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 姉弟のいなくなった屋敷は荒れていた。家財道具は壊れ、硝子や陶器は割れて床に散乱している。それは無人となったがゆえの荒廃ではなく、明らかに人為的なものだった。
 心臓は見つからない、壊しかけの玩具(オモチャ)は戻らない――ゼタルは常に苛立っていた。気分に斑があり、機嫌が悪い時には手当たり次第に物を投げて壊し、苛立ちをぶつけていた。特に“完全体”の一段階手前の今は、最も非情で残虐な性が表面化する形態であるため、その粗暴ぶりには恐怖すら感じるほどだ。
 八つ当たりを受けるのは専らパルフォレの役目で、今も顔の皮一枚という距離をワイン入りのグラスが横切ったばかりだ。頬に紅い筋が走ったが、それでもゼタルの使い魔でしかない彼は、その麗しいまでの貌をほんの少しも動かさず、反論も不満も零さずに全てを受け入れている。あながち、怒りをぶつけられるのも違っていないからだ。
「俺の心臓はまだ見つからないのか!」
「申し訳ございません、未だ詳細は掴めておりません」
 申し開きもなく頭を垂れたバルフォレに、あからさまな舌打ちが飛んだ。
「役立たずめ」
 容赦ないゼタルの罵倒に、漆黒の青年はもう一度謝罪の言葉を口にした。
 バルフォレとて日々遊んでいるわけではない。一秒でも早く主の心臓を見つけるために奔走している。けれど使い魔である彼はゼタルの影響を直に受けており、主が元の姿を取り戻さない限り行動にも限界が生じるのだ。ゼタルの行動範囲がエレフ内と限られているように、バルフォレもまた魔鳥の姿でしか村の外に出られない。加えてゼタルから離れ過ぎてしまうと、鳥の姿でさえも保つ事が困難となる。これだけでバルフォレの苦難はうかがい知れるはず。
 しかしゼタルには関係ない。使い魔が主のために働くのは当然のことであり、それが主従契約だ。今なお治まりのつかない苛立ちと共に立ち上がった。その表情は先程までとは違い、愉悦に浸るそれへと変化していた。
「遊びに行くか」
 この世の美を集結させた貌が卑しく歪むと、漆黒の青年は了承の言葉を口にし、頷いた。




 “悪夢”。
 この言葉こそ、今のエレフを表現するに相応しい。暗闇に包まれたまま晴れぬ空は、悪魔の凶行を一層恐ろしく、不穏なものへと変えた。
 ゼタルは思い通りに事が進まぬ苛立ちを惜しげもなく露にし、村人たちにぶつけていた。気に入らない者は容赦なく殺し、その時の気分で壊し、潰す。
 当然、逃げ出そうとする者はいた。しかし、恐怖は人の心を容易く操る。“何処まででも追って殺す”という脅し文句は確実に効果を奏しており、永遠に追われる事に恐れを成した村人達は、やがて逃げ出す気力さえも奪われていった。
 月食の影響で貧困を進行させていた村の食材は徐々に尽き、救いを求める事も叶わず、人々はただひたすらに息を潜める。悪魔の機嫌を損ねぬよう、災いが己の身に降りかからぬよう、狂ったように願う。そうして隣人をも陥れて欺く日々が、エレフに落ちた“悪夢”だった。

