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 マリア。
 それは、ゼタルにとって最も忘れ難き名であり、同時に憎むべき対象であった。地下に眠る前――彼が本当の姿でこの村に存在していた頃、マリアという名の娘に執拗な愛を向けられ、挙句大切なモノを奪われたのだ。あの女が余計なことさえしなければ長きに渡り眠ることもなく、不自由なことなど何もなかったのに。
 その名を聞くだけで虫唾が走る。本当は今すぐに消し去ってやりたいほどだが、ここは少し冷静になり、代わりに利用する手を考える。女は愚かだ。ほんの少したぶらかすだけでその気になって、すぐに心も身体も開く。そうなれば、あの女はまるで操り人形のように意のままに動くだろう。
「どうされるおつもりで?」
 居間のソファで身を横たえる主に向かい、漆黒の騎士服を来た美貌の青年――バルフォレは問いを投げた。
 昼である時候、メリーアンは仕事に出かけており、サージュもまた今日は朝から村医者の手伝いに出ている。ゆえに、こうしてバルフォレが堂々と居間に存在するというわけだ。
「彼女には、先日会った時に少し細工を仕掛けておいたんだ。だからもうすぐ来ると思うよ」
 そうでなくとも、あの惚けた顔を見ればわかる。マリアは、確かにゼタルに興味を抱いていた。だから近いうちに必ずここへやって来るだろう――傍らに立つバルフォレに対し、ゼタルはにっこりと微笑みかけた。もしも彼が悪魔でなかったら、その笑顔は“まるで天使”と言われることだろう。しかしその無垢なる笑顔の裏側で、ゼタルは確かに黒い策略を練っていた。
「僕が今本当に欲しいモノのために、彼女には犠牲になってもらう事にするよ」
 そう言って、横たえていた身を起こした時。来客を告げる呼び鈴が鳴り響き、ゼタルは愉しげに口端を吊り上げた。
 “彼女”ならば、今の時間、メリーアンが不在であることを知っているはず。それを承知でやって来るとは……
「女って、愚かだね」
 鼻で笑い飛ばして吐き捨て、ゼタルは玄関へと向かって行った。






 ――来ちゃった。

 呼び鈴を鳴らした手を引っ込め、古びた扉の前でマリアは溜め息を吐いた。何度も何度も迷ったが、数日前に会ったあの少年――ゼタルに、もう一度会いたいと思ったのだ。彼はメリーアンだけでなく、サージュの友達でもあると言っていたが、一緒に住んでいるくらいだ、メリーアンとは特別な関係かも知れない。もしかしたら親友の恋人かも知れない相手に会いたいなんて、自分でも不謹慎だと思う。けれど会いたいという衝動は抑え切れず、ついにこうして来てしまったのだ。
 晴れない雲のせいで薄暗いとはいえ、今は昼間。メリーアンは仕事に出かけているはず。サージュはいるかも知れないが、彼女が不在ならばそれでいい。親友に気兼ねせず、どうしても二人だけで話がしたかった。
 呼び鈴を鳴らしてしばし経つが何の反応もなく、些かの不安に陥った。やはりこんな風にこそこそと会うのは良くないと言われている気がして居た堪れなくなり、もう帰ろうと思って背を向けようとした時。
「どちら様?」
 わずかに扉が開かれ、呼び止める声がした。サージュとは違う、不思議な色を持つ声――振り返ると、儚げな美しさを持つ少年の紅い瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「こんにちは……」
「ああ、マリア。いらっしゃい。どうぞ入って」
 おずおずと挨拶をすると、ゼタルはそこにいるのが知人だと気付いてにっこりと笑んだ。そうしてまるで我が家であるかのように、マリアを優しく招き入れた。
