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 過去にあった月食は、たしか数日間で終わったと記録されている。しかし今回のものは明らかに期間が長く、誰もが異常だと感じていた。赤黒い月が夜空に浮かんでから一週間を超えるという、不可思議な現象が起こっているのだ。おかげで毎夜世界は光を奪われ、不気味な闇に覆われていた。
 昼は昼で悪天候が続いている。空には重い灰の雲が広がり、時折雨粒を落とす。太陽の光は厚い雲に覆われて一切届かず、夕暮れ時のように暗く、寒く、寂しい。
 どういう理由か、もしかしたら専門家などは大慌てで調べているかも知れないが、そんな情報がエレフのような片田舎まで届くはずもない。庶民にとって重要なのは、悪天候では洗濯物が乾かない、農作物が育たない、といった程度の事でしかなかった。



◆    ◆    ◆



 地下室での出来事から一週間。
 メリーアンは、屋敷の二階部を掃除している真っ最中であった。一階には厨房と広めのダイニング、そしてくつろぐための広間があり、二階は主に寝室であった。その東端にある一番大きな寝室の床を磨いているのである。
 理由はただ一つ。我が家に住みついた小悪魔のためだ。
 ゼタルは本当に危険な存在なのか。無害なのか有害なのか、今はわからない。人外といえど相手は年端もゆかぬ幼子、無害ならばすぐに追い出す必要はない。けれどもし有害ならば対策を練る必要がある。だから少しだけ様子を見よう――そう言っていたのは、サージュなのに。当の本人は至って呑気で、今では歳の離れた弟を可愛がるだけの兄でしかなかった。おかげでメリーアンは炊事や洗濯・掃除に加え、日曜大工までこなさなければならなかった。
 エプロン姿のメリーアンは床に膝を付き、せっせと手を動かしている。あまりに一生懸命になっているせいか、束ねた長い髪が解れて落ちるが気にしている暇はない。
 二階の他室はまだ未着手状態だが、一階部はほぼ掃除も片付けも終わらせた。たったの一週間で普通に住めるようにしたのだから、我ながら拍手ものだ。