 その村人は日々続く悪夢に耐え切れず、逃げ出そうとしていた。取るものも取りあえず、愛していたはずの妻さえも捨て、逃げ出そうとしていた。赤黒く蝕された月だけが浮かぶ不気味な闇の中、走って走って。ようやく村の出口が見えた時に、思わず零れた引きつった笑みは……瞬時に凍りついた。
「よう」
 まるで友人に対するかのような気軽さで声をかけて来たのは、麗しき悪夢の元凶。茂る木の枝に腰かけていた悪魔は、ひらりと軽やかに降り立ち、村人の前に立ちはだかった。
「ひいっ!」
 村人は恐れを成して地面に尻を付き、全身を震わせた。紅銀の瞳を見上げる顔は蒼白だ。
「まさか、逃げようとしてるんじゃないだろうな? この村の長であるアンタが、しかも妻を捨ててか!」
 悪魔の哄笑が響き渡る。
 村人――そうマリアの父である村長は、返す言葉さえも封じられて只管に青ざめていた。
 村で最も発言力があり、そして人望も厚かった村長は、権力者として相応しい振る舞いをしていた。村のためにと働く姿には威厳があり、堂々としたものだった。それがどうだろうか。見る影もなく痩せ衰え、表情からは生気が失われ、今は全てを捨てて己の保身だけを考える、哀れで愚かな人間に成り下がったのだ。
 怯え恐れる表情を堪能した後、そういえば、とゼタルは思い出したように問いかける。
「あんたのオクサン、元気か?」
 途端、村長は壮絶なまでに青ざめ、表情が失った。
 ゼタルは狂ったように笑った。それこそ今にも腹を抱えて地面に転がるのではないかと思うほどに。
「そうだよなあ、元気なはずないよな。あの身体で動けたらバケモノだ!」
 村長はわなわなと唇を震わせた。彼の妻はこの悪魔の“遊び”の標的となり、腕と足を一本ずつ切り離された。それでも辛うじて命だけは助かったが、マリアが死んだ事で徐々に病んでいた精神は、あまりのショックでついに壊れた。恐怖さえ感じさせる身体、昼夜を問わず繰り返される奇声――村長は耐え切れなくなり、妻を捨てて逃げようとしたのだ。
 “遊んでいた”時の光景を思い出してか、目尻に涙を浮かべながらゼタルはしばし笑っていた。けれど次の瞬間にはすっと表情が消え、紅銀の瞳が侮蔑の眼差しを向ける。
「悪事っていうやつは、己の身に返って来るモンだって知ってるか? あんた達は何の罪も無いいたいけな少女に殺人の濡れ衣を着せて、集団で追い詰めて壊そうとした。俺を殺せとそそのかした。あいつがどんな決意を胸に俺に手をかけたか、あんたにわかるか?」
 追い詰めるような言葉は、罪の意識を再認識させるため。決して、かの少女を想っての言葉ではない。
 ゼタルが一歩、また一歩と近づく。村長は最早逃げる気力も失って絶句するだけ。人間は脆い。己の罪に気付かず平気で悪事を働くくせ、それが身に降りかかると途端に弱くなる。今もそうだ。散々人を傷付け、満足に浸っていたというのに、追い詰めればただのガラクタと化して壊れてゆく。
 本当に、つまらないイキモノだ。
「悪事っていうのはな、報いを受ける覚悟を持つ者だけに許されるんだよ」
 麗しき貌が卑しく歪む。
 恐れる物は何もない。全てを受け入れる覚悟しているからこそ、どんなに恐ろしく残酷なことにも手を染める。だからお前をここで惨殺することも出来るんだぜ? と首に手をかけながら耳元で囁くと、村長はあまりの恐怖に意識を飛ばしかけたようで、白目を剥いた。
 ああ、すぐにでも死にそうだ――つまらなそうに舌打ちし、ゼタルはその手に力を込めようとしたが。
 静かに響く女声がそれを止めた。

