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 エレフにやって来てから、二週間が経っていた。
 メリーアンは、マリアの取り計らいで村のパン屋で働いていた。店は気の良いおばさんが経営しており、彼女も働き者のメリーアンを気に入ってくれていた。その上売れ残ったパンを分けてくれたりするので、正直を言うと経済的にも非常に有難かった。今では仕事にも精を出す日々を送っている。
 一方サージュは村医者の手伝いをしていた。身体を心配する姉のおかげで毎日は働いていないのだが、何かあった時に医者の下ならば安心だ。
 二人は空いた時間に屋敷の片付けをしていた。時々マリアが手伝いに来てくれ、そのうえシーツや毛布といったものまで用意してくれたり他にも何かと世話を焼いてくれる。
 メリーアンは彼女に心から感謝していた。マリアに出会えて本当に良かったと思えた。


 普段は夕刻に仕事を終えるのだが、その日は翌日の仕込が遅くなり、メリーアンが帰路に着こうとしたのはすっかり闇空が広がった時候だった。
 おばさんが扉を施錠している間、外の風景に何か違和感を覚え、メリーアンは手にしたランプを掲げながら辺りを見回した。いつもはもっと明るい気がする――そう思って空を見上げ、思わず声を上げた。
 真っ黒なインクで塗り潰したような空に、赤黒い月が浮かんでいたのだ。普段は煌々と光を放ち、星達を従えている美しい月の異なる姿に、メリーアンはどきりとした。
「おばさん、月が赤いわ」
「ああ、そういえば今日は四十年に一度の月食の日だって言っていたわね。子供の頃にも見たけれど、ちょっと不気味よね」
 おばさんは月の変貌にも大した興味を示さず、軽く笑っているだけだった。
 けれどメリーアンは異様な恐怖心を抱いていた。ちょっと不気味どころではない。暗い空にぼんやりと浮かぶ月の色は、何かの色に良く似ていて、それが堪らなく不快で――
「いつもより暗いから、あんたも気をつけてお帰り」
 メリーアンははっと我に返った。手を振りながら「また明日ね」と言って帰路に着いたおばさんが、ランプの灯りと共に遠のいてゆく。その姿を見送っていたが、しばらくして逆方向に向かって歩き出した。
 赤い月のせいか、いつもは平気な夜道が怖い。風が出てきたのか、ざわざわと森が騒がしい。いかにも不吉な事が起きる前触れのようだ。こんな田舎の村で何か起こるとは思えなかったが、それでも自然と早足になり、家に帰り着いた頃にはすっかり息が上がっていた。


 屋敷の掃除は大分進んだものの、長年の汚れはなかなかにしぶとく、まだ一階の一部しか使えない状況で、面倒だからと姉弟は未だに近くの空き小屋で生活をしている。あまりにも広い家は落ち着かず、必要なものだけが置いてある限られた空間の方が過ごしやすいというのも理由だった。
 無事に帰宅できた安堵感から、メリーアンは胸に手を当て深い溜め息を吐いていた。こうして何事も無く時が過ぎると、なぜあんなに焦っていたのだろうとさえ思ってしまう。
 屋内は人の気配がなく、サージュは不在だった。今日は仕事の日ではないから、恐らく屋敷に行っているのだろう。数時間放置されたせいか、室内は少し肌寒い。メリーアンは天井から下がったランプに灯りを点し、夕食の準備に取りかかった。終わる頃にはサージュも戻って来るだろう。
 そう思っていたのだが――
「……遅い」
 すでに夕食の準備は終えたというのに、いくら待ってもサージュが戻ってくる気配が無い。たとえば急に仕事になってしまったとしても、きちんと連絡をする子だ。一体こんなに遅くまで何をやっているのか……。
 色々考えているうち、不意に最悪の状況を思い描いた。日常生活には差し障りないが、激しい運動をすれば、サージュは心臓の発作を起こす事がある。まさか片付けの途中で急に具合が悪くなって――そう考えたら居ても立ってもいられず、メリーアンは慌てて家を飛び出した。



