+ 13 + 首都ネヴァより車を半日以上走らせ、幾つかの集落を経て北へ、北へと進むと、忘れられた村・ノルテとたどり着いた。周囲は広大な平野。隔てる物もない土地は常に風が強く、たとえ陽光に照らされても気温は低いに違いない。今日は曇空だから殊更に寒く、厚い灰雲からは雪が落ちてきそうだった。 村の北方にはなだらかな丘陵が広がり、そこには教会が建っていた。外観は多少古びているが、時の流れに合わせて修復されて来たのだろう、荒廃感はさほどなかった。 碧眼が古い教会を睨むように見つめる。 あれこそが、ゼタルの心臓を奪った娘・マリア=イコーヌが最期を迎えた場所であった。 マリア自身ついての情報は、百年以上前の人間という事もあり、やはりというか役場では調べがつかなかった。それならば、と逆に自分たちの祖先を少しずつ辿って行けば、最終的にこの教会へと線が繋がったのだ。皮肉にも父が作った家系図が存分に役立った。 マリアの娘たちはこの教会で生まれ、そして時を経て年頃となり、うち一人は家を出てセリオの者に嫁いだ。今現在教会に住んでいるのは、もう一人の娘の血族となる。 サセルドッテ――それが、ゼタルを封じた【 教会へと続く道は極めて細く、人が一人二人辛うじて並んで歩ける程度だった。丘の下に車を停めて車内にミルトを残し、メリーアンは一人で教会へ向った。ここからは、必要とあらば非情な手段も使うつもりでいたため、その様をミルトに見られたくなかった。保身ではなく、信頼してくれているミルトの心を傷つけたくないのだ。 冷たい風は時折荒び、容赦無く吹き付けたが、メリーアンは髪が乱れるのも気にも留めず、真直ぐに教会へと進んで行く。この悪夢以上に辛く苦しい事なんて、もうないのだ。 丘の下からは見えなかったが、教会の裏手には墓地があった。この辺一帯の葬儀はここで行われ、そして死者は全てあの墓地に埋葬されているのだろう。そこにマリアが眠っている可能性は――非常に高い。 もしも私だったら……と考えた。殺して独占したいほど愛した男の心臓だ。手に入れたなら決して、生涯離しはしない。その秘密と共に、きっと墓場まで持って行くだろう、と。 教会の隣には家屋があった。住居はこちらだろうと考えた。扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。少し待つと返答があり、ゆっくりと扉が開く。顔をのぞかせたのは――メリーアンと同じ年頃の、たおやかな若い娘だった。 「はい、どちら様ですか?」 聖職に従事するがゆえなのか、警戒心もなく、娘は微笑みを浮かべながら問いかけて来た。 しかし、対するメリーアンは無表情だ。 「こちらに、マリア=サセルドッテという女性のお墓があると聞いて来たのですが」 その名に覚えがあるためか、娘の表情が少しだけ引き締まった。 「その者は、私の一族の祖先に当たりますが……どういったご用件でしょうか」 それでもまだ不審とまで至らないらしく、娘は小首を傾げている。その様に些かの苛立ちを感じながらも、メリーアンは再度問いかけた。 「……マリアの墓はどこ?」 少し脅しめいた口調に、ようやく娘は不審の色を強めた。 「ですから、どういった……」 「悪いけど、余計な問答をする気は無いの。墓の場所を教えて」 娘は、切羽詰まった強い口調に圧倒されていた。悪意などとは無縁で育って来たのだろうというのは、それだけで感じ取れた。 「……最北の列の、一番奥です」 「そう、ありがとう」 メリーアンは素っ気なく礼を言って、墓地の方へと歩き出した。数歩進んだ先に、農作業用と思わしき大きめのスコップを見つけ、迷わず手に取った。 「これ、借りるわね」 視線だけを振り返らせ、メリーアンは足早に墓地を目指す。 さすがに怪しまれたらしく、娘は後を追って来た。 「何をする気ですか?」 背後から問われるも、メリーアンは答えない。墓地に踏み入り、娘が指定した場所で足を止める。墓石には何の文字も刻まれていなかったが、間違ないと確信が持てた。 碧眼が忌々しげに墓石を見下ろす。メリーアンはスコップを握る手に力を込め、そして墓石の周囲を掘り始めた。 後を追って来ていた娘が、悲鳴に近い叫びを上げた。 「何をするんですか!」 