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 人が踏み入れぬひっそりとした夜の森では、“狩り”が行われていた。雑然と草木が絡まる地面を走り、一匹のリスが、愛らしい尾を揺さぶりながら必死に逃げ惑っている。追いかけているのは、鴉よりも深い闇の色を持つ美しき怪鳥であった。
 漆黒の鳥は翼をゆっくりと羽ばたかせ、まるで全ての位置を把握しているようにいとも簡単に避け、乱立する木々の合間を優雅に飛ぶ。速度に緩急をつけてリスを物理的にも精神的に徐々に追い詰めてゆく。そうして追いかけるうちに、力失せてリスが速度を落とした。その瞬間に狙いを定めて急接近し、鋭く光る鉤爪でついに獲物を捕らえて巨木の幹に押さえつけた。
 捕らえられたリスは四肢をばたつかせて必死に逃れようとするが、自身の何倍もの大きさを持つ鳥に抗えるはずもなく、尖った嘴で喉を圧迫され、徐々に力尽きてゆく。
 漆黒の鳥は、リスが完全な死を迎える前にあるモノを探して小さな胸に嘴を宛がった。場所を特定した嘴は皮膚を食い破り、肉を抉り、リスの身体をかき回す。血と肉が混ざり合う中、目的のモノを探し当てて咥えて一気に引き千切る。切り離されたばかりの小さな“心臓”は、それでもなお未練がましく動いている。その鼓動が止まらぬうちに主の元へ届けるため、漆黒の鳥・バルフォレは夜の森から飛び立って行った。

 不思議な事に。それから一刻も経たずして、心臓を失って死んでいたはずのリスは息を吹き返し、元気に森を走り回っていた。

 そうした“狩り”はその後も幾度となく続いた。次は野うさぎ、次は黒猫……次第に狩られるものは大きくなり、野うさぎが狩られるとそれまで生きていたリスが死に、黒猫が狩られると野うさぎが死ぬ。次が狩られれば、それまで“生きて”いたモノは死んで行く。本来あるべき姿へと還っていったのだ。



◆     ◆     ◆



「村を出る?」
 焼きたてのパンを棚に並べながら、メリーアンは青い瞳を見開いていた。視線と言葉の先には、マリアがいる。
 仕事中にも関わらず、マリアは話があるといってこうして店まで来たのだ。買い物にくることはあっても、わざわざ話のためだけに訪ねてくるのは珍しい。何事かと思っていると、唐突にマリアは言ってきた。しばらく村を離れると。
「そんなに驚かないで。出るって言っても、父の仕事の都合でひと月だけなんだから」
 あまりにも驚いた顔をしていたのだろう、マリアが苦笑しながら説明してくれた。
「父が大きな町に出るときは、時々ついて行くの。いくらエレフが好きだからって言っても、この歳で全く外を知らないのも情けないしね」
「そうなんだ。せっかく仲良くなれたのに、もうお別れなのかと思った」
 ひと月だけと聞いて、メリーアンは内心でほっとしていた。村で唯一の友人と、会って間もないのに離れなければいけないのかと不安になったのだ。
 するとマリアは瞳を細め、フフと悪戯っぽく笑んだ。
「サージュが言ってた通り、あなたって本当に心配性なのね」
「え?」
「『気が強そうに見えて、姉さんは意外と寂しがり屋なんだよ』って言ってたわ」
「えっ、サージュってばそんな話してるの?!」
 かっと頬に熱が昇った。自分の知らない所で、そんな話をされていたなんて恥ずかしい。
 赤くなったメリーアンを見て、マリアはさらに頬を緩めた。いつも強がっているように見える友人の、意外な一面を見てやったと言わんばかりに楽しそうだ。
「それだけサージュも心配しているってことなんじゃない? 私は一人っ子だから、そういうの羨ましいけどね」
 片目をつぶって冷やかすと、メリーアンは今度はムッとしてみせた。その表情の変化さえも面白いとばかり、マリアは終始上機嫌だった。
「さてと。仕事の邪魔しちゃ悪いし、そろそろ行くね。戻ってきたら、また色々と話しましょうね」
「うん、気をつけてね」
 手を振って去って行くマリアを、メリーアンは少し寂しげに見送った。