「じゃああんたは、私に殺されることさえも覚悟しているはずよね」

 懐かしささえ感じさせる声に、村長の首に宛がわれていた指の力が弱まった。紅い銀の瞳がゆっくりと声の方向へと動くと、そこには壊しかけた“玩具”が立っていた。
「なにその顔。私が戻って来てそんなに嬉しい?」
 ふっと余裕気につり上げられた口端と、細められた碧眼。悪夢と絶望に打ちひしがれて闇を彷徨っていたはずの少女の身に何が起きたのか、その表情は悪魔さえも軽く騙してしまいそうな、そんな強さが感じ取れた。
 メリーアンの姿を見つけると、ゼタルの足元にうずくまっていた村長は地面を這って近づき、彼女の足にすがりついた。間一髪というところで救われた安堵なのか、それともあまりの恐怖で壊れたのか、震えて唸りを上げていた。その姿をとても哀れに思ったけれど、彼らから受けた仕打ちを思い出せば、命が助かっただけ感謝すればいいと、それ以上の感情は湧いてこない。ゼタルは憎いが、彼の話は間違っていない。
 碧眼が再びゼタルへと戻る。その視線に応えるように、ゼタルはメリーアンに向き直った。
「かつて甚振られた相手を救って英雄ごっこか?」
「別に、そんなつもりはないわよ。たまたま通りかかっただけ。この人だって、私に助けられても嬉しくないでしょうしね」
「……今まで何処へ行っていた?」
「聞いても無駄。答えないわ」
「ふうん。だったら質問を変えてやる。やっぱり俺に会いたくなったか?」
 麗しい貌が自信に満ちた笑みを浮かべる。
 しばしの沈黙ののち、メリーアンはゆっくりと口を開いた。
「ええ、そうね」
 意外な返答だったのか、ゼタルの表情がわずかに引き締まったのが見て取れた。
「とても会いたかったわよ。あんたに復讐できる日をどんなに待ち望んだことか」
「復讐……?」
「ええそうよ。あんたは前に言ったわね。どんなに憎んでいても、私には殺せないって。本当にそう思っているなら残念ね。私は唯一あんたを殺せる存在なの」
 一度言葉を切って。
 メリーアンは余裕を見せつけるように、不敵に笑った。
「だって、あんたの心臓を手に入れたんだもの」
 途端、紅銀の瞳が異様な怒りを点し、ゼタルは本性を現した。それまで余裕のあった表情が、一変して険しくなる。放たれる視線は身の毛もよだつほど恐ろしく、それだけで殺されてしまいそうだった。
「俺の“核”を手に入れただと? 嘘を言うな」
 ゼタルの怒りは空気を震わせ、肌を痺れさせた。本当は怖くて逃げたいけれど、その想いを封じ込め、メリーアンは精一杯の虚勢を張って鼻で笑った。
「思い切り信じたって顔してるのに……嘘にするなんて笑っちゃう」
 図星を指すこの一言がゼタルを煽り、怒りを助長したのは明らかだった。
「バルフォレ!」
 声高に呼ばれたと同時、それまで姿の見えなかった漆黒の青年が現れ、主を護るようにして前方に降り立った。背に生やした翼はゆっくりと優雅に羽ばたき、かと思えば次の瞬間に羽ばたきは速度を増し、メリーアンに向けて一気に突き進んできた。
 明確な言葉がなくともバルフォレは理解している。あの娘より心臓を奪い、殺せ。それがゼタルの命令だ。命に従い動く青年は、すでに悪魔と化していた。麗しい貌は見る影もなく歪み、漆黒の瞳は獲物を狙う魔鳥のそれと化し、吼えた口から覗くのは尖った牙、大きく振りかぶられた手の先には内臓を抉り出すための鉤爪が煌めいていた。
「いやっ!」
 迫り来る恐怖に顔を伏せながらも、メリーアンは隠し持っていた硝子の瓶を思い切り振るった。勢いよく飛散した薄い赤の液体は、漆黒の青年の身体、ちょうど胴体を二つに割るような形で降りかかった。
 その直後。
「ギャアアアアアッ!!」
 鳥とも人間とも区別できぬ、耳を覆いたくなるような奇怪な断末魔が闇を引き裂いた。
 液体の降りかかった身体は、刃物ですっぱりと切られたように真っ二つに断たれ、そこから大量の血が噴き出し、内臓が零れ落ちた。赤い雨を降らせた身体は重たい音を立てて地面に落ち、血の池に沈んだ美しい青年の貌も髪も翼も、それらの先端を染めていた烈火のごとき色とは異なる赤に染め上げられていた。
 ゼタルの紫銀の髪が、字のごとく逆立った。紅銀の瞳は怒りで見開かれ、食いしばった歯からは血が流れて落ちそうなほど。
 悪魔を滅ぼす方法はその個体によって異なる。それは、契約で繋がれた使い魔にも適用される。ゼタルに対して有効な手段は、彼を封じた血族の“純潔の血を混ぜた聖水”を“核”に浴びせる事。また核だけでなく、身体を負傷させる場合にも同様だ。
 バルフォレが死んだということはつまり……メリーアンが持っていたあの液体は、血入りの聖水である。

