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 これは、悪夢。
 全ては幻。
 目を覚ませばきっと、そこには明るい現実がある――

 本当にそうならば、どれだけ良かっただろうか。

 あの日。マリアが死んで、サージュが死んで、ゼタルが村人達の前に現れた、あの日から。
 メリーアンは悪夢に堕ちた。
 悪魔を呼び寄せた【魔女】に対し、人間たちは“無慈悲”を与えた。彼女が閉じこもる小屋の回りには常に人がたかり、「お前のせいだ」「悪魔を消せ」と激しい怒声を振りまいた。
 小屋の中は荒れていた。投げ込まれる石や火種で窓は割れ、家具は所々破損した。暗く陰鬱な空気がはびこる狭い空間には、物が焼け焦げる臭いと、そして酷い腐臭が漂っていた。無造作に床に転がったサージュの遺体(からだ)は、日が経つにつれておぞましく形を変えていた。
 メリーアンは小屋の隅でうずくまり、震えていた。身体の震えに合わせて噛み合わない歯がガチガチと音を立てる。外から聞こえる喚き声を聞かないように、血が滲むほどに強く耳を押さえた。見開かれ、焦点が合わない碧眼には、可愛い弟の無残な姿も映っていないのかも知れない。
 恐怖は限界を超えていた。また一つ投げ込まれた石の勢いにびくりと身体を震わせ、嘆きとも呻きとも区別のつけられない奇妙な声を発する。
 悪意が私を殺そうとしている――これは被害妄想なんかじゃない。今にも誰かが入ってきそうで。今にも殺されそうで恐ろしい。ギリギリで保っている精神も、もう壊れてしまいそうだった。

 なぜこんなことになったのか……
 なぜ身に覚えのない悪意を受けなければならないのか……
 マリアとサージュを殺したのは、私ではないのに。
 私だって、こんなに恐ろしい目に合っているのに。

 不意に、碧眼が揺らいだ。

 そうだ、私は何一つ悪くない。
 全ての元凶は“彼”なのだ。
 
 その答えはやがて正当化されてゆく。
 小屋の外からは「悪魔を消せ」という怒声が聞こえていた。

 ゼタルさえ消えれば、全てが元に戻るはず――

 ドクリ、と心臓が脈打った。
 全身の血が沸き立ち、喉が渇くほどに身体が上気する。身体は燃えるように熱いのに、手足は震え、背筋に冷たい汗が流れてぞくりとした。
 震える足を立たせてよろよろと歩いた先は台所だった。まるで図ったかのようにそこにあるナイフが目に付いて、飛びつくように手を伸ばしていた。
 絶対に離してはいけない……決意を鈍らせぬようにと何度も心に言い聞かせる。尋常でない力を込めてナイフを握る手は、鬱血しそうなほど赤く染まっていた。
 もつれそうになる足を一歩一歩前に出す。自分で歩いている感覚がない。ふわふわと浮き足立って、時折転びそうになった。


 扉を開け放つと、激しかった悪意の波が一瞬静まり返った。少女が手にしているものを見て、群集がおののいて一歩下がる。沢山の瞳が、メリーアンを凝視していた。
「この魔女め……! 今度は誰を殺すつもりだ!」
 誰ともなしに発した言葉を合図に、場が一斉に沸いた。
 それが、強く、強く後押しするようで。

 もう後には引けぬほど、この心は壊れそうに悲鳴を上げているのに。

「うるさい!」
 張り上げられた金切り声に、再び場が静まり返る。
「……あんた達は最悪ね。ゼタルの言う通り、群れないと何も出来ないんだもの」
 行く手を阻むように並んだ人の壁を、激しい怒りを灯した碧眼がぎろりと睨みつけた。
 一人では何もできないくせに、群れれば百人力とばかりに他人を寄って集って痛めつけ、異質なものを排除しようとする。
 この村の人間達は最低だ。しかしそう思ったのは、それだけが理由ではない。
「そんなにゼタルが怖いなら、あんた達の誰かが行って、殺してくればいいじゃない!」
 どきりとするような発言に、群集は動揺した素振りを見せ、探り合うように互いの顔色をうかがった。
 結局、彼らは誰一人、その手を汚したくはないのだ。だからこそ、メリーアンに対しても今一歩のところで抑えている。そして自分達では出来ないその凶行を、メリーアンに押し付けようとしているのだ。
 メリーアンは唇を噛んだ。そうして、うるさいほどの悲鳴を上げる心臓に強く言い聞かせる。