 床と必死に格闘していたメリーアンの視界に、ふと子供の足が映った。素足の小さな指先から徐々に視線を上げる。長いローブ風の寝衣の裾からは小枝のように細い足首がのぞき、その後ろに美しい紫銀の髪が揺れている。さらに見上げると、寂しげにこちらを見下ろす紅い銀の瞳とかち合った。
 途端、メリーアンは遠慮もせずにムッとしてみせた。
「……ゼタル、あっちへ行ってなさいよ」
 不満げに顔をしかめて促すが、ゼタルは首を横に振って拒んだ。
 メリーアンは溜め息を吐く。
「裸足でうろつくなって言ってるでしょう? あっちでサージュに靴を履かせてもらいなさい」
 ゼタルは靴を履くという簡単な作業においてさえ、すぐに頼ってくる。また甘える気だ……そう思うと子供相手だという事も忘れ、つい刺々しい態度を取ってしまう。大体、せっかくの休日なのに朝から忙しく掃除をしなきゃならないのは、誰のせいだと思っているのか。人外生物ならば、人並み以上に動けないものか。
 メリーアンの不機嫌ぶりを感じ取ってか、ゼタルは俯き、唇を尖らせていた。
「……サージュ、いないの」
「ええっ? もう、あの子一体どこへ行ったのよ……忙しいのに」
 話をしながらもメリーアンは手を休めない。今日中にこの部屋の掃除を終わらせると決めたのだ。磨き終えたら今度は修復をしなければ。ゼタルはよく裸足で歩き回るため、穴が開いていたり棘が出ていたりすると危ないのだ。先日は足の裏に何か刺さったといって、半日泣き叫んでいて大変だったのだから。それから床が終わったら窓拭きだ。
 どうして不可解な存在相手に、こんなに世話を焼いてやらなければならないのか。まだ十八だというのに、まるで一子授かった気分になる。最近の言動を思い返してみても口うるさい母親のそれに酷似していると、我ながらそう思う。
 色々考えているうちに苛々して来た。ゼタルはまだ出て行かない。ああ邪魔だ……そろそろ叱り付けてやろうかと思って顔を上げると、小さな手がエプロンの裾を縁取るフリルをぎゅっと握り締めていた。
 離しなさいと言おうとして口を開いたが、それは言葉にはならなかった。小悪魔はあっという間に擦り寄って来て、白いエプロンに顔を埋めてしまったのだ。
「メリーアン、ぼく、ひとりはさみしいの」
 毎日働きに出ているメリーアンよりも、共に過ごす時間が多いせいかゼタルはサージュに良く懐いている。何かあれば一番にサージュの元へ飛んで行くが、それでも求めるものは女性にあるのか、ゼタルは人の子と同じように、こうして愛情を求めて来るのだ。
 眠っていた期間がどれくらいであるか、メリーアンは知らない。その間ゼタルに意識があって、孤独を感じていて、それを埋め合わせようとしているのかも知れない。それでも、どうやら人並み以上に淋しがり屋であるのは確実だ。
 ――参るわ。
 青の瞳がしくしくと鳴き声を上げる小さな頭を見下ろした。こんな風に無条件に頼られたら、邪険にするこっちが罪悪感を抱いてしまう。
 これがこの子供の手口に違いない……心の片隅ではそう考えながらも、女性が持つ本能には逆らえないのか、メリーアンは小さな背中を優しくさすってあやしていた。
「ゼタル、お掃除が終わったら遊んであげるから、今は下へ行っていてちょうだい。裸足で二階を歩いたら危ないでしょう? あなたの為にお部屋を片付けているんだから、言う事を聞いて」
 先ほどとは違って穏やかな言葉をかける。顔を覗き込むと、ゼタルは大きな紅銀の瞳はかすかに潤ませ、小さく頷いた。
 本当に参る。こんな姿を見せつけられたら、たとえ人外の存在だとしても保護欲を掻き立てられてしまう。その辺の子供とは比にならぬくらいの魅力を備えたこの小悪魔は、幼子に出来る最大の武器を駆使してこうして心を捕らえて行くのだ。
 まずいな、とメリーアンは思った。
 突如現れた人外の存在は、考えていたような危険性は微塵も見せず、驚くほど従順で大人しかった。時に歳相応に甘えてくるし、何かあれば泣きもする。まさに人の子同様に。
 だからこそタチが悪い。その愛らしく魅力的な姿の下に、どんな顔を隠し持っているかわからないのだ。

 せめて掃除の間だけでも外に行ってくれればいいのに。そう考えるも、無駄だとすぐに否定する。どういうわけかゼタルは屋敷の外へ出ようとはしないのだ。どんなに促しても首を横振るだけで、駄々をこねるように嫌がる。
 不可解だが、むしろ好都合とも捉えられる。ゼタルは非常に人目を引く存在だ。やはりこのような人外の子供を人目にさらすのは気が引けるのだ。
 この古い屋敷は村内でも離れた場所に建っており、住人は屋敷自体を敬遠している節があるため、よほど重要な用件でもない限り訪問者はないだろう。唯一訪ねてくるとすれば友人のマリアくらいだが、「人が来た時は隠れていなさい」とメリーアンが言い付けているため、今のところゼタルの姿は見られていない。
 誰にも知られないうちに、情が移る前に対処しなければならないのに。愛らしい小悪魔は、日々少しずつ心を捕らえて離さなくしてゆくのだ。