 屋敷の入口に鍵は掛かっていなかった。サージュはまだ中にいるのだ。
 いつまでも慣れずに怯えてしまう鋼の騎士にも構っている余裕はなかった。メリーアンは迷わず一階の広間へ走った。片付けを終えてまともに使える部屋はそこしかない。サージュはきっと広間にいるはず。
 扉は開けっ放しだった。灯りもなく真っ暗で、人のうごめく気配すらない。恐ろしくなって堪らずに声を上げた。
「サージュ、サージュ! いないの?」
 恐怖を吹き飛ばすように声を張るが、返事は無い。手持ちのランプを掲げて室内を見回してみてもサージュの姿はない。一体、どこへ行ってしまったのか。
「……え?」
 焦り始めたメリーアンの耳に、ささやきに似た声が届いた。誰かに呼ばれたような気がして耳を澄ます。しかし何も聞こえず、やはり気のせいか……と踵を返そうとした時だった。
「……さん、姉さん。そこにいるの?」
 間違いなく、サージュの声だった。
「サージュ! あんた、どこにいるのよ!」
「こっち、本棚に近寄って」
 指示通り部屋奥の壁に設置された大きな本棚に近づくと、ささやきだったサージュの声が、くぐもってはいるがはっきりと聞こえるようになった。
「ちょっと、なんでそんな所にいるの?!」
「話はあとで。とにかく本棚を横から押してみて」
 本棚は必要以上に大きく、そのうえぎっしりと本が詰まっている状態だ。こんなもの女の細腕で動かせるものか――そう思いつつ、言われた通りメリーアンは棚の脇に回り込み、力任せに押してみた。すると棚は驚くほどあっさりと動いたのだ。明らかに誰かが意味を持って仕掛けたものだ。
 本棚の後ろは空洞になっていた。穴が顔を見せると同時、ランプを手にしたサージュが姿を見せ、ほっと溜め息を吐いていた。
「心配したじゃない! どうやったらそんな所に入れるのよ!」
 無事だった事への安堵と、心配させた事への怒りでメリーアンは声を荒げた。
 そんな姉の顔を見て「ごめん」と一言、すぐにサージュは真摯な表情を浮かべた。
「ちょっとついて来てよ、姉さん」



