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 屋敷に寄り付かなくなって数日が経つ。あれ以来、ゼタルともマリアとも顔を合わせていない。何度かサージュが説得に来たが、ろくに話も聞かず顔も見ずに追い返していた。そんな生活を続けるうち、心は重く暗い影を宿すようになり、メリーアンはいつしか笑顔さえも失っていた。

 そしてある日――ついに事件は起きた。

 いつものように仕事を終え、メリーアンは店を出た。扉に鍵をかけ、一緒に出たおばさんを振り返る。挨拶をしようとわずかに口を開いたが、おばさんはすでに背を向けて歩き出してしまっていた。
 以前のように明るい笑顔を見せなくなったメリーアンを、おばさんはひどく嫌うようになった。仕事中もほとんど口を利いてくれないし、ちょっとした失敗でも散々な文句を吐かれる。いつも厄介者を扱うようだった。
 それでも仕事を辞めさせないのは、恐らく村長の娘であるマリアの紹介だったからだろう。小さな村で何事無く平穏に過ごすためには、権力者に従うのは仕方が無いことなのだろう。意外なところでマリアの力が影響していると知って、また心が荒むようだった。
 そんな日々がメリーアンの心をさらに暗くし、笑顔を忘れさせた。屋敷での仕事もなくなり、また懸命に働く意味も見出せなくなり、時間だけが単調に過ぎてゆく。
 自分がいなくても、サージュもゼタルも生きてゆける。自分がいなくても何の問題もない。もう自分など必要ないのだ――そう考えると、今すぐ消えてしまいたくなった。
 こんな境遇になっても、涙を零せない強情な自分が恨めしい。泣いて喚いて訴えられるだけの、女らしい可愛さがあれば、こうして寂しい想いをしなくて済んだかも知れないのに。
 零れそうになった溜め息を堪えるように、メリーアンは空を見上げた。何か月も晴れない闇に覆われた空、そして漆黒の夜に浮かぶ赤黒い蝕された月が、ますますこの心をぼろぼろにして行った。
 メリーアンは重い足を動かして帰路を歩き出した。そうして、村の中央部、広場に出たときだった。
「人殺し!」
 夜の静寂を裂く、平穏な村には似つかわしくない叫びが響き、メリーアンは顔を上げた。何事かと首をかしげていると、向こうから村長夫妻が足早に近づいてくるのが見えた。激情に駆られて目を見開き、頬を涙で濡らし、怒りで表情を歪ませ――恐ろしいまでの形相は、暗がりでも際立って見えるほどだった。
 それまで他人事に見ていたが、夫妻の視線がまさに自分に向けられていて……メリーアンはどきりとして立ちすくんだ。一瞬にして全身に寒気が広がり、凍りついたように動けなくなる。
「この人殺し!」
 村長夫人はメリーアンの胸倉を、それこそ首でも絞めてやろうかといわんばかりの力で掴み、大声で喚き始めた。
「よくもマリアをあんな目に!」
「なん……のことですか?」
 言葉の意味が理解できない。喉を詰らせながら言葉を返すと、夫人は恐ろしいものを見たように大きく目を見開き、わなわなと唇を震わせた。
「なんて、なんて恐ろしい女なの! 娘を殺しておいて、よくもそんなことが言えたものだわ!」
「こ、ころ……?!」
 それこそ夫人の話に気が動転し、メリーアンはさっと青ざめた。
 殺された――つまり、マリアが死んだと理解するまでに時間がかかった。いつ、なぜ、どこで、どうやって、誰が? 疑問ばかりが心に浮かぶ。指先が震えて、膝からすっと力が抜けた。マリアが殺されたなんて……嘘だ。
「なんの恨みがあって娘を殺したの!」
「ま、待って……待ってください。わ、私はなにも……」
 動揺し、メリーアンはうろたえた。碧眼が彷徨うと、夫人の背後に立っていた村長と視線がかち合った。
「……昨夜、マリアは帰って来なかった。探しに出たところで、森の中で首を絞められて変死していたと……知らせを受けた。娘はお前の屋敷に頻繁に通っていた。他に誰が考えられる?」
 身体中が粟立った。
 村長の怒りを通り越して冷然となった声が余計に恐ろしく感じられた。 
「私……私、何も知りません!」
「嘘を吐かないでよ!」
「知らない!」
 頭を振って、必死に否定する。けれどその声は届かなかった。
「あんたじゃなければ弟?!」
「違うっ……サージュは、そんなことしない……!」
 頬に手を添え、瞳を見開き、何度も被りを振る。マリアとはしばらく会っていない。屋敷にも行っていない。だから何も知らない。
 何も知らない――そうだ、屋敷を出てから数日間、自分は何も知らない。マリアがどうしていたのか、サージュが何をしていたのか、そしてゼタルがどうなっているのか。
 何も知らない――もしかして、その間に何かが起きていたのだとしたら?
 恐る恐る視線を上げると、“疑い”ではなく“確信”を宿した濃茶の瞳が凝視していた。あまりに恐ろしくて見ていられずに視線を逸らすと、騒ぎを聞きつけた村人達が灯りを手に集まってきているのが見えた。
「あっ……!」
 村長夫人に乱暴に突き飛ばされ、メリーアンは地面に崩れ落ちた。
「……許さない。私達のたった一人の娘を、よくも殺してくれたね」
「娘を殺したのだから、復讐されても文句は言えないな」
 ぞっとするような言葉がひどく冷たい声で放たれ、メリーアンは怯えた表情を仰向けた。マリアと同じ濃茶の瞳が狂気めいた光を宿して見下ろしていた。
「待って、待って……私は、本当に何も知らない。マリアとはしばらく会っていないし、私は屋敷にも帰っていないんです。そ、それにどうして私がマリアを殺すと思うんですか。あんなに、仲良く……」
 仲良くしていた? それは過去だ。
 最後に会った日。確かにマリアに対して嫉妬と嫌悪を抱いていた。言いようのない感情を抱いていた。

