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 月食が起きてから数か月、昼夜を問わずに未だ空は晴れず、暗い世界は少しずつ人々の心までをも蝕むようになっていた。
 陽が差さないから洗濯物が乾かない、農作物も育たない。ほんの些細な事柄だが、日常に障りある事が何か月も続けば苛立ちは募る。そして内に溜め込み過ぎて限界を迎えれば、やがては吐き出さなければ収まらなくなってしまう。
 赤黒い月は、空だけでなく、人の心からも光を奪ってしまっていた。



◆    ◆    ◆



 パン屋での仕事中、メリーアンはぼんやりとしていた。その一瞬にうっかり肘がぶつかってしまい、派手な音を立てて器が転がり落ちた。はっとして視線を向けると、小麦粉が広がって床は真っ白に染まっていた。
 片付けようとして、メリーアンは慌てて屈みこむ。すると、向こうから刺々しい言葉が投げかけられた。
「材料だってタダじゃないんだから、気をつけておくれ!」
「……ごめんなさい」
 視線を上げて謝罪すると、店主であるおばさんは怒った顔をふいとそむけ、その後もぶつぶつと文句を言っていた。
 床を拭きながら、メリーアンは小さな溜め息を零した。ここで働き始めた頃のおばさんは、とても気さくで優しかった。少しくらいの失敗など笑って許してくれる人だった。それに甘えてしまっていた自分がいたのも事実だが、ここ最近のおばさんは、まるで人が変わってしまったかのように辛く当たってくる。こんな天気で材料が手に入りにくいのだから、こうして失敗をする自分がいけないのだが。
 もう一度息を吐き、床を片付け終えて立ち上がると、扉についている小さな鐘が来客を告げた。気を取り直して曇った表情を一変させ、メリーアンは笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ……あ」
 やって来たのは、このエレフの村長夫人――マリアの母親であった。
「ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょうか?」
 エプロンを外しながら、メリーアンは村長夫人に歩み寄った。雰囲気で買い物に来たのではないとわかるが、何用だろうか。
「マリアは、あなたとずいぶん仲良くしているみたいね」
「はい、良くしてもらっています」
「そう……でも、こう毎日遊びに出るようでは困るのよ。あの子、近頃は家の手伝いなんか少しもしないで、あなたの家に行っているみたいだし」
「え、うちに……ですか? そんなはずないと思うんですけど」
 夫人の話が理解できず、メリーアンは疑問を抱いた。すると夫人の方もメリーアンの反応に納得がいかないらしく、わずかに眉をひそめていた。
「とにかく、あなたからも言っておいてちょうだい」
 これ以上話をする気はないのか、夫人はそうとだけ言って店を出て行ってしまった。

 夫人の話に引っ掛かりを覚え、メリーアンは早めに仕事を上がらせてもらい、屋敷へと帰った。夫人によれば、マリアは毎日屋敷に来ているというが、そんな話は聞いていない。もしやサージュが何か用があって呼んでいるのだろうか。それにしても家にはゼタルがいるし、あまり好ましい状況ではない。
 急かされる様な気持ちを覚え、メリーアンは胸を押さえた。自分は何を焦っているのか、何を恐れているのか。ゼタルの秘密が知られてしまう事か、それとも……。
 しかし明確な答えが出る前に、メリーアンは屋敷に帰り着いてしまっていた。

 確かに閉めて出たはずの扉の鍵は開いていた。サージュは今朝は一緒だったし、帰りは夜になるかも知れないと言っていた。ゼタルには、自分達が不在の間は決して鍵を開けないようにと言ってある。つまり誰かが訪ねてきたということになる。
 ――きっとサージュが早めに戻って来たのよ。
 そうだ、何を考えすぎていたのだろう。それにマリアならば、用がある時はまず自分に話をするではないか。頻繁に家に来ているというのも、夫人の勘違いだったのだろう……そう心に言い聞かせ、メリーアンは扉を開けて玄関へ踏み入った。
 扉を閉めて用心深く辺りを見回す。自分の家なのに、まるで他人の家に忍び込んだような気分に陥った。そのせいか、もう慣れたはずなのに階段下に立つ鋼鉄の騎士が気味悪い。屋内はシンとしていて、人の気配など感じられなかった。
 まず居間をのぞいて見たが誰もいなかった。ゼタルは自分の部屋にいるのだろうか。そう思って騎士の前を通り過ぎ、二階へ上がろうとして一段踏み出した時だった。
 階上から、話し声が聞こえてきたのだ。
 一段目に足をかけたままの状態で碧眼は二階を見上げ、メリーアンは固まっていた。鼓動が速くなる。次第に呼吸が荒くなり、指先が震えてくる。恐怖にも似た感情が、忙しなく心臓を打ち鳴らしている。

