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 ゼタルはひどく苛立っていた。隠そうともせず全身に漂わせ、その苛立ちをぶつけるように、足に擦り寄って甘えてくる黒猫を蹴飛ばす。弾かれて床にうずくまった猫を紅銀の瞳が睨みつけ、猫から奪ったモノが収まる胸を押さえて忌々しげに舌打をする。今すぐにでも新しいモノに替えないと限界だった。
 あの日以来メリーアンは一切屋敷に寄り付かなくなり、離れた小屋で一人生活をしていた。何度もサージュが話に行ったが全く耳を貸さず、それまでの明るさは失われて表情は常に陰るようになった。生きているのに死んでいるようだと――サージュがとても気落ちして話していたのを思い出す。
 メリーアンが屋敷を出てしまったのは計算外だった。本来の力を取り戻せていないゼタルは、屋敷に施された封印を破ることが出来ず、まだ外に出られない。だから連れ戻されてくるのを待つしかないのだ。そのために甘い顔をして強請り、サージュを向かわせているというのに、未だ効を奏さない。
 悪魔の存在に触れた者は、少なからず心に陰を落とすようになる。陰を与えた存在に魅了されてしまえば、それは夢のように鮮やかな色を帯びるが、拒めば闇へと形を変える。瞳に見ずともわかる。メリーアンは後者だ。
「お前が余計な事をするから、こうなったんだ」
 ソファに深く身を預け、ゼタルが吐き捨てた。紅銀の瞳が足元で跪く少女を冷徹に見下ろす。項垂れた少女――マリアはびくりと身を震わせた。
「も、申し訳ありません……」
 恐怖に怯える濃茶の瞳が許しを請うように見上げて来る。
 ゼタルは手を伸ばし、髪を掴んで強引に顔を上げさせた。
「お前が彼女を挑発するから出て行ってしまったんだよ。おかげで計画は台無しだ」
 あの日、マリアが余計な言葉でメリーアンを怒らせたためにこうなったのだ。あくまで操り人形でいれば……余計な優越感など抱かなければ、上手く事が進んだというのに。
「醜いな。そんなに親友から男を奪ったことが嬉しいのか?」
「そんな……滅相もありません」
 ゼタルは鼻で笑った。
 心に生まれた陰は、持ち主の意思に適応して形を変えてゆくものだ。言葉には出来なかっただろうが、マリアの心は、間違いなくメリーアンに対しての“優越感”を抱いていた。ゼタルに出会う、以前から。
「僕は嘘を吐く女は嫌いだし、忠実でない女も嫌いだ」
 髪を掴んでいた手が離れ、今度は細い首を締め上げる。
「……ッ……あっ……!」
「お前みたいな役立たずは、もう要らないよ」
 締め付ける握力は、およそ少年のものとは思えぬほど強い。
 必死にもがき、苦痛から逃れようとするマリアの耳に唇を近づけ、吐息をかけるようにゼタルがささやく。
「僕が欲しいのはお前じゃなく、彼女だ。思い上がるな……!」
 言いながら、ゼタルは空いた手で胸を押さえた。今にも止まってしまいそうに不規則な鼓動が、壊れ始めたことを切実に訴えている。発作的に起こる胸の痛みがますます苛立ちを募らせ、その苛々をぶつけるように宛がった手に渾身の力を込めた。
「お……お、お許し……っ!」
 容赦ない力が首を締め上げる。マリアは必死にもがいた。ゼタルの腕を掴んでいた手は震え続け、そうして徐々に力失せ――声にならない断末魔が響くと共に、やがてはプツリと意識が切れて垂れ下がった。
 ゼタルが手を離すと、マリアの遺体(からだ)は支えを失って床に崩れ落ちた。見開かれた濃茶の瞳は何も映しておらず、色を失くした肌は蒼白い。まるで、壊れた人形が横たわっているだけのよう。
 遺体を足で蹴り転がした後、紅銀の瞳が冷めた一瞥をくれた。この女もあの“マリア”と同じ。悪魔の力ではなく、最後は己の欲望に負けたのだ。
「目障りだ。捨てて来い」
 吐き捨てるように、傍らに控えるバルフォレに命じて立ち上がり、部屋を出ようとしてゼタルは踏み出したが、激しい胸の痛みに耐え切れず身体を折り、うずくまって荒く呼吸を繰り返した。
「ゼタル様!」
 バルフォレが咄嗟に手を差し伸べたが、ゼタルはそれを振り払った。麗しい貌を苦悶で歪め、舌打ちする。胸が痛い、苦しい、吐き気がすると、次から次へ悪感を口にした。
 ゼタルは元より気位が高い。簡単に他者の手を借りるほど素直ではないと知っているため、拒絶されても引かず、バルフォレは細い肩を支えて様子をうかがった。
「やはり早急な対処が必要です。私があの娘を捕らえて参ります」
 しかし、ゼタルは訴えごとバルフォレをねめつけた。
「……鳥の姿でしか外に出られないお前に、何が出来る! それに、もう“あれ”は使えない。僕に対する嫌悪感に溢れていて、たとえ手に入れたとしても拒絶反応が出る」
 この胸に収めることが出来る“代わり”は、動物のそれか、もしくはゼタルに対して好意的な感情――つまりは愛や友情といった信愛の情を抱くモノでなければ、たちまち拒絶が現れる。そうなると本来の力を取り戻すどころか、逆に不調に見舞われて危険な状態にも陥りかねない。だから、ゼタルはメリーアンの心ごと手に入れようとしたのだ。そのうえ、ある程度の成長を遂げてしまうと動物のモノでは役に立たない。
「では、どういたしますか?」
 しばし考えた後、ゼタルがゆっくりと口を開いた。
「……仕方がないから、“代わり”で我慢するよ」
 この場で“代わり”が務まるのは唯一人。
 その者の顔を思い浮かべ、蒼白の貌が薄く笑った。