 私は決して、こいつらのためにやるんじゃない。
 殺されたサージュの仇を取るためだ。

 震える手に力を込め、震える膝を無理に立たせ。
 メリーアンは群集を睨みつけて、そして屋敷に向かって疾走した。

 この悪夢から逃れる道は、ひとつしかなかった。






 扉の鍵は開いていた。護衛と思われる漆黒の青年もいなかった。あれほど恐れていた階段下の鋼の騎士も、今は少しも目に入らなかった。
 糸に吊られ、操られる人形のように。強い引力に抗えず、メリーアンは覚束ない足取りで居間に向かった。
 求めていた存在は、ゆったりとソファに横たわってこちらを見ていた。まるで、自分がやって来ることを予知していたかのように、その麗しい貌に微かな笑みを湛えて。
「……やっぱり来たか」
 紅銀の瞳が、扉の前に立つメリーアンを見た。
「しばらく見ないうちに、ずいぶん哀れな風貌になったもんだ」
 あのような仕打ちを受ければ当然だが、ろくに食事も摂っていないのだろう。頬は痩せ、その痩せた頬に張り付く金髪は見る影もなく艶を失っていた。青い瞳は狂気の一歩手前で理性を保っているが、一目見て身体的にも、精神的にも限界を迎えているのだと知れた。そうでなければ、あんなモノを握ってここへは来ないだろう。
 ゼタルはゆっくりと身を起こし、距離を置いてメリーアンの前に立つと、羽織っていた漆黒の外套を脱ぎ捨てた。
「俺を殺しに来たんだろ? やれよ」
 メリーアンはぎくりとして身を震わせた。
 両腕を大きく広げ、ゼタルが挑発していた。
「どうした、やらないのか? 俺を殺らなきゃ、お前はいつかあいつ等に殺される。あんな下種(げす)共に殺されるのは嫌だろう? だってお前は何一つ悪くないんだから」
 言いながら、ゼタルが一歩踏み出す。
 ナイフを握った手が震え出した。
「可愛い弟と、大切だった親友を殺した俺が憎いだろう?」
 おぞましい光景を思い出させるように、誘うような言葉を吐いて。一歩、また一歩とゼタルが近づいてくる。
「大丈夫だ。人間を殺せばお前は犯罪者だが、俺は生憎と人間じゃない。悪魔なんていう人ならざる存在を殺したって、罪にはならない。そうだな、むしろ感謝されて然るべきだろう。もしかしたら英雄になれるかも知れない」
 気付いた時には、手が触れそうなほどの距離までゼタルが近づいていた。
 碧眼が握り締めたナイフを凝視する。震えは手先から伝って腕を、背を、足を這い、ついには全身に回った。噛み合わない歯がガチガチと鳴ってうるさかった。

