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 ――必ず、僕のものにしてあげる。

 そう言われたあの日から、メリーアンは明らかにゼタルを避けるようになっていた。あんな風に言われて、どんな態度で、どんな顔をして接したらいいのかわからなかった。それまで子供としてしか見ていなかったゼタルを、初めて異性、そして人外の存在だと意識したのだ。
 そんなメリーアンの態度に気付いてか、ゼタルも必要以上に接してくることがなくなった。もう何かと手を焼くほど幼くはないし、元よりメリーアンはほとんど昼間は家にいないので、用事があれば何でも先にサージュに言っている。そうして、同じ屋根の下にいながらもすれ違う日々が続いた。
 けれど、共に暮らしていれば必ず顔を合わせなければならないし、どんなに避けようとしても完全には無理で、そんな生活が余計に彼への意識を高まらせてしまっていた。すれ違う中でも、ゼタルは日々麗しく成長していたのだ。

「ゼタルと喧嘩でもしたの?」
 数日前から続く二人のよそよそしい態度を気にかけていたのだろう、夕食を終えた後、キッチンで後片付けをしていたメリーアンの元にサージュがやって来た。いつも怒っていたけれどメリーアンはゼタルを可愛がっていた。いくら手がかからなくなったからと言って放って置いたり避けたりするような、そんな冷徹な性格をしていないと弟ならばよく知っている。
「……別に、何もないわよ」
 いくら相手がサージュとはいえ、ゼタルを意識しているだなんて言えるわけがない。メリーアンは務めて冷静に、穏やかに笑んで答えた。彼女とて弟の性格はよく知っている。思いつめたような顔をしていれば、それこそ無理にでも事実を聞き出そうとするだろうが、こうして何事もないと思わせればサージュはこれ以上言及はして来ないはず。
 メリーアンの思惑通り、サージュはそれ以上何も聞かず、それならいいけど――とキッチンを出て行った。幾分納得が行かないような顔をしていたが、一応の納得はしてくれたらしい。
 内心を悟られないようにと少しばかり緊張していたせいか、一人になった途端にメリーアンは深い溜め息を吐いた。こうして弟にさえ気を使わなければならないなんて……こんな生活が長続きするはずがないし、身が持たない。何とかしなければと思うものの、ゼタルへのこの妙な気持ちがすぐに消えるはずがなかった。
 洗って拭き終えた皿を流しの上方の棚に仕舞おうとして、メリーアンは軽く背伸びをした。棚は少し高い位置に備え付けられており、彼女では若干背が足りず、こうして背伸びしないと仕舞えない。いつものようにやっていると……予期せず脇から手が伸びてきて、彼女の手から皿を受け取って代わりに仕舞った。
 碧眼に留まったのは、白くしなやかな指先。はっとして視線を向けると、隣で紅銀の瞳がじっと見つめていた。
 こんなに近づかれたのは、あの日以来だ。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られ、メリーアンはさっと視線を逸らして俯いた。
「あ、ありがとう」
 一言礼を言って、立ち去ろうとしたが。
「待って」
 腕を掴まれて振り向かされた。
 気まずい空気が流れる。ゼタルの顔を正面から見ることが出来ず、メリーアンはわずかに顔を伏せたままでいた。すぐそばで視線を感じる。じっと見られているのがわかる。
 蝕された月は、どうしてあの切なる願いを聞き入れてしまったのだろうかと恨んだ。ゼタルはあの日からも変わらぬ成長を続け、たったの数日でメリーアンと同じくらい背が伸びた。もう子供などとは呼べない。甘えるだけの幼子ではない。こうして腕を掴んでいる手も、年頃の少年のごとく大きく、力強い。正確な年齢などわからないが、メリーアンやサージュに確実に近づいているのは大人びた風貌を見ればよくわかる。青年と少年、その狭間にある微妙な年頃だ。