 広がる悲惨な光景に見開かれていた碧眼がはっと瞬いた時、ゼタルの姿はそこになかった。後方から風が流れてメリーアンの長い金髪を揺らし、背筋が凍りついた。恐ろしさのあまり硬直していると、強い力で腕を掴まれ、締め上げられた。否応なしに振り向かされると、もうひとつの手が首にかけられた。
 怯える碧眼に映ったのは、恐ろしい悪魔の貌だった。
「どうやって滅する方法を知った!」
「……い、言わない!」
「お前の他にも血族が存在するのか!」
 言葉もなく、メリーアンは首を横に振って返答を拒絶した。
 忌々しげに表情を歪め、ゼタルは首を絞める手に力を込めた。
「俺の“核”を渡せ……!」
 締め上げられる腕と喉、痛みと息苦しさで青ざめる顔。しかしどんなに追い詰めてもメリーアンは頑なに口を開かなかった。
「……わ、私を殺せば……あんたの心臓の在処は、永遠にわからない、わよ……!」
 息も絶え絶えにメリーアンが答える。
 彼女は心臓を所持していない。それは気配で察知できた。だからここで殺してしえば在処が不明となる。バルフォレも殺された今、自由を奪われたゼタルが頼らなければならないのは、このたった一つの事実だけだ。
 それまで絞められていた首から、ゆっくりと力が失せる。急に吸い込んだ空気が喉を刺激し、メリーアンは激しく咳き込んだ。涙で潤んだ青い瞳が見つめた先に悪魔の貌はなく――すがるような紅い銀の眼差しがあった。
「……お願いだ、俺の心臓を返して」
 先程とは一変し、甘えるような声と瞳が願う。
 これはゼタルの武器、彼は悪魔だから欲しいモノのためならば何だってするし、どんな姿だって演じてみせる。わかっているのに……それは無垢で可愛らしかった幼い頃を思い出させ、メリーアンはぎくりとした。
「本当の姿を取り戻せたら、俺は自由を手に出来る。そうしたらお前を連れてここから出て行けるのに」
 青白い頬を指先で撫でながら、触れそうなほどの距離で甘い声が囁く。
 これは全て嘘で、まやかしだ。絶対に視線を合わせてはならない。捕らわれて罠にはめられる。熱を帯びた紅銀の瞳から逃れようと、メリーアンは固く瞳を閉じた。
「ねえ、瞳を開けて。俺を見て」
「いやっ!」
 聞き分けのない子供のように、メリーアンは嫌がって首を振る。
「メリーアン」
 耳元で唇が動くのを感じた。熱い吐息と共に注ぎ込まれた名が、まるで自分のものではないようで。ぞわり、と背を撫で上げる甘い囁きに、メリーアンは反射的に瞼を上げてしまった。
 見開かれた青い瞳と、紅銀の瞳がかち合う。こうなったら終わりだと、身をもって知っていたはずなのに……もう手遅れだった。強い魔を秘めた眼差しに射抜かれ、麻痺したように身体が動かなくなり、思考が溶けてゆく。
 この世の美を集結させた麗しい貌がふっと近づいた。瞬きすら忘れた碧眼から零れ落ちた涙を、ゼタルは唇で受け止めた。
「……お前は俺を大切にしてくれた。だから、俺もお前だけを大切にするよ。お前の望むモノは何でも手に入れるし、何でも与える」
 お前だけが特別だ、とゼタルが誘惑する。一度は交わした口付けの味を知っているせいで、触れそうで触れない互いの唇がもどかしい。
 もしもここで頷けば、口付けてくれるのだろうか――魅惑的な言葉に惑わされ、メリーアンは朦朧とした眼差しで呟いた。
「……なん、でも?」
「ああ、何でもあげる。この心だって……お前のモノだ」
 最後の一言に、メリーアンがぴくりと身を震わせた。
 この美しい悪魔が、自分だけのモノになる。かつて欲した彼の心が手に入る。考えただけでも悦びに身体が震え、熱を帯びる。
 わずかに動いた唇に、ゼタルはにやりと口端を吊り上げた。それは吐息のように微かな声だったけれど、彼の耳にはしっかりと届いていた。
 所詮こいつもただの人間。最後は“マリア”のように、甘い言葉に簡単に惑わされる愚かな女でしかないのだ。
「俺の心臓は、どこ?」
 天使のような笑顔が、優しく穏やかに問う。
 悪魔の策謀に堕ちたメリーアンは、完全に焦点の合わなくなった青い瞳で、その笑顔を見上げた。
「あなたの、心臓は……」