 ――おまえのせいだ。
 だから、マリアは殺された?
 ――死んでよかったでしょう。
 そうすれば、またゼタルが自分の元へ帰ってくる?

「違う、違う違う……!!」
 耳元で誰かがささやく声を、メリーアンは必死に頭を振って払った。
 そんなこと思っていない。考えもしない。けれどマリアの死の知らせを悲しむ心より、保身を考える自分が確かに今ここにいるのだ。
「……あんたたちが来てから、おかしなことばかりだ……!」
 誰ともなしに呟いた声にはっとし、顔を上げる。気付けば周囲をぐるりと村人達に囲まれていた。どの瞳もメリーアンを殺人者と認識し、蔑み罵るような眼差しで見ていた。
 この黒い空も、あの気味の悪い血のような月も。太陽が顔を出さないのも、作物が育たないのも。みなが苦痛を感じているのも。そして、マリアが死んだのも。
 お前たちがこの村に来てからおかしくなった。全て、全てお前のせいだと声高に叫んだ。たった一人に全ての悪事の原因を押し付け、犠牲を払わせることで、これまでの鬱憤を晴らそうとしていた。
「お前がいるから、この村が闇におおわれているんだ!」
「お前がいるから、皆が苛立っているんだ!」
「お前さえいなければ、マリアは死ぬことなどなかった!」
「お前さえいなければ……!」
 これは憎しみだ。嫌悪だ。殺意だ。
 各々掲げるランプは何の変哲もないものなのに。老婆が手にした杖は老いた身体を支えるためのものなのに。その小さな炎にあぶり殺されるような、その固い木で殴られるような錯覚に陥り、メリーアンは恐怖におののいた。
 ほんの些細だったはずの思いは、水面に広がる波紋のように次々と輪を広げ、やがてはその場の全員に伝わり、村人達はついに狂気に駆られた。
 まるで魔女を狩るかのように、追い詰めたウサギをいたぶるように。心無い罵倒を浴びせ、足元の石を拾って当たる間際まで投げ、手にした松明や杖で殴りかかろうと脅しをかける。実際に手を出さないのは、誰もが心の闇に反して臆病だからだろう。本気でやって、自らが殺人者となるのを避けているのだ。
 村長夫妻を筆頭に、村人達はじりじりとメリーアンに詰め寄った。地面を這うようにして逃げても、背後はすぐに人の壁となる。四方八方から明らかな負の感情ぶつけられた。否定の言葉も懇願も届かない。逃げ場はなかった。
 ――助けて。
 碧眼に涙が滲む。人の憎悪がこれほどまでに恐ろしいと知らなかった。
 必死に救いを求めていた。その脳裏に浮かんだ顔は――