「お願いだから、避けないで」
 詫びるように乞うように、沈んだ声色が言葉を呟いた。恐る恐る見上げると、紅銀の瞳が悲しげに見つめていた。
 そんな瞳で見ないで、その手を離してと強く願う。返事に困って無言でいると、ゼタルが一歩近づいた。逃げるようにしてメリーアンが身を引く。そうしてまた追い詰められる。これではあの時と全く同じだ。違うことといえば……ゼタルが何をするにも相応しい歳になったことだ。
「僕のことが嫌いになった?」
「そ、そんなことは……」
「でも君は僕を避けている。嫌われているんじゃないとしたら、それはなぜ?」
 未だに俯いたままでいるメリーアンの顔をのぞき込み、ゼタルが問う。本当はわかっているくせに、まるで試すようなことを聞く。いつの間に、そんな駆け引きが余裕で出来るほどになったのか。
 戸惑いながら視線を泳がせていると、ついに紅銀の瞳と視線が合ってしまった。一度そうなると二度とは逸らせず、吸い込まれるように紅い瞳を見つめる。
「やっと見てくれた」
 ゼタルが柔らかく笑んだ。その笑顔は正視できないほど眩しく、麗しく。誰をも魅了してしまうだろう危険な甘美さを湛えていた。
 一度捕まってしまえばもう逃げられない。わかっていたからこそ、顔を合わせたくなかったのに。最後の足掻きとばかりメリーアンは身動ぎしてみたが、ゼタルは解放する気がないらしく、腕を掴んだ手が緩むことはなかった。さらに距離を詰め、息が吹きかかりそうになるほど身を寄せて少女の頬に触れる。
「あの時言った言葉は嘘じゃないよ。僕は、君の事がとても好きだ」
 白くしなやかな指先が、愛おしそうに頬を撫でる。身を硬くし、メリーアンは動揺していた。
「なんで、私なの?」
「僕の事を大切にしてくれたでしょう」
「で、でも……怒ってばかりだったわ」
 すると、ゼタルは小さく笑った。
「ふふ、そうだね。怒った時のメリーアンは、ちょっと怖かったよ」
 かつて叱られたときの事でも思い出しているのか、ゼタルはまたしても笑った。
 かっと頬に血が昇る。今さらだが、この異様な至近距離と頬に触れられている感覚を恥じ、過去を思い出して悔やんでのことだった。
「だ、だったら余計に嫌でしょう。冗談ならよして、離して。私、あなたのことなんて……」
「嫌い? だったらはっきり言って。そうしたら、僕も“諦める”から」
 真っ直ぐに見据えられ、メリーアンは口ごもった。つい口をついてしまったが、その先に何を言おうと思ったのか。たとえ人外だとしても、心無い言葉を言えば傷つけてしまうだけではないか。
 でも言葉にして言えない。言ってしまったら後戻りは出来ない気がしていた。ゼタルの魅力に引きずり込まれて二度と逃げ出せない。彼は人間ではない。正確には何なのかさえ知らない。逃げ出せなくなったら、その先に待っているのはきっと……
「メリーアン」
 柔らかく名を呼ばれ、メリーアンは身を震わせた。
 紅い銀の瞳が、ふっと近づく。
「君はとても美しい。その“心”は穢れがない。……君は、僕に“相応しい”」
 細められた紅い瞳が熱情の色を帯びる。“美しい”などという聞き慣れない気障(きざ)な台詞を吐いた薄い唇が、ゆっくりと近づく。もう、逃げられない。
「わたし、は……」
 甘く魅惑的な雰囲気と、一度見つめたら捕らえて離してくれない情熱の紅い瞳が思考を溶かそうとする。ゼタルが言わせようとしている言葉が、喉から這い上がってくる。その先を言ってはダメだと、身体の奥で何かが警鐘を鳴らしているが、止められない。堕ちてしまったら、這い上がれないのに。
 ふっと、碧眼が力失せた。確認したゼタルがわずかに口端を吊り上げたが、メリーアンにはもう見えていない。
「……“君”は、僕のモノだよ」
 追い詰めた子ウサギを弄ぶように。罠にかかった小鳥をいたぶるように。
 甘く切なく囁いて。少女を悪夢へと堕とすべく、麗しの悪魔は唇を寄せた。