 このまま二階に上がらなければ、何も知らずに済んだのに。

 全身を支配する恐怖心とは裏腹に、メリーアンは一段、また一段と階段を昇っていた。それに比例して声は徐々に大きくなり、完全に二階へと到達した時には、それがゼタルの部屋から洩れて来るのだと知れた。
 全身に響く鼓動の音に脅迫され、蒼白になりながらもメリーアンは真っ直ぐにゼタルの部屋に向かって歩んでいた。
 一歩近づくたびに声が鮮明になってゆく。くすくすと愉しげに笑う女の声がやけに耳に届く。のぞき見ることを促すようにわざとらしく、わずかに開かれた扉の向こうには、信じたくもない光景が広がっていた。

 触れるように、時に情熱的に。寝台に身を横たえ睦み合う男女は口付けを交し合っていた。紫の艶を帯びた長い銀髪がシーツに広がり、衣服が大きくはだけて白い肌が覗く。
 慣れた様子で素肌を這う手が、一線を超えた仲である事を嫌になるほど物語っていた。

 罪悪感と嫌悪感でそれ以上見ていられず、メリーアンはすぐさまその場を立ち去った。口を押さえて今にも吐き出しそうなのを必死に堪え、蒼白の顔色で逃げてゆく。
 去り際、その後姿を見て紅い銀の瞳が愉しげに笑ったなんて、彼女は知るはずもない。





 それからどれくらいの時間が経過したか。

 帰ろうとして玄関の扉に手を添えたところで呼び止められ、マリアは立ち止まった。振り返った先にはメリーアンが立っており、どうしたのか顔色は悪く、いつものような明るさが感じられなかった。
「あらメリーアン、いつの間に戻っていたの? いたなら一言言ってくれれば良かったのに」
 ゆったりとした動作で笑顔を作ってマリアが労わりの言葉をかけるが、メリーアンの表情は暗かった。まるでこの家の住人みたいな言葉、どこか余裕のある笑顔――親友であるはずなのに、今日は全てが疎ましく思えた。
「……お店にお母様がいらっしゃったわよ。あなたが家の手伝いもせずに遊んでばかりいるから、何とかしてくれって言われたわ」
「やだ、本当?」
 マリアが、大袈裟に驚いた表情を作った。
「頻繁にうちに遊びに来ているとも言っていたわ」
「もう、お母さんったらメリーアンにまで迷惑かけて……ごめんなさいね。うちの両親って心配性だから、たまに大袈裟な事を言うのよね。だからあまり気にしないで」
 マリアが、今度は少し怒ったような素振りを見せた。その一つ一つの動作がいちいち演技めいて見え、メリーアンは苛立ちを募らせていた。
「……いつから?」
「え?」
「一体いつから、私達がいない間に勝手に上がり込んでいたの?」
 攻撃的な言葉が頭に浮かび、驚くほどすんなりと口から吐き出される。碧眼が恐ろしく冷静な眼差しを向けると、マリアはひどく心外そうな顔をした。
「まるで泥棒みたいな言い方をするのね、ひどいわ。それが親友に対して言う言葉?」
「はぐらかさないでよ。いつから、私達の目を盗んでゼタルに会っていたの?!」
 いきり立ってメリーアンが声を荒げた。彼女自身、どうしてこんなに興奮しているのかわからなかった。けれど無性に苛立って仕方がないのだ。
 それでもマリアは冷静な態度を崩さなかった。興奮するメリーアンを一瞥し、ふっと表情を緩めて口端を吊り上げる。
「勘違いしないで。私が無理に押し入ったんじゃなくて、ゼタルが入れてくれたのよ」
「嘘言わないでよ」
「どうして嘘だと思うの?」
「ゼタルには、誰が来ても扉を開けるなって言ってあるもの」
「まあ、ずいぶんと過保護なのね。まるで誰にも見られたくないからって、独り占めして隠しているみたい。それに自信も過剰だわ。その約束を、いつまでも彼が守っていると思えるんだもの」
 くすり、とマリアが意地悪げに笑んだ。
「でも、気持ちはよくわかるわ。だって彼、とても綺麗だもの。だから私、彼に会いたいと思って訪ねてきたの。そうしたら、一人で留守番が退屈だから話し相手になってくれって入れてくれたのよ。とても寂しそうだったわ。そうよね、毎日こんな屋敷に一人閉じ込められているんだもの。なんて可哀想」
 マリアはきっと、メリーアンがゼタルを閉じ込めていると思っているのだろう。その証拠に濃茶の瞳が明らかに責めていた。
「過保護にするのは、彼があなたにとって特別だからでしょう? でも残念ね。ゼタルはもう、私のものだもの」
 口元に手を添えてクスクスと笑いを零したマリアは、とても艶やかに見えた。メリーアンを見る目は、上位目線で勝ち誇っていた。それが、ますます神経を逆撫でした。先程目の当たりにしてしまった光景が、思い出したくもないのに脳裏に甦った。
「あんたに何がわかるのよ! 私たちのことなんて何も知らないくせに!」
「ああ、あなたが一生懸命に世話してくれていたって話かしら。それなら全部ゼタルから聞いたわ。でもそれって結局、母親代わりでしかないでしょう? 成長すれば自然と独り立ちするものよ。きっともう、あなたから解放されたいのよ。だから私を選んだんだわ」
 マリアの態度が全てを嘲笑っているように見え、これまでの生活を全否定されたような気持ちになった。幼いゼタルを一生懸命世話したことも……そして日々麗しく成長するゼタルに抱いた、淡い想いも。
「ねえ、知ってる?」
 マリアが瞳を細め、一際妖艶に笑んだ。
「ゼタルが、どんな風に愛をささやくか」
 次瞬。
 肌を打つ乾いた音が響いた。怒りで頬を上気させ、悔しげに歯を食いしばり、今にも泣きそうに瞳を潤ませて。メリーアンは反射的にマリアの頬を叩いていた。碧眼がきつく睨みつけると、マリアは紅く貼れた頬を押さえながら忌々しげに見返してきた。
「嫉妬なんて醜いわね。こんな事をしたって、ゼタルはもう……」
 言いかけて、マリアは言葉を切った。メリーアンに侮蔑の眼差しを向けていた濃茶の瞳が、わずかに上を向いてぎくりと固まる。階段の上方から、紅銀の瞳が突き刺すように冷たく見下ろしていたのだ。まるで心臓を一突きされたように、彼女はぴくりとも動けなくなっていた。
 しかし背を向けているメリーアンにはそれが見えていない。それ以前に、興奮して我を失っている彼女には、その場の些細な動きなど捉え切れなかったのだが。
「……今日はもう帰るわ」
 そうとだけ言い残し、マリアは逃げるようにして玄関を抜けて去って行った。