◆    ◆    ◆



 二階端の寝室から鼻歌が響いてくる。開け放たれた扉の向こうには金色の髪を持つ青年と、紫銀の髪の幼子がいた。
 窓辺で椅子に座り、ゼタルは足をばたつかせている。その背後にはサージュが立ち、長く伸ばされた艶やかな髪を三つ編みにしていた。幼い頃姉にやっていたから手際が良く、上手いものだった。
 構ってもらえて嬉しいのかゼタルは上機嫌だ。寝室は綺麗に片付けられており、良く磨かれた窓からは大きな赤い月が見える。
「ねえ、サージュ」
「何だい?」
「サージュにね、おねがいがあるの」
「お願い?」
「うん」
 たどたどしい口調で言って、ゼタルが頷く。
 サージュはしばし間を置いた。
 ゼタルは甘えん坊だが我侭を言う事はない。だから迷わず聞いてやりたい所だが、許可を得ないとメリーアンが怒る。やはり姉の権力という物は強い。が、それすらも辞さずにゼタルが急かしてくるので、たまにならいいだろうと思い、サージュは了承の意を表した。
「ともだちを、よんでほしいの」
「友達?」
「うん、バルフォレっていうの。ずっとまえからともだちなの」
「友達か……」
 サージュは黙り込んだ。
 メリーアンは毎日働きに出ていて、帰宅は日が暮れてから。サージュも週に二三度村医者の手伝いをしているため、日中の間、ゼタルは一人で過ごす時間が多い。だからきっと寂しいのだろう。
 今はどういうわけか屋敷の外に出たがらないが、気心の知れた友達がいれば外の世界にも足を向けてくれるかも知れない。屋敷の外には楽しい事が沢山ある。もしかしたら、そのバルフォレという子以外にも友達が出来るかも知れない。
 病気を患ってからはろくに学校にも行けず、最も友人が出来やすい時期に家に閉じこもり切りだった。サージュ自身も友人と呼べる存在がいないから、淋しい気持ちは良くわかった。
「いいよ。でも、何処に住んでいるんだい?」
 するとゼタルは振り返り、愛嬌たっぷりの笑顔を向けた。


 丸い円をひとつ、その中にもうひとつ。
 二重に描かれた円の中に、不思議な文字をひとつ。
 はい、これで完成。

 床に白いチョークで描かれた不思議な絵。それが異界から“使い魔”を呼び出すための魔法陣であるとは知らず、サージュは指示されたように床に絵を描いた。最初はゼタルが描いたのだが、どうにも線が歪んで使えなかったのだ。
 ゼタルが小さな指をパチンと鳴らすと、魔法陣は黒い光の柱を立ち昇らせた。だがそれは一瞬のことで、呼び寄せられたものが現れるとすぐに消えた。元々はこのような陣を介さずに召喚できる存在だ。だから呼び寄せるのに時間はかからなかった。
「バルフォレ!」
 ゼタルは嬉しそうに声を上げ、“それ”に駆け寄った。
 陣の上に現れたのは、鴉を一回り大きくしたような漆黒の鳥だった。だが翼の先端が赤に染まっており、尾はしなやかに伸びて長い。一見して鴉とは異なる種なのだとわかる。どの闇よりも鳥の持つ黒は艶やかで、赤は烈火のごとく鮮やか。とても美しい鳥だった。
 見た事もない美しい鳥は、主の呼び声に応えるように鳴き声を上げ、生まれたての子が手を伸ばすように両翼を広げていた。広げられると、翼の赤が良く目立つ。
 ゼタルは本当に嬉しそうに、バルフォレという名の漆黒の鳥を可愛がっていた。バルフォレは飼い慣らされた犬や猫のように大人しく、小さな手が繰り返す愛撫に甘んじていた。時折細められる漆黒の瞳は、まるで我が子を見守るように優しい。
「友達って……鳥だったのか」
「うん! ありがとうサージュ。ぼく、とってもうれしい!」
 ゼタルはサージュにしがみ付き、満面の笑みを浮かべた。
 この鳥は何という種なのだろうか。何処から呼んだのだろうか。それよりも、この鳥は一体何物なのだろうか……いくつか疑問を抱いたものの、ゼタルの嬉しそうな笑顔を見ているうち、それらはサージュの脳裏から消えていた。
「あのね、それでね、もうひとつだけおねがいがあるの……」
 見下ろすと、紅銀の瞳がねだるように見上げていた。
「なんだい?」
「あのね、バルフォレのこと、メリーアンにないしょにしてほしいの」
「どうして?」
「だって……またおこられちゃうもん。ね、おねがい」
 必死に懇願する紅銀の瞳を見つめているうち、サージュは不思議な感覚に捕らわれた。頭に白いもやがかかり、思考が止まってしまう。紅銀の瞳に吸い込まれるように、意識が遠のいてゆく。そうして口から出たのは、了解の言葉だった。
「うん……わかったよ」
「ほんとう? ありがとう! ぼくとサージュだけのひみつね!」
 二人だけの秘密とは、何と甘美な響きだろうか。巧みな言葉と視線で完全に陥れられたと気付く由もなく、サージュはゼタルの頭を優しく撫でていた。