 サージュもマリアも彼に殺された。その罪さえもお前が被って償えと、村人達は自分を甚振ったではないか。自分が悪夢に堕ちた原因は、全て彼にある。彼さえ甦らなければ、平穏な生活を送っていたかもしれないのに。
 殺さなければ、この悪夢からは永遠に逃れられない。言う通り、悪魔なのだから殺したって罪にはならない。誰にも咎められることはない。
 そう決意して、ここまで来たのではないか。だから一思いにやってしまえば全てが終わるのに。
 碧眼がゆっくりと見上げる。
 ゼタルは麗しい顔を穏やかに緩めて笑っていた。その笑顔は、もしも彼が悪魔でなかったならば、天使のようだと言われたかも知れない。
 様々な想いが溢れてきた。どうしてこんな時に――そう後悔したくなるほどに楽しかったはずの日々が、ゼタルに対して確かに抱いていた深い愛情と淡い想いが甦る。その相手を殺そうとしている背徳感に、メリーアンは全身を震わせ、涙を零した。
「ほら、ここだ」
 気付いた時にはゼタルに手を掴まれていた。
 ゆっくりと視線を落とすと、鋭いナイフの先端はゼタルの胸の中心――心臓の部分に当てられていた。
「やっ……いやっ……」
 這い上がってきた悲鳴は喉で詰り、形にならなかった。逃げようとして身をよじるが、手を掴まれていて侭ならなかった。
 切っ先が薄い布地を破り、肌を傷つけた。白いシャツに赤い染みが広がる。痛みを堪えるようにゼタルはわずかに眉をひそめたが、それでも妖艶に笑ってみせた。
 自ら刃に突き進むように、ゼタルはわざと踏み出してくる。その度にメリーアンは後退したが、ついには壁に追いやられ、逃げ道を失った。
 そうなれば、最後には――
「なあ、メリーアン」
 決して逃さないように、握る手に力を込め。
「俺のこと、愛してた?」
 耳をくすぐる溜め息を交え、ぞくりとするほど甘い声で、最期にそんな事を言う。
 口付けようとしたのか、ゼタルが身を寄せると、切っ先は皮膚を破って肉に減り込んだ。そのおぞましい感触に、メリーアンは狂ったように声を上げた。泣いているのか叫んでいるのか、もうわからない。逃げ出したいのに、逃げられない。
 目の前で流れ出る赤と共に、自身の血も全て失せてしまったかと思うほどの寒気が起こり、今にも倒れそうなのに……そこだけが自分のモノではないみたいに、身体を貫く感触だけが克明に手のひらに広がっている。
 目を逸らせない現実に、碧眼が見開かれ、ボロボロと涙が零れる。嫌なのに、どうしてか視線が釘付けとなり、ゼタルの身体に侵入していく銀の刃を、見逃さぬようにと凝視していた。
 さして長くもない銀の刃が全て呑み込まれた時。己の手を握っていたはずの力が失せ、血の気が失せて真っ白に変色した手がだらりと垂れ下がった。
「あ……うっ……あああっ……!」
 嘆きとも呻きとも悲鳴とも区別のつかない声が、メリーアンの口から漏れる。見開かれた瞳からは幾筋もの涙が、絶え間なく零れる。全身が有り得ないほど震えていた。

 この涙は何のため?
 この心を支配するのは何?
 悪夢の元凶を滅ぼした勝利感?
 愛する弟の仇を取った達成感?
 殺人を犯してしまった絶望感?
 それとも……かつて愛した相手を殺した罪悪感?