娘は制止しようとしてメリーアンの腕を掴んだが、すぐさま振り払われた。一瞬怯むも、負けまいとして今度は声を上げる。 「墓を掘り返すなんて……安らかに眠る魂への冒涜です!」 いかにもな言葉にも、メリーアンは耳を傾けない。ただひたすらに掘り続けるだけ。 娘の顔に、怒りが色濃く表れた。 「一体あなたは誰なのっ? 何の権利があって、こんな事を……」 「うるさい!」 張り上げられた怒声に、娘は身を震わせた。 「権利? 大いにあるわよ! あの悪魔を葬る権利がね!」 碧眼が、驚きで固まっている娘をきつく睨む。 その瞳は今にも涙で揺らぎそうに強い思いを秘めていた。 「この女がちゃんと殺してくれたら、私だってこんな事しなくて済んだ! 悪夢なんて見なくて済んだのよ!」 墓を暴くなど、やりたいと思うはずがない。気持ち悪いし、怖くて仕方がない。でも、やるしかないのだ。ゼタルの心臓を手に入れて、殺さなければ終われないのだ。 深く溜め息を吐き、メリーアンは再び作業を始めた。あまりの気迫に驚いたのか、娘は絶句していた。 しばし沈黙が続いた。土を掘り返す音だけが響く。 娘が口をひらいたのは、それから少し間を置いてからだった。 「あの……」 弱々しい声を無視できずに、メリーアンは手を止めた。 「お話を、詳しく聞かせてもらえませんか? もしかしたら……力になれるかも知れません」 意外な申し出に、今度はメリーアンが表情を変える番だった。 娘の名はハイネといった。ハイネ=サセルドッテ――彼女はこの教会に残ったもう一人の娘の血族だ。 ハイネは“マリア”について何か知っているようだった。話を聞くためにミルトも呼び寄せ、二人は共に屋敷へと招かれた。 屋敷、とは言っても広さがあるだけで、とても質素な作りだった。必要最低限の家財道具が揃えてあるのみで、決して裕福とは言い難いが、それでもこの田舎の地方では十分なのだろう、ハイネには生活苦といった様子はうかがえなかった。 「両親はいま出かけていて……留守番はわたしだけなのです。どうぞ」 温かな茶を運んで来たハイネは、丁寧な物腰でカップを差し出した。歳は十九だと言っていたが、幾分上に見えるのはこの落ち着きのせいだろう。 すっかり冷えてしまった身体を温めるように、メリーアンは遠慮なく茶を口に運んだ。この地方独特の飲み物なのか少しだけ甘みが強かったが、さほど気にならなかった。 一息吐いて気持ちを落ち着けると、メリーアンは向かい側に座るハイネに視線を向けた。 「あなた、さっき言ったわよね。もしかしたら力になれるかもしれないって。それってどういう意味なの? マリアについて何か知っているの?」 よく考えてみれば、自分がそうであるように、同じ人間の血を引く者ならば知っているのかもしれない。しかもサセルドッテはセリオと違い、直系だ。もしかしたらもっと明瞭な真実を知っている可能性だってある。 「知っている……というのは語弊ですが、少しだけ話に聞いた事があるのです」 「どんな話だい?」 興味深げにミルトが尋ねると、ハイネは静かに頷いた。 「わたしが子どもの頃に、祖母が話してくれたことがあるんです」 ――昔ね、この教会には“マリア”という娘が住んでいてね。いつも小さな袋を抱えていたんですって。その中身が何なのか誰も知らなかったけれど、“マリア”は、年老いて死んだ時も、決して手放さなかったんですって。 それは、ハイネの祖母が自身の祖母、さらにその人が自身の祖母……といったように、まるでおとぎ話のように語り継がれた事なのだという。その話を聞いて、ハイネは“マリア”がこの教会に住んでいた――つまりは自分の祖先であると、そして後に彼女の墓の場所を知ったのだ。 メリーアンとミルトは瞳を見開き、顔を合わせた。 きっと、それはゼタルの心臓だ。 「その時わたしはまだ幼かったですし、“マリア”というのが女の人の名であると理解するのがやっとでした。けれど、ある日ふと思い出して両親に尋ねたことがあったのです」 「ご両親は、なんと?」 「“マリア”がこの教会の創始者であるリブリ=サセルドッテの妻だという事は、一族に伝えられていたようです」 リブリ=サセルドッテ――それが、ゼタルを封印した【 「墓地にはマリアの墓しかなかったわね。