「メリーアンに会いに来たの? でも残念だったね、今の時間はお仕事に出ていていないんだ」
「そ、そうだったわね。すっかり忘れてた」
「サージュもお医者様の手伝いに行っているんだ。ごめんね、僕しかいなくて」
「そんなことないわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。そうだ、ちょうど退屈していたところだし、お茶を入れるからゆっくりしていって」
「う、うん」
 ゼタルの端正な笑顔に見惚れながら、マリアは上ずった声で返事をする。見れば見るほど麗しい少年だ。
 ――うさぎみたい。
 肌は雪のように白いし、見たこともない紅い瞳はとても魅力的。柔らかな笑顔は心が癒されるよう。手を伸ばして、触れてみたい。愛らしいうさぎに想いをはせるように、マリアはぼんやりと考えていた。髪も瞳も普通の人とは違うのに、不思議と彼に対する恐怖心は存在しなかった。

 居間に通されたマリアは、ゼタルがお茶を入れている間、落ち着きなくソファに座っていた。メリーアンもサージュもいない……もちろんそれを望んで来たはずなのに、いざその状況になるとひどく緊張してしまう。
「どうぞ」
 テーブルにカップが差し出され、マリアははっとした。ぼんやりとしていたせいで、他愛ない言葉なのに、声に驚いてしまった。
「ありがとう……」
 さっそくカップに手を伸ばし、口に運ぶ。ほんのり甘い香が鼻腔をくすぐる。なんという種類なのだろうか、今までに嗅いだことのない不思議な香。でも嫌いじゃない。
「ねえ。マリアは、メリーアンとは仲が良いの?」
 向かい側に座ったゼタルが、興味心を浮かべた眼差しで見ていた。
「ええ。だってこの村で歳が近いのって、私たちくらいだし。メリーアンは働き者で、いい子よ」
「そうだよね。僕にも良くしてくれるよ。怒ると怖いけど、根は優しくて寂しがり屋なんだ。だから大切にしたくなる」
 そう言って微笑んだゼタルを見て、マリアの心は痛んだ。目の前にいる自分ではなく、まるで遠くを見ているような瞳も口ぶりも、まるで恋人を想っているみたいではないか。やはり二人はそういう関係なのだろうか。でもメリーアンは一言も言っていなかった。
「あ、あの……ゼタルは、メリーアンとはただの友達なの?」
 会って間もないというのに、こんな質問をしたら変に思われるだろうし、嫌がられる可能性もある。それでも聞かずにはいられなかった。こんなに綺麗な少年を独占するメリーアンが、少し妬ましく思えたのだ。
 ゼタルは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔を浮かべた。
「もしかして、僕に興味がある?」
「そ、そういうわけじゃ……」
 マリアは俯き、言葉を探して口ごもった。本当は気になっているくせに、どうしてか言えなかった。率直に聞かれると本音を言い難い。それに、心の底では卑しい女と思われるのが嫌だと思っていた。
 ゼタルが静かに立ち上がった。それでもマリアは俯いていたが、予期せず隣に気配を感じ、驚いて顔を上げた。向かい側のソファにいたはずの彼が、すぐ隣に移動してきていた。
「気になるから聞いたんでしょう? それに、もしも僕がメリーアンとは恋人同士だと言ったら、君はどう思うの?」
「どうって、別に……」
「ふうん。君は嘘吐きなんだね」
 刺々しい一言にマリアは身を強張らせ、恐る恐るゼタルを見た。美しく儚げだった少年は表情を失くし、冷ややかな瞳でこちらを見ていた。
「君は僕に興味を抱いた。だからもう一度会いたいと思った。そして、僕の“特別”になりたいと考えた。そうだよね? もしそうじゃなかったら、わざわざメリーアンがいない時間を選んでここに来たりはしない。君は、友人の恋人かも知れない僕を誘惑して奪おうとしたんだ」