 その時だった。

 夢の世界を蹴散らすように銃声が響き、ゼタルはぴたりと動きを止めた。紅銀の瞳が忌々しげに睨んだ先には、見た事もない白髪の男の姿があった。
「彼女を、離しなさい」
 白髪の老人――ミルトは、ゼタルに猟銃を向けて言った。
 初めて目の当たりにする“悪魔”という存在は、あまりに美しく、あまりに恐ろしかった。離れていても強く感じる取れる怒りは足元から指先まで震えさせた。気を抜けばきっと、その威圧感だけで殺されるだろう。メリーアンは今までたった一人で、こんなにも驚異的な存在と闘っていたのか。
「何だてめえは」
 メリーアンを抱えながら、ゼタルがミルトに向き直る。紅銀の瞳が細められ、何かを感じ取って注意深く周囲を探る。この、芯から熱く燃えるような感覚はもしや――
「……君の心臓は、私が持っている」
 震える声がそう告げると、ゼタルはにやりと不気味に笑った。睨んだ通り、あのジジイが“核”を持っているのか。
 すぐそばに感じる気配は、さながら男女の情事のように身体を上気させた。血が煮えたぎるようなこの感覚は間違いない。“核”が近くにある証しだ。
「そうか、だったら話は早い」
 抱えていたメリーアンを手放すと、ゼタルはその背に漆黒の翼を生やした。
「まずはお前から殺してやるよ!」
 コウモリのような翼が羽ばたかれ、ゼタルはミルトを目掛けて真っ直ぐに飛んだ。銃弾が彼の身体を撃ち抜くも、突き進む速度は落ちることがない。ゼタルにとって重要なのは、傷付き血を流す身体ではなく、“核”なのだ。人間が作り出した物理的なモノなど効果はない。
 鋭く尖った爪を振りかぶり、ゼタルがミルトを襲う。
 ミルトは懐から革袋を取り出し、ゼタルの目前に掲げた。
「これが何だかわかるかね! 君の心臓だ!」
 声を張って訴えると、腕を大きく振りかぶった状態でゼタルは制止した。
「私も“聖水”を持っているぞ。さあ、どうする」
 恐怖を悟られるぬように、ミルトは冷静を装った。本音を言えば、夢物語とばかり思っていたはずの悪魔を前にして、正気でいられる方がおかしいと思う。が、ここで自分がボロを出せば、メリーアンも殺され、心臓は奪われてお終いだ。だからせめて――時間を稼ぐために虚勢を張った。
 しかしその決意も、悪魔の前ではささやかな抵抗でしかなく。
「どうするか、だと? 愚問だな。てめえなんかに用はない」
 蔑むように見下ろして。ゼタルは振り上げた腕を真っ直ぐに落した。