 わけのわからない現実に、メリーアンは我を失い、真っ白になっていた。





 しかし――





「くっ……」
 笑いを堪えるような声が聞こえたかと思ったら、自由になったはずの手を再び強く掴まれ、メリーアンはぎくりとして身を強張らせた。
「ははっ……」
 今度ははっきりと笑っているのだと理解できた時、ぐったりと力失せていたはずの身体は、再び生気を取り戻したかのように緩慢な動きで起き上がった。
 ゆっくり、ゆっくりと、俯けられていた顔が上を向く。頬にかかっていた紫銀の髪の合間から、紅い銀の瞳が妖しげな光を灯して見上げていた。
 理解し難い現実を目の当たりにして凝固した碧眼を、紅い銀の瞳は愛しげに見つめていた。
「俺のこと、殺しちゃったかと思った?」
 たしかに心臓を貫いたはずなのに。手応えがあったはずなのに。
 どうして彼は死なないのだろうか。
 紅い瞳が、漆黒に見えるほど。一瞬にして世界が暗転し、メリーアンは蒼白になった。ナイフを握ったまま硬直していた。その様はまさに、抜け殻のよう。
「可哀想に。せっかく決意して殺したっていうのに……残念だったなあ」
 目尻に涙を溜めながら、ゼタルは心底可笑しそうに声を上げて笑った。
 詰られ、弄られ、追い詰められたウサギは、心を壊しそうになるほどの苦痛を味わって、狂いそうになりながらも、かつて想いを寄せた男をその手にかけたというのに。その決意も恐怖も涙も全て……そう全てが、この手のひらで繰り広げられる物語(シナリオ)なのだとしたら?
 色を失った青い瞳に見せ付けるように、ゼタルはシャツをはだけ、胸元を露わにした。
 白い身体の一部には、えぐれたような穴があった。その中でうごめく赤黒いものは、確かに突き刺しているはずの、彼の心臓。
「お前には特別に教えてやるよ」
 ゆっくりとナイフを引き抜いて投げ捨てると、ゼタルは一歩身を寄せた。蒼白の痩せた頬に伝う涙を指ですくい、口元に運んで舌で舐め取る。
「この心臓は、俺のモノじゃない。お前の可愛い弟から奪ったモノだ」
 信じられない告白に膝から力が抜け、メリーアンは崩れそうになった。が、ゼタルの両手がしっかりと肩を支え、そうさせてはくれなかった。
「本物の“核”は別の場所にある。だから“偽物”を貫かれても、頭を吹っ飛ばされても、本物さえ無事ならば死ぬことなどない」
 今度は頬に口付けて、伝った涙を受け止める。
「本物を取り戻して真の姿に戻らない限り、俺は外界へは出られない。そのために、動物や人間から心臓を奪い、成長する必要があった」
 幼かったゼタルの急激な成長の裏側には、そんな真実があったのだと知った。そのために利用されていたのだと知った。そのためにサージュが殺されたのだと知った。
 ゼタルではなく、自分が死んだのかと思うほど。身体が鉛のように重い。
 思考は停止していた。恐怖も憎悪も悲哀も何もかもが裏切られ、利用され――未だ覚めない悪夢は、痩せ細った心と身体に痛烈な現実を突きつけた。
「……サージュを殺したのは予定外だったんだよ。本当に欲しかったのは、お前の心臓だったから」
 紅い瞳が想い人を見つめるように甘く切ない色を浮かべ、薄く開かれた唇がメリーアンのそれに口付けた。
「お前は強情でなかなか心を開かないから、途中で何度か“諦めて”心臓だけを手に入れようともしたが……俺は、やはりお前の心ごと手に入れたかった」

 ――嫌い? だったらはっきり言って。そうしたら、僕も“諦める”から。

 かつてゼタルが言った言葉。
 その裏側には、そんな意味が込められていた。
「俺に好意を寄せた“心臓”は、この上なく良質な“代わり”となり、その分成長も早い。だから最も可能性のあるお前は、俺にとって最高の獲物だった」
 けれど、メリーアンはゼタルを拒んだ。
 だから……サージュが身代わりとなって殺されたのだ。
 
 唇に触れていた柔らかな感触は再び頬へと移り、這うようにして頬から首筋へと滑る。軽く歯を立て、熱を刻み付けるように甘く噛み付いたが、メリーアンは微動だにしない。甘い快楽への誘いにも、絶望に支配された心は揺れ動かない。
 人形のように力失せ、重たくなった身体を支え、柔らかな絨毯の上に優しく横たえた。哀れにも痩せ細った金の髪を梳いて、額に、頬に、何度も口付けを落とす。
 細い顎を掴んで、今度は唇を重ねた。過去の想いをぶつけるように、深く、より深く口付けられ、それまで無抵抗だったメリーアンはいつしか我を取り戻し、逃れようと身動ぎした。震える指が髪や服を掴んで引き離そうとするが、所詮は微かな抵抗でしかなく。難無く封じて、ゼタルは唇を離した。
「昔話をしてやるよ」
 寝付けずに駄々をこねる幼子に聞かせるように。
 穏やかな口調で語り始める。
「およそ百五十年前――この屋敷には、とある富豪が住んでいた。富豪には一人娘がいて、名を“マリア”といった。マリアは平凡で取り立てて美しくもない、普通の娘だった」
 逃げないようにと背に腕を回して動きを封じ、手を這わせると、メリーアンは嫌がって声を上げた。頬、肩、腕、胸――むき出しになったゼタルの肌には無数の引っ掻き傷が浮かんだが、そのような些細な傷は気にしないとばかり、無情にも行為は続く。
「その日、俺は魔界での狩りでヘマをやらかし、傷を負って人間界に逃げ込んでいた」
 この村に降り立ったのは偶然だった。傷を負い、弱ったゼタルを見つけて介抱したのが、マリアだった。
 マリアは深窓の令嬢らしく、無知で純粋な娘だった。困った者を見捨てられない性格なのか、それともそういう教育を受けたのかは知らないが、ゼタルが何者だろうが気に留めず、怪我を負った彼を屋敷に入れ、手当てを施した。
 ゼタルは核――つまりは本物の心臓を失わない限り、死ぬことはない。重傷を負ったとしても、時間が経てば自然と治癒する。それを知らないマリアは、懸命に看病していた。
 それがあまりにも愚かしくて。その純粋さと無知さを踏みにじりたくて。
「一夜の凌ぎのために、俺はマリアを抱いた」
 甘い言葉をささやいて、あくまで紳士的に、けれども情熱的に。
 過去を再現するように、今は目の前の少女に対して同じ行為をする。
 けれどあの時と違うのは――単なる欲望のはけ口ではなく、確かな“理由”があるということ。
「けれど、それが間違いだった」
 その日から、ゼタルにとっての悪夢は始まった。
 一人娘として育てられた令嬢は、予想以上に世間知らずだった。ゼタルの欲望を愛と履き違え、彼を逃がすまいとして必死になった。そうして狂ったように男に執着する娘に恐れを抱き、マリアの両親は“ある者”に相談を持ちかけた。その者より、ゼタルが“人ならざる者”だと教えられた両親は、すぐさま彼を払おうとした。
 しかし。
「俺を護ろうとして、マリアは凶行に走った」
 愛する男を護るため、マリアは両親をその手で殺したのだ。
 その想いはもう誰にも止められない。彼の心が欲しくて仕方がない……! ゼタルの心を手に入れて独占するため、マリアは狂気に駆られてあらゆる手を尽くし、そうして最後に……
「マリアに心臓を抉られ、俺は眠らされた」
 棺に入れられ、眠らされ。
 そうして百五十年の時を経て。
 ゼタルは封印を解かれ、再びこの地に甦ったのだ。