 いつもより早めに仕事を終えたメリーアンは、重い足取りで屋敷へと帰った。マリアが村を出てからすでに数週が経つ。ひと月とはいえ離れているのはとても淋しい。こんな風に思うとは……それだけ、彼女が自分にとって大切な存在になっているのだと気付いた。
 屋敷はだいぶ修復が終わっており、メリーアンとサージュは今はこちらで過ごしている。ゼタルのこともあり、常に見張っている方が都合が良いからだ。
 帰宅して玄関の扉を閉じると、物音を聞き取ってかすぐさま足音が響いた。何事かと見上げると、階段の上方からゼタルが顔をのぞかせた。
「おかえりなさい」
 満面の笑みを向けると、すぐにゼタルは階段を下って来た。少し前までの危なっかしさはいつの間にか消え、足取りは軽やかだ。
 ゼタルは日に日に成長していた。出会った頃は三歳くらいに見えたが、今は十歳程度まで大きくなっていた。愛らしかった顔立ちは、成長と共に“麗しい”という言葉が相応しくなって来た。
 目の前までやって来たゼタル、その足元には黒い猫がいた。メリーアンの碧眼が、しなやかな肢体を摺り寄せて甘える猫をじっと見下ろす。
「……今度は猫?」
 メリーアンは重い溜め息を吐いた。ゼタルの目まぐるしい成長と共に、なぜか彼のそばには常に動物が付きまとうようになったのだ。最初はリス、次は野うさぎ……そうして今はこの黒い猫だ。
「窓辺に来ていたから、入れてあげたんだ。かわいいでしょう?」
「リスやうさぎはどうしたのよ」
「知らない、どこかへ行っちゃった」
 黒猫を胸に抱え、ゼタルは大して気にしていないような口ぶりだった。自分が飼おうとしているのではなく、動物達が気紛れに寄って来ているのだと言いたげだ。
 だからと言って、何でもかんでも飼われてはこちらが困る。
「あのね、ゼタル……」
「あっ、こら!」
 文句を言おうとして口を開いたのだが、ゼタルの方が早かった。下ろしっぱなしの紫銀の髪に黒猫がじゃれ始め、声を上げたのだ。だから束ねておけといつも言っているのに。
 髪を切ってはどうだろうかとこれまで何度か提案したが、その都度ゼタルは頑なに拒んだ。ただでさえ女の子と間違われそうな風貌だし、男なのだから髪を伸ばす必要もないだろうにと言ってもダメだった。
「ちゃんと束ねておかないからよ。ほら、やってあげるから部屋に行きなさい」
 大きくなっても変わらず世話が焼ける――嘆息交じりに促すと、ゼタルは嬉しそうな表情を浮かべ、黒猫を抱えて寝室へと走って行った。