 しかし、脇から飛んで来た“何か”が、ミルトの命を救った。振り下ろされる腕に激突したそれは、中身をぶちまけ、液体を浴びた腕は見事に断ち切られ、吹き飛んだ。
「アアアアアッ!」
 切り離された箇所が焼けるように熱い。血飛沫を撒き散らす腕を押さえながら、ゼタルは苦しみに悶えた。いかに高位な悪魔といえど、己を滅するモノで攻撃されれば傷付き、痛みに苦しむ。麗しい貌は激痛に歪み、悲鳴が上がった。
 その隙にミルトは聖水を取り出し、ゼタルに向かって投げつけた。聖水の瓶は足にぶつかり、今度は足が落ちた。腕と足が一本ずつ――そう、彼が村長の妻にそうしたように、己も同じ部位を失ったのだ。
 ゼタルの翼が羽ばたきを止め、血に染まった身体が地に落ちる。その隙を突いて、ミルトはメリーアンの元まで駆け寄った。彼女のそばにはすでにもう一人の血族――ハイネがいた。ミルトが命をかけてまでゼタルを引き寄せていたのはこのためだ。心臓を取り戻すべく躍起になっているゼタルは見事作戦にはまり、ハイネの存在にまで気付かなかったようである。先ほど聖水を投げつけたのも彼女だ。
「メリーアン、しっかりしてください!」
 地べたに座り、呆然としているメリーアンの身体を揺さぶって、ハイネが何度も声をかける。けれどもメリーアンは正気を取り戻さず、焦りばかりが募る。こうしている間にもあの悪魔は立ち上がり、襲って来るに違いない。
「しっかりして! あの悪魔が憎いんでしょう?!」
 悲鳴にも似たハイネの声に、メリーアンの青い瞳がわずかに揺らいだ。それにほっとしたのも束の間、ハイネもミルトも異様な気配を感じて顔を上げる。視線を集めた先には、ゆらりと揺らめく黒い影。
「許さねえ……!」
 麗しい貌も、白い手も。自身の血で真っ赤に染めた悪魔がそこにはいた。手足を失っても背の翼は変わらず羽ばたき、ゆらりと宙を漂う。ぼたぼたと赤い雫が落ちて地面を染め上げ、血だまりがいくつも広がった。
 そのおぞましい光景に、ハイネは青ざめていた。彼女とて悪魔なんて存在は物語の中だけだと思っていた。だから肌で感じる脅威に身がすくみ、動けなくなっていた。
「……そうか、お前が“血”の主か。もう一人いたとは……」
 紅銀の瞳が怯える娘を凝視する。
 ようやっとで瞬いた時、ゼタルの姿はハイネのすぐそばに迫っていた。
「きゃあっ!」
 血濡れの手が首に宛がわれ、ハイネは悲鳴を上げた。助けようとしてミルトが駆け寄ったが、振るわれた漆黒の翼に弾き飛ばされ、地面に伏して気を失った。
 たかが人間、それも小娘や年寄りにしてやられた怒りは果てしない。下等な存在にプライドを傷つけられた悪魔は、もう誰にも止められない。
「このまま殺して欲しいか? それとも、死ぬ前に犯られるか? 選ばせてやる」
 血に濡れてなお美しさを増す悪魔の貌が、いやしく歪む。
 ハイネは瞳を見開き、硬直した。紅い瞳が放つ視線が、血の匂いが頭を狂わせる。どちらにしても“死”への選択しかないというのに、その言葉さえも甘美な誘惑に感じてしまう。
「どうした、選ばないのか? だったら俺が決めてやる」
 ぎり、と首を絞め上げながら、ゼタルが顔を近づける。
 そうしてハイネの唇に口付けようとして――
「このまま死ね」
 娘の柔肌を、伸びた爪が傷つける。
 このまま喉を握りつぶして殺してしまえ――恐怖に震える瞳を見据えながら、ゼタルは手に力を込めた。
 しかし。
「ぐっ……あうっ……!」
 首に宛がわれていた力が失せたかと思うと、ゼタルは胸を押さえて苦しみ出した。身体を折り曲げ、息を荒げ……まるで、発作を起こしたかのように呻いた。