「違うわ!」
 あまりにも酷い言われようにカッとなり、マリアは顔を上げた。会って間もない相手に、なぜここまで言われなければならないのか。
 激情で潤んだ濃茶の瞳がゼタルをねめつけた。けれど、ゼタルは動じない。紅銀の瞳は、見下すようにマリアを見ていた。
「ほら、また嘘を吐いた。君は僕に“卑しい女”だと思われたくなくて、そうして嘘ばかり吐く。そうやってメリーアンやサージュも騙してきたの?」
「何を言って……そんなはずないじゃない!」
「でも君は大切な友人を裏切ろうとしているんだよ? 同じことだと思うけど」
 突き放すように吐き捨て、ゼタルは顔をそむけた。すると、先程まで激情に駆られて声を荒げていたマリアは、ショックを受けたように悲愴な表情を浮かべた。そうしてようやく真実を口にする。
「……あなたに会いたいと思ったことは本当よ。でも私、メリーアンを裏切ろうなんて考えてなかった。ただ少し、あなたと話がしたかっただけ」
 潤んでいた瞳から涙が零れ落ち、マリアは俯いた。確かに自分は素直に言えず、嘘を吐いたかも知れない。けれどゼタルが言うように、決して誘惑しようなんて、奪おうなんて考えていなかった。そんな風に見られていたなんてショックだった。
 マリアは俯き、両手で顔を覆って嗚咽を洩らした。心を突き刺す言葉の数々と、突き放されたようなゼタルの態度に居た堪れなくなった。嘘を言うような人間だと思われたくない。卑しい女だと嫌われたくなかった。
 そんなマリアの姿を見て、ゼタルは口端を吊り上げていた。しかしその表情はすぐに隠れる。切なげな眼差しを浮かべてそっと手を伸ばし、マリアの髪を優しく撫でた。
「酷いことを言ったりしてごめんね」
 優しい声色にマリアはわずかに身を震わせ、そしてゆっくりと顔を上げた。ゼタルは先程と違って悲しげな表情でじっと見ていた。
「メリーアンもサージュも僕にとっては大切な人だから、ついむきになってしまったんだ」
「……私こそ、ごめんなさい。大きな声を出したり、突然泣いたりして……」
 穏やかな口調にほだされてマリアが謝罪すると、ゼタルはゆっくりと首を横に振った。そうして今度は穏やかな笑みを浮かべる。
「素直な人は大好きだよ」
 髪を撫でていた手が滑り降り、白い頬に添えられた。濃茶の瞳が驚きで瞬かれると、一粒の涙が零れて落ちる。しなやかな指で小さな雫をすくい取ると、ゼタルは指先を口元に運び、軽く唇を触れた。
 唇からちらとのぞいた舌が、指先を濡らした涙を舐め取る。マリアを凝視する紅銀の瞳は強い魔力を秘めたように妖しく、美しい。微妙な年齢を取る美少年の艶かしい姿にマリアは惹き込まれ、瞳を見開いたまま微動だに出来なくなっていた。
「ねえ、僕に興味があるんでしょう?」
「はい……」
 魅惑的な瞳の魔力に囚われ、マリアはぼんやりとした眼差しで頷いた。
 ゼタルは満足そうに笑んだ。そうしてさらに身を寄せると、手を伸ばせば触れ合えそうな距離にマリアは身を固くし、恥らいを見せた。
「どんな風に興味を抱いたの?」
「……とても綺麗な少年だなって。紅い瞳も白い肌も、まるでうさぎみたい……」
 先程まで隠し続けていた己の心情を語る事への羞恥か、それとも間近に迫るゼタルに恥らっているのか、マリアの頬が上気した。
 ――うさぎ、ね。
 ゼタルは心中で嘲笑った。そんな愛らしい生物にたとえてもらうなど、長い人生の中で一度たりともなかったというのに。
「そう。とても嬉しいよ」
 マリアの耳元に唇を寄せ、そっとささやく。熱のこもった吐息が耳朶を掠め、マリアはびくりと身を震わせた。