 しかし。
 唇が触れそうになった、その時。
 来客を告げるチャイムが鳴り響き、メリーアンははっと我に返った。二三度瞬いてはっきりと意識を取り戻すと、間近にゼタルの顔があると気付く。
「なっ、なんで、こんな……」
 メリーアンは真っ赤になって慌てふためき、身じろいだ。そのおかげか、運良くゼタルの手から逃れる事に成功し、逃げるように距離を取る。一体、何をしようとしていたのか。
「お客さん、来たみたい!」
 わざとらしく声を上げて、メリーアンは小走りにキッチンを出て行った。表情は羞恥に歪んでいた。
 その後姿を見送って、ゼタルが不服そうに舌打ちしたなどと、彼女は思いもしなかっただろう。



 未だ鳴り止まないチャイムの音で足が速まる。こんな遅くに誰だろうか。急用だろうか。慌てて玄関の扉を開けると、そこに立っていたのはマリアだった。
「マリア!」
 久しぶりに見た親友の笑顔に、メリーアンも思わず表情を明るくした。あれからもう一月経っていたのか。ゼタルのことで悩んでいたせいか、一月があっという間に過ぎていた気がする。
「ただいま! 二人とも、元気にしてた?」
 これお土産よ、と言って紙の袋を手渡しつつ、マリアが様子をうかがった。何が入っているのかと聞いてみると、旅行先で名物になっていたお菓子だという。
「ありがとう。これ渡すために?」
「うーん、それもだけど、帰って来たこと早く知らせたかったしね」
 鼻先がつんとした。こんな風に言ってくれるのは、この村でもマリアくらいだろう。改めて、彼女の大切さが身に染みてわかった。また会えて本当に嬉しかった。
 とりあえず、マリアは帰還の報告をしに来ただけらしい。本当は上がってお茶でも……と誘いたかったが、ゼタルがいるから今は無理だ。また明日ね、と手を振って去って行く親友を笑顔で見送っていたが……
「お客さま?」
 予期せず背後から声が聞こえ、メリーアンはぎくりとした。この声はサージュではない。そうなると、この屋敷の住人は他に一人しかいない。
 呼び止められて振り返ったマリア。その濃茶の瞳は大きく見開かれていた。
「どなた?」
 メリーアンの背後から姿を見せて穏やかに笑んだのは、言葉には形容できないほど美しい少年だった。紫の艶を帯びた銀色の長い髪は緩く編んで肩に流れ、銀の杯に零れ落ちたワインのような色の瞳は興味深そうにマリアを見つめている。指の先、髪の一本まで完璧な美を取る少年は、とても人間とは思えない。年齢にして、十四・五あたりだろうか。歳に不相応なまでの色気まで漂わせていた。
 メリーアンは青ざめていた。村人が来た時、絶対に姿を見せるなと言っておいたのに。一見してゼタルが普通の人間とは違うとわかる。現に、マリアは驚いている。どうやって説明すればいいのか。
「メリーアンのお友達?」
 言葉を探して困惑しているメリーアンの隣に並び、ゼタルはマリアに問いかけた。突然の美少年登場にマリアは驚き、そして戸惑っているようだった。「はい」の返事は言葉にならず、うんうんと激しく頷いているだけ。
「そうなんだ。僕はメリーアンとサージュの友達で、名前はゼタル。しばらくここに厄介になっているんだ。君の名前は?」
 にっこりと微笑まれ、マリアは頬を紅くした。
「マリア、よ」
 その名を聞いた途端。
 ゼタルはぴたりと動きを止めた。わずかに表情がかげったが、メリーアンもマリアも気付かない。

 あの女と同じ名前――再び耳にするとは思いもしなかった。
 大切な“あれ”を奪っていった、憎き女の名を。
 これもまた運命、いや一興か。
 さて、この女を使ってどうやって遊んでやろうか。

 ゼタルは一歩進み出て、マリアに向けて手を差し伸べた。
「よろしくね、マリア」
 邪気のない笑顔を向けられ、マリアは惚けた顔で握手に応じた。すでにゼタルの意中に堕ちたとは、マリア自身は全く気付いていないだろう。
 ――容易い。 
 心中で呟いたゼタルの貌が、愉悦に浸る悪魔のそれであったと、背後のメリーアンは知る由もなかった。




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