 一人きりになると妙な静けさが漂った。かつてこの屋敷に住んでいた時は窮屈だと感じていたが、幼子の姿では広すぎる。早く大きくなりたいと願う心は止められない。
 二階部は一部屋しか片付けていないため、他に寝室として使える部屋がない。だからメリーアンとサージュは夜になると近くの小屋へ帰ってしまう。しかしゼタルは淋しさも恐怖も感じなかった。闇も孤独も、彼にとっては隣り合わせで最も親しいモノだからだ。
 不意に、開け放たれた扉から漆黒の鳥が舞い込んできた。翼を羽ばたかせていた鳥は優雅に床へと降り立つと、その姿を変えた。
 羽音が止んだと同時、窓の外を眺めていた幼子が振り向く。紅銀の瞳に映ったのは――美しい鳥ではなく、床に跪いて頭を垂れる青年であった。短い漆黒の髪は毛先だけが烈火のごとく赤い。身にまとうのは宵闇色の騎士服、目の前の存在を敬うようにして折られた手足は長い。
 青年の名はバルフォレ。人と鳥の形を持つ、ゼタルの忠実な使い魔である。
「お久しゅうございます。ゼタル様」
 ゆっくりと上げられた青年の顔は、紫銀の悪魔にも引けをとらぬほど整っていた。漆黒の瞳は長き時を経てようやく再会した主を見つめ、どこか懐かしそうに、切なそうに細められていた。
「バルフォレ! あいたかったよ!」
 母親に泣きすがる子供のごとく、ゼタルは青年の懐に飛び込んだ。
 たどたどしい言葉遣いに、幼子の行為。愛しき主の変わり果てた姿にバルフォレは心を痛めた。本来の主はこのようなか弱き存在ではなく、また使い魔である彼にすがる事もないというのに。
「何とお労しい。このような愛らしい姿になってしまって……これでは何も出来ますまい」
「そうなの。おそとへでることもできないの」
 ゼタルは、好んで屋敷に閉じこもっているわけではない。外に出たくても侭ならないのだ。それを証明するためにゼタルは窓へと駆け寄り、綺麗に磨かれた窓硝子に手を触れた。
 途端、何かが容赦なく小さな手を鞭打ち、衝撃で跳ね飛ばされたゼタルは床に転がった。
「ゼタル様!」
 バルフォレが駆け寄って小さな身体を抱き起こすと、紅銀の瞳を潤ませてゼタルは手を差し出した。弾かれた手は赤く腫れ上がっている。不満そうに口を尖らせているゼタルをあやすように、バルフォレは小さな手をそっと握った。
「結界ですね」
 やはり、とバルフォレは漆黒の瞳を細めた。
 さきほど少し探ってみたが、この屋敷に張りめぐらされているのは強力な結界だ。内に眠る力を微塵たりとも漏出せぬようにと屋敷のあらゆる場所に呪符を貼り、外側から圧力をかけている。ゼタルの棺を封印していた呪符も強力なものだったが、破られたのは幸運としか言い様がない。しかも永い時を経てもなお有効である事実で、力ある【悪魔祓い神官エクソシスト】の仕業だと知れた。
 おそらくバルフォレ自身も、この屋敷内でしか人型は保てない。この姿で外界へ出るためには、まず主が本来の姿を取り戻す必要がある。使い魔は、主となる存在の影響をそのまま受けている。主が弱れば、使い魔も同様となるわけだ。
「バルフォレ、ぼく、はやくおおきくなりたい」
 そんな風に切に願わねばならぬほど、我が主は幼くなってしまったのだ。
 バルフォレはゼタルの使い魔となって長い。およそ人間では想像もつかぬほど長い間、ゼタルを唯一の主とし、仕えて来た。だから彼の考えが手に取るようにわかる。彼が何を欲しているのか良くわかる。
 ゼタルは、奪われた大切なモノを取り戻したいのだ。その為にはまず“代わり”を手に入れ、自由を得る必要があった。
「私にお任せを。直ぐにでも貴方の願いを叶えてみせましょう」
 バルフォレは小さな手を取り、恭しく口付けを落とした。小さく愛らしい姿になっても変わらぬ忠誠心を見せ付けるために。
 ゼタルは口端を吊り上げて嬉しそうに笑った。それは、愛くるしい幼子の顔には不釣合いなほど妖しい笑みだった。




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