 心にもない言葉を吐くことなど、ゼタルにとって他愛もないこと。そして己の望のために誰かを利用し、情も愛もなく陥れることなど造作もないこと。
 耳元でささやいた唇は、触れるか触れないかの際で首筋を滑り、熱い吐息だけを残してゆく。しなやかな指先が項を、鎖骨を、肩を優しくなぞる。その度にマリアは小刻みに震え、意図せず息を吐いた。
「ねえ、マリア」
 背筋がぞくりとするほど甘く呼ばれた名が、まるで自分のものではないような。
「こうされたいと、思ったんでしょう?」
 クスクスと耳元で笑う声と指先が与える甘く切ない感覚に、もう何もかもが遠のいて薄れ――マリアはゆっくりと頷いた。
「素直だね。いい子だ」
 褒められて喜ぶ子供のようにはにかんだマリアの顎に手を添え、ゼタルは躊躇いもなくその唇に口付けた。固く閉じられていた唇を割って舌をねじ込み、渇きを癒すように深く貪った。
 初めての口付けに戸惑い、しかしあまりの激しさに動揺したマリアは、逃れようと微かな抵抗を見せていた。だがそれも次第に弱々しくなり、やがては完全になくなってゆく。
 濃茶の瞳がうっとりと力失せると、顎に添えられていた手がするりと滑り――喉元を掴んで、唇が強引に引き離された。力任せに押し倒されたマリアは、わけがわからずにただただゼタルを見上げていた。
 悪魔の本性を宿した紅い銀の瞳が、蔑むように見下ろしていた。
「愚かだな」
 メリーアンを……親友を裏切るつもりではなかったと言ったのは、他でもない己自身だ。それなのに結局は誘惑に勝てず、こうして彼女を裏切った。悪魔の戯言よりも、人間の言葉は薄っぺらで、愛しさを覚えるほどに愚かしい。
 首に宛がった手に力をこめると、マリアは悲鳴にならない声を上げて身悶え、蒼白になりながら必死に救いを求めていた。首を絞める手はそのままに、ゼタルはもう一方の手をマリアの身体に這わせ、衣服を剥いでゆく。露わになった素肌に指を這わせれば、死と快楽の狭間、苦と悦を織り交ぜた生めかしい喘ぎが洩れる。
「お前が望むモノをくれてやるよ。その代わり……」
 罠にかけられて翼を折られた鳥は、二度と空を飛ぶことは叶わず、庇護なしでは生きて行けない。麗しの悪魔に惑わされた“マリア”は、かつての“マリア”のように、もう彼なしでは生きて行けない。そして彼女を待ち受ける未来は――暗闇でしかないのだ。



 時計の針はすでに夕刻を指していた。もうすぐ仕事を終えたメリーアンが帰って来る。恐らくサージュも戻って来ることだろう。
 情事を終え、乱れた衣服そのままに、ゼタルは自室の窓から帰ってゆくマリアの姿を見送っていた。その視線には愛も情もなく、ただ己の玩具となった娘を蔑み嘲る感情だけが浮かんでいた。
「“あれ”は取らなかったのですね」
 音もなく室内に現れたバルフォレが、床に跪いて主への礼を取りながら言葉をかけた。
 ゼタルはゆっくりと振り返り、少し不機嫌そうな顔をする。
「あの女と同じ名を持つ人間のなんて、虫唾が走るよ」
「しかし、そろそろ替え時では?」
 すると、ゼタルは悪戯を思いついた子供のように小さく笑った。
「そうだね。でも安心してよバルフォレ。“次”は比べ物にならないくらい上等なやつを手に入れるからさ」
 “次”を手に入れれば、“本物”がこの身体に戻る日も近くなる。それだけのためにマリアを罠にかけ、生かしたのだから。
 次に己の罠にかかるだろう少女の顔を思い浮かべ、ゼタルは麗しい貌に妖しさを湛えて赤黒い月を見つめていた。




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