リブリの墓は?」 「ありません。その理由は不明なのですが……」 すると、ミルトが「ふむ」とうめいた。 「墓石には故人の名と没年を刻むのが一般的だ。しかしマリアの墓は無記名で、しかもリブリの墓はない。もしかしたら、己の所在が明確になるのを恐れていたのではないかね」 「ゼタルに見つからないように?」 メリーアンが問うと、ミルトは静かに頷いた。 「そうだ。ハイネさんが話した通り、マリアはゼタルの心臓を片時も手放さなかった。それこそ死んだ時も。つまり、墓の中まで持って行ったと考えるのが妥当な線だろうね。ここからは私の仮定だが……恐らくマリアはリブリよりも早くに亡くなったのだろう。ゼタルが心臓を取り戻しに来る事を恐れたリブリは、マリアの墓石には名を刻まず、そして自身はこの地を離れたのではないだろうか」 ばらばらに散らばっていた破片が、ひとつに繋がった気がした。それまで曖昧でしかなかった事実が、真実であると確信が持てた。 しばしの沈黙が漂った後、メリーアンの碧眼が、ハイネの顔をじっと見つめた。 「“マリア”が大切にしていたモノは、ゼタルという悪魔の心臓よ。マリアはゼタルに魅入られ、彼を独占しようとして殺し、最後に心臓を抉って奪ったの。心臓を奪われたゼタルは退化して幼い子供の姿となり、リブリの封印によって棺に閉じ込められ、百五十年間“ある屋敷”の地下で眠っていた。その屋敷があるのは、ここからずっと南にあるエレフという田舎村。そこがマリアの故郷で、屋敷はマリアの生家だった」 流暢に語られる言葉は、自身が体験し、目の当たりにしていなければ到底口には出来ぬものであるように思えた。その先を知りたい気持ちと知りたくない気持ち……その両方が複雑に絡み合った表情で、ハイネは息を呑んだ。 「その悪魔は……どうしたのですか?」 「復活したわ。私の弟に血によって、リブリの封印が解かれてね。ゼタルは自分の心臓を取り戻そうとしている。動物から心臓を奪って成長し……そして親友を殺し、弟まで殺した。心臓を、抉って……! だから私は、ゼタルを殺すために本物の心臓が欲しいのよ!」 メリーアンは声を震わせた。サージュの亡骸を思い出すたびに吐き気がする。ゼタルへの憎悪が膨れ上がる。 どうしてもゼタルの心臓が欲しい。どんな手段を使ってでも欲しい……! それは愛ゆえに心臓を欲した“マリア”とは違うけれど。メリーアンもまた、“憎悪”という名の下に魅入られてしまったのだと……本人は気付いていなかった。 「あなたは、誰なの?」 ハイネの静かな声と視線を、メリーアンは真っ直ぐに受け止めた。 「あなたと同じく、マリア=イコーヌと、リブリ=サセルドッテの血族よ」 メリーアンの話を聞いたハイネは、しばし悩んだ後、マリアの墓を掘り返す事を許可してくれた。一人では重労働であるということで、ミルトに加えてハイネも手伝ってくれることになった。 墓地へと向かう間、ハイネはメリーアンの身上とゼタルについて様々な事を尋ねて来た。二人は遠縁に当たるわけだから、興味が出たのも無理はないだろう。メリーアンは隠しもせず、質問に対して全て正直に答えた。そう、ゼタルを滅ぼす方法も。 「ねえ」 話を終えて一歩先を歩いていたハイネに、メリーアンは声をかけた。 ひとつだけ、確認しておきたいことがあったのだ。 「あなた、処女?」 そのあからさま言葉に、ハイネは一気に頬を紅潮させた。 「な、なんてことを聞くんですか……!」 「いいから答えてよ。重要なことなの」 「そっ、それは、その……」 言いながらハイネは前方へと視線を向けた。ミルトに聞かれたくないのか、それとも単なる羞恥か……だんだんと小声になっていく。 「どうなの?」 ついに俯いてしまったハイネに追い打ちをかけるように問うと、ハイネは小さく頷いて肯定した。 メリーアンの瞳が細くなる。 血族の“純潔な”血は手に入れた。教会には聖水がある。 あとは――心臓を手に入れるだけだ。 年数が経ってしまっているせいか、固くなってしまった土を掘り返すには時間と労力を要した。若い娘と初老の男性だけでは事足りなかったが、ハイネの両親が戻って来るまでには時間がかかるらしい。黙々と作業は続いた。 寒空の下、どれくらい掘り続けていただろうか。