「あーあ……ったく、うるせえんだよ」
 突如聞こえて来た声は、高い高い場所から。
「これだから下種(げす)は嫌いなんだよ。群れないと私刑(リンチ)も出来ない臆病揃いだからな」
 澄んだ声色に似つかわしくない、吐き捨てるような暴言。
 声の主を探して誰もが空を見上げると、広場で一番高い枯れた木の枝に姿を見つけた。血の色に染まった大きな丸い月を背景に、二つの影がうごめいていた。
 メリーアンには聞き覚えがある声だった。愛情を求めてすすり泣いていた、友人のように労わってくれた、そして偽りの愛をささやいた……毎日聞いていたあの声だ。
 まるで石段を飛び降りるような身軽さで、影の一つが木の枝から降り立った。その軽やかさも然ることながら、衆目に晒されたその姿に、誰もが視線を釘付にし、絶句した。それほどまでに彼の風貌は異質だったのだ。
 生温い風が揺らす緩く編んだ長い髪は、紫の艶を帯びた銀色。愉しげに細められた瞳は、銀の杯に零れたワインのような紅。余裕という言葉が相応しい表情を浮かべる貌は、類ないほどに完璧な美を備えていた。人知を超えた美、まさにそれだった。

 メリーアンは言葉を失った。間違いなく、ゼタルだ。けれども、最後に会った時とはまるで違っていた。何者をも魅了する麗しさは変わらない。けれど少年と青年の間、微妙な年齢を取っていた容貌から明らかに変化していた。儚げな雰囲気は払拭され、力強く粗暴な空気が表れているのだ。人間の年齢にすれば十八か九に見えた。
 ゼタルが一歩踏み出すと、村人達は恐れ忌むように身を引いた。そうして崩れた輪の間を進み、メリーアンの元まで歩んでゆく。
 ゼタルの伸ばされた手が腕を掴み、メリーアンを容易く立たせた。膝に力が入っていないから、必然的にゼタルに抱えられるような形になる。こうして傍で並んでみてまた変化に気付いた。ほんの少ししか違わなかった身長に、ずいぶんと差が出ていた。
「……可哀想に、怖かっただろ」
 頬に白くしなやかな指先が触れた。気付かぬうちに泣いていたらしい。頬に涙が伝っていた。
 救われたはずなのに……どうしてか落ち着かない。救われた安堵よりも、変貌を遂げたゼタルに対する恐怖の方が強い。優しい言葉とは裏腹に、紅い瞳が全く笑っていなかったからかも知れない。心臓が異様なほどの警鐘を鳴らしていた。
 メリーアンの顔色をうかがって後、ゼタルは村人達を振り返った。
 追い詰められたウサギを救った姿は、さながら救世主だろう。けれど、弧を描いていた唇がゆっくりと開き、衝撃的な告白が成された。
「マリアを殺したのは、この俺だ」
 堂々たる告白に、場が騒然とした。
 中でもひどかったのは、当然の事ながらマリアの両親だった。
「あんた、あんたが……!」
「き、貴様は何の権利があって、娘を……!」
 すると、ゼタルはメリーアンを強く抱き寄せ、触れそうなほど顔を近づけた。
「俺はこいつのことが欲しかったんだけどさ、あの女が邪魔をしたんだ。それで苛々したから殺してやった」
 なんてことないように。まるで息をするように。
 ゼタルが涼しげな貌で答えた。
「どんな風に殺したか教えてやろうか?」
 細首に手をかけ、喉を握り潰すように力を込め――みるみる色を失っていく頬と唇、力をなくして投げ出される四肢……思い出を語るように愉しげに紡がれる言葉の数々に、蒼白のマリアの母親が、悲鳴とも奇声とも区別のつかない声を上げて倒れた。村長がその身体を支えて必死に声をかけるが、まるで死んだように動かなくなっていた。
「くっ……はははは!」
 ゼタルは声を上げて笑っていた。
 その歪んだ横顔を、メリーアンは青ざめて見ていた。ゼタルが、マリアを殺した。肩を抱いている手が、あの子の首を絞めた――想像するのもおぞましかった。
「なん……なんで、殺した……の?」
 メリーアンは声を絞り出した。本当は今すぐ逃げ出したいけれど、膝に力が入らず侭ならない。
 ガタガタと身を震わせて怯える様を、紅銀の瞳がいとおしげに見つめた。
「何で? おかしな事を聞くんだな」
 美しい貌が、笑いを堪えたように歪んだ。
「お前のせいに決まってるだろう」
 紅い瞳が、蒼く見えるほど。
 メリーアンの視界が歪んだ。
「お前が大人しくしていれば、マリアも、そしてサージュも死なずに済んだのに」
 ゼタルの言葉に、メリーアンが表情を失くしたと同時。
 高い木の枝から、もう一つの影が降りてきた。その背には大きな翼が羽ばたいていて――まるで巨大な鴉のようにも見えた。
 地に降り立った青年は、とても美しい顔をしていた。漆黒の髪の先は烈火のごとく燃え盛る赤で、それはゆったりと羽ばたく翼と同じ色だった。
 漆黒の騎士服に身を包んだ異質な姿の青年は、着地と同時に抱えていたモノを放り投げた。地面に力なく横たわったそれは、初めは人間に似せて作った、よく出来た人形だと思った。
 けれど。
「きゃああああ!」
 誰より先にそれが何なのか気付いた者が、悲鳴を上げて崩れ落ちた。
 土に汚れた金の髪が、見開かれたまま何も映さない青い瞳が――自分のよく知る、最愛の者だと知った時、メリーアンの心は硝子を打ち砕いたようにひび割れて壊れた。
「ああ、あああっ……!」
 ゼタルの身体を力の限り押し返し、メリーアンは地面を這い蹲って投げ捨てられたそれへと向かった。確かめるように蒼白の頬を撫で、見開かれた瞳に我が身を映そうと必死になった。
「サージュ、サージュ!!」
 何度も何度も名を呼ぶが、サージュは返事をしなかった。
「なんっ……なんでこんなっ……! サージュ、お願いだから応えてよ!」
 爪を立て、強く身体を掴んで揺さぶるが微動だにしない。紅く染まった胸元に手を触れれば、獣に食い破られたような穴が見つかる。それが、完全なる死を告げていた。
 鉛のように重たくなった身体を抱え、自分と同じ金の髪を何度も撫でる。涙でぐちゃぐちゃになった顔を紅く染まった胸に埋め、呻きとも叫びともとれる声を上げてメリーアンは震えていた。
 どうして、こんなことに。
 なぜ、サージュがこんな姿に。
 頭が真っ白だった。恐怖と絶望で身体が震え、噛み合わない歯がガチガチと音を立てる。鼻をつく鉄錆の匂いが、頭を狂わせていくようだった。
 そばを離れるべきではなかった。こんなことになるならば、追い返したりせずにもっと良く顔を見ておけばよかった。もっと優しくすれば良かった。もっと話をすれば良かった。
「サージュはお前の身代わりで死んだ。あの時、お前が俺を拒んだりしなければ、誰も死なずに済んだ。全て、お前のせいだ」
 冷たく残酷な言葉が降って来るが、メリーアンは狂ったようにサージュの遺体にすがりつき、震えるばかりだった。