 メリーアンが屋敷に寄り付かなくなって以来、家事全般はサージュが担っていた。普段ならば病気を患う身体を心配し、メリーアンが強引にでも止めさせる所だが仕方がない。
 とはいえ、エレフに移り住んでからは、周囲の環境のせいかだいぶ調子も良く、発作もしばらく起こっていない。だから常に動いていても、辛いと感じることはなくなった。
 居間の掃除を終え、サージュは背筋を伸ばして一息ついた。今さらだが、姉がいなくなって初めて、どれだけ屋敷の掃除が大変なのか知った。それに加えて炊事に洗濯、さらには毎日働きに出ていて……どれだけ苦労をさせてしまっていたのか。
 どういうわけか、少し前からメリーアンは屋敷に寄り付かなくなり、離れた小屋で一人暮らし始めた。以前のように笑うことがなくなり、表情は常に暗い。どうか連れ戻して――そう願うゼタルのためにも何度か説得に向かっているが、どんなに言葉をかけても聞く耳を持たず、屋敷には戻ろうともしない。
 二人の間に何があったのか、サージュは詳しく知らない。たとえば些細な事で喧嘩をしたとしても、わだかまりを煩わしく思い、先に謝ってしまうような姉だ。あんな風にいつまでも引きずるような性格ではない。それがどうしてこうなっているのか……メリーアンにもゼタルにも聞いてみる必要がありそうだ。
 そう考えていた時だった。
 物音が聞こえて振り返ると、居間の入口にゼタルが立っていた。
「やあゼタル、何か用かい?」
 笑顔を浮かべてサージュが近づくと、ゼタルは気だるげな笑みを返した。
 その顔色が優れないことに気付き、サージュは心配そうに様子をうかがう。
「具合でも悪い?」
「大丈夫……ねえ、メリーアンはいつ戻ってくるのかな」
 サージュは申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん、何度行っても話を聞いてくれないんだ。今日もまた掛け合ってみるつもりだけど……君達、どんな喧嘩をしたの? あんなに落ち込んだ風な姉さんは初めてだよ」
「僕が我侭を言って怒らせてしまったんだ。謝りたいんだけど、最近体調が思わしくなくて……」
 最後まで言い終える前にゼタルはふらつき、よろめいた。
 サージュが慌てて手を差し伸べる。その腕にもたれながら、ゼタルは大きく肩を揺らして呼吸を繰り返し、痛み続ける胸を押さえた。
「いま、お医者様を……」
 呼んで来なければ。そう考え、とにかくゼタルを安静にさせようと、目に付いたソファまで移動させる。
 肩を支えてゆっくりと歩み始めたが、不意にゼタルが全身を預けて寄りかかってきたため、圧される力そのままに、サージュは壁にもたれる体勢になった。自分では歩けないほどに具合が悪いのだろう。俯いたゼタルの横顔は、ひどく青ざめていた。
「大丈夫?」
 心配そうに覗き込んでくる青い瞳を、苦しげな紅銀の瞳が見上げる。
 性別こそ違えど、さすがは姉弟というべきか、二人はよく似ている。メリーアンがかつて話していたが、幼い頃はよく間違えられていたそう。年頃になって男女としての差が現れても、しかし二人はよく似ている。特に同じ血肉から産み落とされた“それ”は、彼女同様に穢れがなく、甘美に香り立っている。
 ゼタルの雪のように白く細い指が、肩を支えていたサージュの手首を絡め取った。
「ねえ……サージュって、メリーアンによく似ているよね」
 気だるげな言葉と共にじっと見つめられ、サージュは困惑した。紅い瞳は、まるで想い人を見るような、そんな熱に浮かされていたからだ。
 まさか、そんなはずがあるわけない。頭の中で必死に否定し、サージュは気付かない風を装った。きっと具合が悪いせいでおかしくなっているのだろう、と。
 しかし掴まれた腕はそのままに、壁に追い込まれるようにして身を寄せられ、サージュはいよいよ狼狽し始めた。
「ちょ、ちょっとゼタル……僕は姉さんじゃないよ?」
「わかってるよ」
 蒼白の色は変わらないというのに、麗しい貌が妖艶に微笑む。紅い瞳が妖しい色香を発し、サージュはぎくりとして瞳を見張った。
 まさか、ゼタルはそういう趣向の持ち主なのかと疑った。
「わ、悪いけど、僕、そっちの趣味はないから!」
「……何言ってるの。僕だって男になんか興味ないよ」
 そう言いながらも、艶かしい視線が舐めるようにサージュの顔を凝視する。
 複雑な感情に支配された碧眼が揺らぎ、守るようにしてサージュは身を硬くした。
 溜め息のような笑いを零したゼタルの唇が弧を描いた。
「安心してよ。僕が欲しいのは“これ”だから」
 白い指先がサージュの身体の中心を捉えた。その部分を確認しようと、碧眼がゆっくりと見下ろした、次の瞬間。
「……ッ……?!」
 掴んでいた手首を解放する代わり、塞ぐようにして細腕ごと口に突っ込まれた。わざと噛み付くような形にさせたのは、事が済むまで舌を噛んで死なないようにするためだ。“これ”は生きているうちに取り出さないと意味がない。
 何をされるのかという恐怖に揺らぐ碧眼を見据え、ゼタルは愉しげに笑んだ。
 突き立てられた細い指はまるで槍先のような鋭さを持ち、皮膚を破り、肉へと食い込んだ。
「ーーーーーーッ!!」
 衣服が赤い色を広げてゆく。塞がれた口の隙間から声にならぬ悲鳴が洩れ、宛がった腕に容赦なく歯が噛み付く。それでもゼタルは平然とし、ついには五本の爪を立てて指をめり込ませた。
 サージュの身体から零れる赤が、指先から伝ってゼタルの腕を染め上げる。噛み付かれている方は自身の血で汚れていた。
「可哀想に……痛いよねえ? でも悪く思わないで」
 より深く指を潜り込ませながら、ゼタルは顔を近づけた。生きながらにして死の恐怖と残酷なまでの痛感に苛まれ、悲鳴を上げることすら許されずに涙を零す碧眼を、いとおしげに見つめる。