かじかむ手の感覚がなくなった頃、スコップの先が固い物に突き当り鈍い音を立てた。さらに土を掘り返すと、石製と思わしき棺が姿を現した。 石棺は重く、引き上げるには人員も足りないために不可能だった。しかし蓋が中心で二つに分かれており、上か下か、どちらかだけ開くことが可能な造りになっている。メリーアンは迷わず穴の中に飛び込み、上方の蓋を開けるべく手を伸ばした。 メリーアンは息を呑んだ。自分は今、とても背徳的な行為をしている。墓を暴き、死者の魂を不必要に冒涜している。そう考えると気持ちが悪く、そして何より恐ろしかった。 果たして、ここには本当に“マリア”が眠っているのだろうか。本当にゼタルの心臓も一緒なのだろうか。疑い出したらキリがなかった。こんなことをしてまで成し遂げた復讐の先に、未来はあるのだろうか……。 「どうしたね?」 ミルトの声にはっと我に返り、メリーアンは首を振った。 何をためらう必要があるのか。ゼタルを滅ぼさなければいつか自分が殺される。事実を知れば、ゼタルは自分だけでなく、唯一己を滅ぼせる危険因子としてハイネをも殺す可能性だってある。 自分の手で始末をつけなかったマリアは憎い。勝手に愛して、勝手に狂って、挙句勝手に死んでいった女など今さら同情する気にもなれない。けれど、自分の中にも彼女の血が流れているのだ。あの悪魔を呼び覚ましてしまったのがその血であるならば……滅ぼすのも義務だ。 メリーアンは意を決し、棺の蓋を開いた。女の細腕にはやや重かったが、歯を食いしばって渾身の力を込めた。 棺には白骨が眠っていた。あまりに時が経ったせいで所々崩れかけて朽ちていたが、組み合わされた手の中にはしっかりと革の袋が握られていた。革袋は心なしか動いているように見えた。それがとてもおぞましかったが、どうしてか目をそらせずにいた。 袋に手を伸ばし、骨の指から抜き取ろうとする。その手が今にも動きそうで、この腕を掴みそうで。背筋を撫でた寒気が指先まで震わせたけれど、どうしても欲しくて……メリーアンはついに革袋に手を触れ、白骨の手から抜き取った。 ミルトとハイネの手を借りて穴の中から抜け出し、メリーアンは革袋をじっと見つめていた。厚い革越しにも、まるで生きているような温かさが感じられた。そして、さっきのは見間違いではなかったと知る。“これ”は今も動いている。そう、まさに心臓が鼓動するように……。 メリーアンはゆっくりと固く結ばれていた袋口の紐をほどいた。心臓の鼓動が速い。吐き気が這い上がって来る。逃げ出したい気持ちとは裏腹に、碧眼が異様な光を点して袋の中をのぞき見る。 そして、恐怖とあまりのグロテスクさに、メリーアンはがくりとその場に崩れ落ちた。 「メリーアン!」 「大丈夫ですかっ?!」 ミルトとハイネが同時に寄って来て、身体を支えてくれた。がくがくと身体が震え、目の前が暗転し、寒気が全身を支配する。吐き気を抑えられずに俯き、嘔吐した。 「……大丈夫よ」 落ち着かせようと背中をさすってくれているハイネの手をそっと押し返し、メリーアンは深呼吸を繰り返した。しばらく俯いていたが、ようやく落ち着きを取り戻し、ゆっくりと顔を上げる。 「どうだね?」 息を呑みながら、ミルトが問いかける。メリーアンの反応を見れば“それ”が求めていたものだとわかるが……本人の口から聞かされるまで確信が持てなかった。 一呼吸置いてから、メリーアンは答えた。 「見つけたわ……ゼタルの心臓よ」 あの棺で眠っている白骨は、マリア=イコーヌ。そして異様な妖気を漂わせている“これ”は、間違いなくあの悪魔のモノ。 ようやく見つけた。これさえあれば、あの悪魔を滅ぼす事ができる。悪夢から覚める事ができる。 ゼタルは誰にも殺させやしない。 あの悪魔の息の根を止めるのは――心臓を手にしているのは私なのだから。 心がひどくざわめいた。 これはついに復讐を遂げる事が出来る悦びなのか、それとも…… メリーアンは立ち上がり、碧眼を強い意志で輝かせた。 再びゼタルと見える時は、すぐそこまで近づいていた。 ←BACK / ↑TOP / NEXT→ Copyright(C)2008 Coo Minaduki All Rights Reserved. |