 壁の穴からは細長い階段が続いていた。下方から流れてくる空気は屋敷の何処よりも古くさい臭いを漂わせ、不気味さと寂しさで思わず鳥肌立つ。二人は、ランプの灯りだけを頼りに階段を下っていった。
 サージュは、広間の掃除をしていた時にこの隠し階段を見つけたようだ。不自然な場所から冷たい空気が洩れているのに気付き、あれこれと探しているうちに動く本棚の仕掛けを知った。興味本位で入ってみたはいいが、一定の時間が経過すると自然に戻る仕組みになっていて、そのまま閉じ込められてしまったらしい。そのうえ内側から棚を動かす事は不可能で、どうしようかと困っている時に運良くメリーアンが現れたというわけだ。
「少し探ってみたんだけど、この先に地下室があるんだ」
 どうしてそんな場所が存在するのだろうか。本棚の仕掛けといい、この心細い階段といい、明らかに人目を忍んでいる。本棚が戻ってしまわないようにと細工はして来たものの、万が一閉じ込められてしまったらそれこそどうしようもない。戻った方がいいのでは――メリーアンの思案も虚しく、地下室は目前に広がっていた。
 衣類に食器、本に椅子にテーブル、振り子時計――地下室には様々な物が無造作に置かれていた。使用しなくなって置き場に困り、この部屋に押し込めたのだろう。狭くもなく広くもない室内の至る所に物が散乱している。どれもこれも埃とカビで廃れ、せっかく元は高価だったであろう物も、かつての輝きは見る影も無い。
 その中で、一際異様な物を見つけてしまった。黒塗りの細長い箱――どう見ても、棺である。棺は他の物とは違って埃もかぶっていない。大きさからして大人の物だろう。
「なに、これ……」
 メリーアンは声を震わせ、すくみ上がった。どうしてこんな物が屋敷の地下室に安置されているのか。他の雑貨と違い埃も汚れも目立たないが、木製ゆえか所々が老朽し、相当年季入りだとわかる。一体いつからここに置いてあるのか――棺の中身を想像して吐き気すら覚えた。
 そんな姉を一歩下がらせ、サージュは気丈にも棺を調べ始めた。
 棺には一枚の紙が貼り付けてある。古くなって汚れ廃れているものの、文字が書かれているのが見て取れる。しかし普段使用している文字とは形が異なっており、何と書いてあるのかまではわからない。
「何だろう……呪符、みたいだ」
 緊張の面持ちでサージュがゆっくりと手を伸ばす。しかし剥がそうとして紙に触れた指は、ちょうど静電気に似た衝撃に強く弾かれ、サージュは表情を歪めて咄嗟に手を引いた。指先は切れ、じんわりと血が滲んでいた。
「大丈夫?!」
 思いのほか傷は深く、血が溢れて止まらない。止血しようにも道具がなく、メリーアンは戸惑った。そうしている間にも、ひとつ、ふたつと鮮血が紙の上に落ちてゆく。
 そして次の瞬間、二人は揃って青の瞳を見開いた。
 赤い雫を吸った紙が、薬品で溶かされたみたいに焼け焦げているのだ。小さかったはずの染みは驚くべき速度で一杯に広がり、やがては紙面を真っ赤に染めた。その中で符に記されていた文字が黒く浮かび上がり、一瞬だけ光を放ったかと思うと、突如として紫色の炎が立ち昇り、焼き尽くされてしまったのだ。
 青の瞳が驚愕で一層見開かれる。
 純潔なる血によって封印が解かれると、棺を護っていた不思議な力は失せ、難なく触れられるようになった。不可解な出来事を目の当たりにして固まるメリーアンをよそに、サージュは棺の蓋を持ち上げようとして手をかけた。
 これを開けてはならない――心の奥底で手を止めようとする声が聞こえるが、封印を解いた者の使命なのか、本人すら気付かぬ父親から受継ぎし好奇心には抗えず、どこか恍惚とした眼差しでサージュは棺の蓋を開けた。
 破裂するのではないかと思うほど、心臓がうるさく体内に響いている。緊張と不安と恐怖が胃の奥から不快なものを押し上げようとするのを、メリーアンは必死で堪えていた。
 そして永い永い時を経て封印を解かれた棺の中を見て、不快なものは一際強く押し上げられた。

 棺の中で眠っていたのは、ミイラでも腐乱死体でも白骨でもなく――見目麗しき幼子であった。

 人形だ。最初はそう思った。
 呼吸もせず、微動だにしないのだから。
 けれども白いシャツの胸元を染める赤黒い色が血痕だと気付いてから――それが人形ではないのだと理解した。
 その色にメリーアンは見覚えがあった。時が経って鮮やかさを失った血の色は、そう確かさっき見た……蝕された月の色そのものだった。
 途端、震えが止まらなくなった。あの父が買い取った屋敷だ、何かあるのではとは思っていたが、まさか子供の死体が置いてあるなんて。
 身体の奥底からえも言われぬおぞましさが湧き上がり、喉まで込み上げて来た何かを堪えるように、メリーアンは口元を覆った。顔色が見る見るうちに蒼白になってゆく。震える足で一歩、二歩と後退りすると古びた振り子時計にぶつかり、そのままずるずると床に座り込んだ。
 ぶつかった衝撃で細長の箱が揺れ、降り積もっていた埃がパラパラと落ちる。振動でわずかに針がぶれたかと思うと、壊れて止まっていたはずの時計が再び動き出した。
 時計の針は間違った時を刻んでいた。カチ、カチ、と不気味な音が鼓動と重なる。それが完全に同調した時、針は午前零時を指し、予期せず時を告げる鐘が鳴り響いた。重厚な音は触れている背を伝って内臓を震わせ、メリーアンは一瞬呼吸を奪われた。