「馬鹿ね」

 静かな声が響き、ゼタルは振り返る。
 視線の先にはメリーアンの姿があった。右手に聖水、そして左手には“心臓”。百五十年経ってもなお繰り返し鼓動するそれは、少女の手の中でどくり、どくりと脈打っていた。
「あんたの中にあるのはサージュの心臓よ。あの子は心臓を患っていた。忘れたの?」
 そう、ゼタルの中にあるのは、偽物の心臓。愛する弟から奪ったもの。だから心をやるなんて……そんな言葉は初めから嘘だった。本物の心臓は――本当の心を宿したモノは、ここにあるのに。
 ゼタルは再び地に落ち、胸を押さえて呻いていた。その姿を、メリーアンはじっと見つめていた。 
「……くそっ……!」
 まさか、ここまで来て滅ぶというのか。長きに渡り欲したモノはすぐそばにある。手を伸ばせば“核”は戻る。そうすればこの苦しみからも解放されるというのに。
「俺をっ……殺すのかっ!」
「ええ」
 紅銀の瞳が恨めしげに睨むも、メリーアンは平然と答えた。
「殺れるのか、お前に! かつて愛した男を手にかけるのか!」
 悲鳴に近いゼタルの叫びに、驚いたのはハイネだっただろう。彼女は、メリーアンがただゼタルを憎んでいるとしか思っていなかったから。
 声を張り上げられても、メリーアンは怯むことなく佇んでいた。脳裏には、まだゼタルが幼かった頃の楽しい思い出が甦っていた。
 でも、それは夢。まやかし。
 思い出ではなく、全ては仕組まれた物語でしかない。
「私、あんたのこと愛してたわよ」
 可愛くて、優しくて、そして美しい悪魔に。
 確かにこの心は奪われていた。
「だから私、あんたを独占してやるの。この手で殺せば、あんたは永遠に私のものよ。あんたは、もう誰も愛せない」
 マリアは殺せなかったけれど、私は違うと。
 強い言葉とは裏腹に、青い瞳からは涙が零れた。

 もしも彼が悪魔ではなく。もしも自分が人間でなかったら。
 普通に愛し合えたのだろうか。
 もしも自分が、リブリとマリアの子孫でなかったなら。
 たとえ愛されなくとも、夢の中で仮初の幸せを掴めたのか。
 
 願ってもどうしようもない。望む未来は手に出来ない。

「さよなら」

 震える声で告げて。
 メリーアンは聖水の瓶を傾けた。

「ぎゃああああああッ!!」
 悪魔の断末魔が響き渡った。
 心臓を襲う激痛に、ゼタルは地面をのたうち回る。やがてその身体は青白い炎に包まれ、無に還してゆく。美しかった貌も、紫銀の髪も何もかもが聖なる炎に焼かれて失せてゆく。人としての形が失われる瞬間はとてもおぞましかったけれど、メリーアンはしっかりと瞳を見開いて最後まで見届けた。
 燃え上がる炎の中、紅銀の瞳がこちらを向いた。青い瞳がそれに応える。ゼタルは何か言葉を口にしたが、唸る炎にかき消されて音にはならなかった。むしろ聞こえなくて良かったのかも知れない。
 聖なる炎は骨まで焼き尽くした。左手にあったはずの心臓も無に還った。先程まであったはずのゼタルの姿は、もうどこにもなかった。彼の使い魔の死体も燃えて無くなった。
 初めから、存在しなかったように。


 エレフを支配していた月蝕の闇が、徐々に訪れる朝と共に明けてゆく。東の方角からわずかに差した太陽の光が、鬱蒼としていたはずの森に輝きをもたらす。
 長い長い夜は明けた。悪夢を見ることは二度とない。
 それなのに。
 どうしてか心には虚しさだけが残り――メリーアンは顔を覆って狂ったように泣き続けた。





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