 ゼタルの昔話は、子守唄にはならなかった。
 肌に残る熱が、襲い来る痛みが、ひとつひとつ克明に刻まれてゆく。

 意識を飛ばして、何も感じずに時が過ぎていたならば、この心は何一つ記憶せずに済んだのに。
 もしもこの心が彼への愛を抱いていたならば、今この時を、かつての“マリア”のように――私は幸せに感じられたのだろうか。

 何度も何度も繰り返す苦痛と快楽の波に、メリーアンは必死に耐えた。
「……どんなに恨んでも憎んでも、お前はもう俺を殺せない」
 愛の言葉を与えるように。
 熱い吐息と共に耳朶を掠めた言葉の意味を理解する間もなく、メリーアンは意識を手放していた。









 どうやって屋敷から戻ってきたのか。自身の足で歩いてきたのか。何もかもがわからない。
 ただひとつ、理解出来る事実――それは、自分の力ではゼタルは殺せないという事。
 荒れ果てた小屋の片隅で、メリーアンは膝を抱えて座っていた。狭い空間に充満していた腐臭は相変わらず残っているが、サージュの遺体を埋めたことで、幾分か和らいだように感じられた。
 土で汚れた指がぐっと食い込むほど強く腕を掴み、背を丸める。身体は重く、刻み付けられた痕がひどく痛む。それなのに、頭は嘘かと思いたくなるほど冴え渡り、心は冷静だった。
 心臓を抉られても貫かれてもゼタルは死なないのだから、これ以上手の施しようがない。けれど、彼を滅ぼすことは甦らせてしまった自分の義務であり、責任である。今さらあの村人達がどうなろうと知ったことではないが、このまま野放して置けば、やがて自分は彼に殺されるだろう。
 愛する者を奪われ、悪夢へ堕とされ、あげく絶望を与えられ――このまま大人しく殺されるのを待つのはごめんだった。
 ゼタルは本物の心臓を探している。それを取り戻さない限り、この村から出られないと言っていた。つまり、この村の中には彼の心臓は存在しない。そして、まだ本物も探し出せていない。
 ならば、ゼタルを滅ぼす方法はただ一つ。
 やるべき事を見出した碧眼は、これまでになく強い光を宿していた。



 夜が終わり、蝕された赤黒い月が西の空へと消える頃。
 メリーアンはたった一人村を発ち、早朝のバスに乗り込んだ。
 復讐という名の強い決意を止める者は、もう誰も残っていなかった。





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