長させた。
「このクソ鳥め、やかましいっ!」
 氷漬けにして海に捨ててやる! と微妙に恐ろしい台詞を吐きつつ、ヒュドールはヒナを掴もうとしたが――
 結果は、見事にリヒトと同じである。
「くそっ……俺も、か……」
 ばたり、とじゅうたんに沈んだヒュドールと、そして未だ復活できずに転がっているリヒト。
「お二人とも、しっかり!」
 二人の様子を、イグネアは微妙に焦った様子で眺めることしか出来ずにいた。




←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007− Coo Minaduki All Rights Reserved.