 一人取り残されたメリーアンは、俯いて言葉を失くしていた。怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった心は、治まることなく鼓動を速める。喉まで昇ってきたモノを必死で押し戻そうと呼吸さえも止めていた。全身が震え、膝から力が抜け、今にも崩れ落ちそうだった。
 頬を叩いた手が痛い。つい昨日まで仲良くしていたのに、マリアに対する苛立ちがどうしても治まらない。どうしようもなくドロドロとした感情が、心から溢れて止まらないのだ。
「メリーアン?」
 名を呼ばれ、メリーアンはびくりと肩を震わせた。けれど顔を上げることができない。振り返ることもできない――いや、したくないのだ。いま顔を見てしまったら、きっと酷い言葉で罵ってしまうに違いない。
「さっき大きな声が聞こえたけど……どうしたの? 何かあったの?」
 返事もせずに俯いていると、声の主・ゼタルはすぐそばまで近づいてきた。心配そうに顔をのぞき込み、肩に触れようとする。
 しかし。
「……触らないで」
 低く重い声が触れる間際で制し、ゼタルはぴたりと手を止めた。
 そんな風に優しくするのも嘘。彼の言葉は全て――そう、好きだと言っていたのも、きっと偽り。だからもう、何も信じられない。
「そうやってマリアにも愛想を振りまいたんでしょう? 私なんてもう要らないんだったら、二度と構わないで」
 自分でもこんな声が出せたのかと思うほど。低く威圧的に吐き捨て、メリーアンはゼタルを拒絶した。けれどゼタルは一方的な彼女の言い分に納得がいかない顔をしていた。
「こっちを向いてよ」
 促されても、メリーアンは反抗を見せ付けるように逆方向へと顔をそむけた。しかし腕を掴まれ、頬に触れられ、無理やりに振り向かされた。
「……っ、触らないでって言ってるでしょう?!」
 癇癪を起こす子供のように、メリーアンは必死になってゼタルの手から逃れようとした。だが、どんなに暴れても拘束は解けない。縛り付けられているように身体が動かない。碧眼がきつく睨みつけた先には、冷静で、少し悲しげな紅銀の瞳があった。
「マリアを勝手に家に入れたことを怒っているんだね。ごめんなさい……でも、僕は寂しかったんだ。話し相手が欲しかっただけなんだ。本当にそばに居て欲しい君はいつもいなくて……」
 メリーアンは自嘲気味に笑った。
 思い返せば前からそうだったではないか。愛らしく魅惑的な姿で甘え、我がままを言って全てを思い通りにしていた。子供の持てる最大の武器を駆使して、自分やサージュを意のままに動かしていた。いくら成長しても変わりはしない。それは、ゼタルが生まれながらにして持つ力なのだ。大人になれば、今度は誰をも魅了する麗しい姿と甘く誘惑的な言葉で、巧みに陥れるつもりだろう。
 だから、そんな言葉にはもう騙されない。 
「話し相手が欲しかった? それだけじゃないでしょ」
「どういう意味?」
 不安そうに首をかしげたゼタルを見て、メリーアンの中で何かがぷつりと切れた。
「自分が一番良くわかってるくせに、そんなことまで私に言わせたいの?! そんなに寂しいなら、私を追い出してマリアをこの家に住まわせたらいいわ!」
 ヒステリーを起こしていると、理不尽な怒りをぶつけているとわかっていた。けれど一度堰を切って溢れ出たものはもう止められない。声を上げて取り乱し、必死に手から逃れようとした。
 けれど、どんなに抗っても腕を掴む手は離れなかった。そうしてやがては押さえ込まれ、我を取り戻した時にはゼタルに抱きしめられていた。
「お願いだから、落ち着いて」
 穏やかに宥められる。全ての怒りを受け入れるように優しく柔らかな抱擁に、メリーアンは俯いて荒く呼吸を繰り返し、疲れて言葉を失くした。
「……君を追い出すなんて、そんなことできるわけがないよ」
 毛を逆立てて怯える猫をあやす様に。大人しくなったメリーアンの髪を優しく撫で、ゼタルは耳元でささやいた。
「サージュが目覚めさせてくれたからこそ、僕は今この世に存在している。君が大切にしてくれたからこそ、僕はここまで大きくなれた」
 二人には心から感謝している。嘘ではない。二人がやって来なければ、偶然でなく必然の運命がなかったならば、ゼタルは永遠にあの棺の中で眠っていただろう。
「でも、もう少し……もう少しで、本当の姿を取り戻せる。それには君が必要なんだ」
 しなやかな白い指が、いとおしげに金の髪を梳く。一言一言、その心に刻み付けるようにゆっくりと、ゼタルは言葉を綴る。
 悪魔の言葉には毒がある。耳に留めるだけで感覚が麻痺し、思考が止まり、夢を見ているように甘美な熱に浮かされる。
「僕にとって大切なのは、他の誰でもなく、君だ。欲しいのも君だけ。何故だかわかる?」
 俯いた横顔に向け、ゼタルが柔らかく笑んだ。
「君は僕にとって“特別”だから」
「……特別?」
 それまで無言だったメリーアンが、うわ言のように言葉を繰り返した。
 ゼタルの唇が弧を描く。彼女は一度誘惑に堕ちかけた。その効力が残っているのか、見開かれた碧眼は焦点が合わず、ぼんやりとしている。……今度こそ間違いなく、手中に収まるはず。
 そう、メリーアンは彼にとって本当に“特別”なのだから。
「そうだよ。僕は、君の事を愛してるんだ」
 耳元で甘くささやかれた刹那。