 ゼタルの部屋からは、蝕された月が良く見える。子供ならば怖がって嫌がるだろうが、ゼタルはむしろ喜んでいるように思える。それも人外ならではなのだろうか、今も窓辺の椅子に座って膝の上の黒猫を撫で、赤黒い月を眺めて上機嫌に鼻歌を歌っている。
 紫銀の髪を編みながら、メリーアンは、この数週間で驚くべき成長を遂げたゼタルを見つめた。ほんの少し前までは何かにつけて甘えてくる、保護されなければ生きていけないほどの幼子であったのに、口調もきっぱりしてきたし、自分の意思や意見も言うようになった。
 大きくなった身体に伸びた身長と手足……まだまだ幼さは残るとはいえ、その成長振りは著しく、ほんの少し寂しい気持ちになるのは、無条件に甘えてくる存在ではなくなってしまったからだろうか。
 共に過ごす時間が長くなれば、それなりの愛着が湧いてくる。最初は不審感を募らせるばかりであったが、甘えられれば可愛いわけで。それが見目麗しい子供であれば尚更で。
 しかし成長したゼタルはそう甘えてくる事もなくなった。可愛がっていたのに、ゼタルが少しずつ離れて行ってしまうような気がして寂しいのだ。それは、弟のサージュが成長するにつれて何でも一人でこなすようになっていった時と、少し似ている気持ちだった。
 それでも最初はこの成長の速さを不審に思った。サージュに相談してみても、ゼタルは人間ではないのだから仕方がない、と返されただけだった。
 確かに一理ある。たとえば、人間の赤子は産まれてしばらくの間は母親に護られて生きてゆくしかないが、動物の赤子は過酷な世界を生き抜くために産まれ出でてすぐ自らの足で立とうとする。そういう世界があるのだと考えると、この不可思議な現象も、そういうものなのだと思わざるを得なくなる。
 この成長速度が続けば、大人になるまでにそう時間はかからないだろうと、ふと考える。今でさえ美しい姿をしているのだ、成長してどんな麗しい姿になるか……想像に難くない。その姿を見てみたいとも思うが、突然の変化に心がついて行かないのも事実だった。
「ねえ、メリーアン」
 色々考え込んでいる所へふいに話しかけられ、メリーアンははっと我に返った。
「なに?」
「メリーアンは、サージュのこと、好き?」
 どうして突然そんなことを聞いてくるのかと疑問に思ったものの、大した意味もないだろうとメリーアンは心のままに答えを返した。
「当たり前でしょう。弟だもの」
「……ふーん」
 幾分面白くなさそうな返事が返って来て、それから奇妙な沈黙が続いた。
 ゼタルはしばし押し黙り、膝に乗せた黒猫を撫でていた。黒猫はうっとりした表情でそれに甘んじている。
「じゃあ、僕のことは?」
「……え?」
「僕のことは、好き?」
 いきなり何を聞いてくるかと思えば……返事に困っていると、ゼタルは猫を愛撫する手を止め、小さく呟いた。
「僕は人間じゃないから、嫌い?」
「そ、そんなこと言ってないでしょう。す、好きよ!」
 何だか今にも泣きそうな声色だったため、メリーアンは慌てて返事をした。
 するとゼタルはわずかに首を捻って背後に視線を向け、にっこりと笑った。
「本当? うれしいな」
 その笑顔は本当に嬉しそうで、メリーアンは正直に困惑した。ゼタルは、恐らく子供じみたヤキモチを焼いただけだろう。喜んでいるのも、子供ゆえの幼さからだ。けれど、その笑顔は幼いながらも麗しく、確実に人の心を捕らえる魅力を備えていた。
 まともに見ている事ができず、メリーアンは顔をそむけた。なぜ、ゼタルは好きかなどと聞いて来たのだろうか。
 ゼタルは再び鼻歌を歌い始めた。そうして、ふと言葉を洩らす。
「早く、大きくなりたいな」
 窓から見える暗い月に、ゼタルは純粋に、そして切に願う。
 まさか、その願いが通じているのだろうか。だからこんなに急速に成長しているのだろうか。あまりに思いつめたように言うものだから、メリーアンは思わず聞いてしまった。
「どうして、そんなに大きくなりたいの?」
 答えが返って来たのは、少し間を置いてからだった。
「早くメリーアンと同じくらいになりたいんだ。そうすれば僕のこと、“子供”じゃなくて、きちんと見てくれるでしょう?」
「え……」
 メリーアンは言葉を失った。何を答えていいのかわからなかった。意図せず、鼓動が早くなる。明らかに動揺していた。
 沈黙を不思議に思ったのか、ゼタルがゆっくりと振り返る。メリーアンの手から、編み終えた長い髪がするりと逃げてゆく。
 驚愕で見開かれた碧眼に、麗しき少年の顔が映った。困ったような、それでいてどこか愛しげな表情で、ゼタルがじっと見つめていた。あまりにじっと見つめてくるため、メリーアンは耐え切れずに視線を逸らした。その頬に、ゼタルの指が触れる。
「そんな顔されたら、抱きしめたくなっちゃうな」
「……?!」
 子供らしからぬ言葉に、メリーアンは血相を変えてゼタルを見た。紅銀の瞳は、子供とは思えぬような穏やかさと、そして惑わすような熱を帯びていた。無意識に身を強張らせて後退りした。一歩退くと、ゼタルが一歩近づく。そうして、気付けば窓際まで追いやられていた。
 蝕された月の赤く黒い色が紅銀の瞳に映り、異様な妖しさを湛えていた。一度離れた手をもう一度頬に寄せ、ゼタルは少し背伸びをしてメリーアンと視線を合わせると穏やかに笑んだ。
「でもこのままじゃ全然楽しくないから、もっと大きくなってからにするね」
「な、何を、言ってるのよ……!」
 恥ずかしがるような、怖がるような、微妙な表情でメリーアンがゼタルを睨む。どうしていいかわからずに戸惑っていると、頬に触れていた指がすっと離れ、今度は手を握った。
「きみは僕のことを子供としてしか見ていないけど、僕は違うよ。とても……とても好きなんだ」
 握った手が持ち上げられ、指先に軽く唇が触れた。
「だから必ず、僕のものにしてあげる」
 下方から紅銀の瞳がねだるように見上げてくる。
 その(かお)には、幼さなど少しも感じられなかった。




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