 恐ろしさのあまり言葉を失った姉とは違い、サージュは冷静に幼子の姿を見つめていた。
 年齢は三、四歳程度、完璧な形を取る顔立ちだけでは男児とも女児とも見分けがつかない。透き通るような白い頬や小さな肩に絡み付く長い髪は、紫色の艶を帯びる銀。色失せた唇と長い睫毛に縁取られた瞼はしっかりと閉じられ、上下しない胸元で組まれた手の形は、確かに死者を思わせる。
 しかし、死者にしては髪や肌の艶が良すぎる。死者というより、むしろこの完成された美しさは、人形だ。すぐにでも瞳を覚ましそうだ――サージュの思いは鐘の音に導かれ、そして現実となった。

 一、二、三、四……
 青い瞳が見守る中、棺の中で眠る幼子の小さな指先がぴくりと動いた。
 五、六、七、八……
 色失せた唇がわずかに開き、微かな吐息が洩れる。
 九、十、十一、十二……
 時を刻む事を忘れていた小さな身体が、鐘の音に合わせて再び息を吹き返す。
 そこで終わるはずなのに。
 有り得ない十三回目の鐘が一際重く暗く鳴り響くと、それが合図とでも言うかのように、固く閉じられていた瞼はゆっくり、ゆっくりと開かれ――眠っていた幼子は、ついに瞳を覚ました。


 この子供は、人間ではない。
 そう直感した理由は、瞼の奥から現れた瞳の色にあった。
 紫銀の髪というのも人間が持つ物ではないが、銀の器に零れたワインのような紅い銀の瞳は、世界中何処を探しても見つからないだろうと思う。
 瞳を覚ました幼子は、ここがどこであるか理解していないようだった。ぼんやりとした紅銀の瞳は二度三度と瞬き、そうしてようやくはっきりと見開かれた。身にまとう漆黒の衣は明らかに大きさが合っておらず、大人の物を無理やり着せられているような感じで、加えて素振りは非常に幼く、手を借りなければ起き上がることも侭ならないようだった。サージュが手を貸して起こしてやると、幼子は大きな瞳を瞬かせぽかんとしていた。

 振り子時計は、午前零時を指したまま再び止まった。
 鐘の音に同調していた鼓動は今度は別の意味で速まっている。メリーアン荒く呼吸を繰り返し、青い瞳は無垢な表情でぼんやりとしている幼子をきつく睨みつけた。
「ちょっと……あんた一体何処の子?! こんな所で何やってるの!」
 立ち上がったメリーアンは棺に歩み寄り、頭ごなしに早口で怒鳴りつけた。当然、幼子は何を言われているのか理解しておらず、怒りを肌で感じてか、身体を震わせて怯えた表情を浮かべていた。
 これが単なる子供の悪戯だったらどんなに良かっただろうか。
 この子は村の誰かの子で、自分達を驚かせようとしてこの棺の中に隠れていたのだ。後は一通り叱りつけ、親の元へ返してしまえばお終い。初めから何もなかった事になる……それで済めば良かったのに。
 非現実的な出来事を正当化したくない自分がいた。この子供が村の子ではないことくらい、わかっている。けれど現実的な言葉にする事で、これが本当に夢になればと必死に願っている自分がいる。

 お父さん、どうしてこの屋敷を手に入れたの?

 父の研究内容をメリーアンは知らない。けれど父が欲しかったのは屋敷ではなく、この子供だったのかもしれない。
 父の研究は人からは決して理解されないものだった。その研究に必要だった存在――つまりはこの子供も人には理解されない、おぞましい存在であるのは間違いなかった。

 膝まで伸ばされた紫銀の髪は、夕暮れ時の空の紫のように、決して人の手では創り出せない神秘の輝きを放つ。
 この世のあらゆる美を集結させて創り上げた顔は、不安定な成長段階にある幼子が持つには不自然なほどはっきりと整っている。
 不安げに潤んだ紅銀の瞳は、母親を求めて彷徨う迷子のようで。
 全身で表現される愛くるしさは、母性溢れる母親という存在だけでなく、若き娘、果ては男すらも魅了してしまいそうな、そんな危険な甘美さをも漂わせていた。
「君の、名前は?」
 サージュが穏やかに問いかける。
 生まれながらにして最高で最悪の武器を兼ね備えた幼子は、戸惑いながら、小さな声でたどたどしく答えた。
「……ゼタル」

 忌まわしき悪魔が、再びこの地に甦った。




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