 ああ、これが“彼女”だったならば。
 もっと、もっと愉しかったはずなのに。

 碧眼が、紅い瞳を見返した。どうしてこんな事になったのか、彼は何一つ理解せぬまま逝くのだろう。
「恨むなら、お前を見捨てた姉を恨めよ」
 愉悦に浸った悪魔の貌が、嫌らしく歪む。
 内部に到達した指が“それ”を探し当て、優しく掴んで――一気に引きちぎった。
 音にならぬ断末魔が響く。色を失った碧眼は瞼の奥へ隠れ、もう二度と開かれることはない。噛み付いていた歯の力は緩み、四肢がだらりと垂れ下がる。血の気の失せた肌は、氷のように蒼く染まり――身を離すと、サージュの遺体(からだ)は重たい音を立てて崩れた。

 サージュの血と自身の血――両腕を真っ赤に染めたゼタルは、手のひらに乗せた“それ”を眺めて満足そうに微笑んでいた。持ち主の元を離れても止まることなく鼓動を続ける――血に濡れた心臓は、予想通り、極上の香りを漂わせていた。
 他者から“代わり”を奪うのは、これで最後。
 “本物”が戻る日も近い。
「あの娘はどうされるおつもりで?」
 影のように密やかに。傍らに立つバルフォレが問いかけた。
「彼女はこのまま生かしておくには危険だ。また“あの時”二の舞にならないとも限らない。いずれは弟の後を追わせてやるよ。でも……」
 そう簡単には殺してやらない。
 無抵抗の子ウサギをなぶるように、追い詰めて、壊して――拒絶したことを後悔させてやるのだ。
「愉しみだね」
 手にした心臓を撫でながら、麗しの悪魔が笑う。

 悲劇の幕が、ついに上がった。




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