 ――ねえ、知ってる?

 マリアの勝ち誇った声が頭に響いた。

 ――ゼタルが、どんな風に愛をささやくか。

 焦点が合わずにぼんやりとしていた青い瞳に光が戻った。
 メリーアンは力いっぱいにゼタルの胸を押し返し、抱擁から逃れた。
「……嘘吐き」
 きつく引き結ばれていた唇がわずかに動き、呟いた。
 涙で潤んだ青い瞳には、明らかな嫌悪が色濃く浮かんでいた。
「あんたなんて、大嫌い」
 すぐさま身をひるがえし、メリーアンは玄関の扉を開け放って薄暗い世界へと飛び出した。
 マリアが言っていたことは図星だ。彼女に嫉妬して、ゼタルを取られて悔しくて、ひどい言葉を言い放った。いつでもサージュやゼタルのことを考えて、一生懸命働いて頑張っていたのに、その隙に泥棒猫のようにゼタルを奪ったマリアが妬ましく、憎い。それは親友だからこそ、決して消えない溝となった。
 同時に、ゼタルに対する嫌悪感も激しく募っていた。好きだなんて言っておきながら、よくも他の女とあんなことが出来るものだ。もう触れられるのさえおぞましい。些細な言葉さえも毒のような気がして……これ以上そばに居るのが嫌だった。
 乱された心がひどく痛んだ。
 自分が、こんなに醜い女だなんて知らなかった。




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