 ああ、全て。
 全て私のせいなのですね。

 マリアが死んだのも、サージュが死んだのも。
 ゼタルがこうして存在していることも、全て、全て。


「悪魔だ……!」
 誰ともなしに発した言葉に、ゼタルの肩がぴくりと動く。
 紅銀の瞳が向いた先には、青ざめて震える村人の群があった。
「ああ、そうだ。俺は貴様等のような下種とは違う。異界から訪れ、かつてこの村に住んでいた愚かな女に封じられた……正真正銘の悪魔だ」
 言い終えたと同時。
 ゼタルの背に、コウモリに似た真っ黒な翼が現れた。
「この闇は我のモノ。あの月は我が力の糧。この身が完全なる復活を遂げる時まで、この場所に光は戻らない。貴様等は高貴なる魔の復活を目の当たりにする栄誉を得たのだ。誇りに思え」
 脅すように一歩、また一歩と歩むと、村人達は恐れをなして様々な反応を見せた。悲鳴を上げて逃げる者、腰を抜かして崩れる者――その恐怖に震える表情が、愉しくてたまらなかった。
 立ち止まったゼタルの隣に、漆黒の騎士服をまとった青年が降り立った。その背で羽ばたく翼が、どの闇よりも暗く見えた。
「愉しめ。悪夢を見せてやる」
 愉悦に浸る紅銀の瞳は、ひとりの少女をじっと見つめていた。





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