ビオレータはミュゲと共にエスタシオンからブルーメへと帰る途中だった。魔法陣が光ったかと思ったら、突然に地面が消えてなくなり、真っ逆さまに落ちていた。ああ、このままでは死んでしまう! と思って下を見てみたら、女の子が二人歩いていたのが見えた。このままではぶつかってしまう! と思ったのだが……
「ああああああ、どうしよう〜! 助けて〜ミュゲくーん、誰かー!」
 ビオレータ(猫型)は、回転する歯車の中で走り続けていた。ちょうど滑車を回して遊ぶねずみのように。抜け出そうにも抜け出せないし、歯車も止まる様子がない。ビオレータにできる事といえば、とにかく足を動かし続ける事だけだった。
 ああ、このまま走り続けてやがては力尽きて死んでしまうのね。思えば短い人生だった……さようならミュゲくん、みんな。そんな悲嘆にくれながら走り続けるビオレータを、じっと見守る視線があった。青紫の瞳がちらと見遣ると、大柄な男がそばに立っており、濃茶の瞳がこちらを凝視しているではないか。
「ああああ、あのあのあの、た、助けてくださいませんかッ!」
 素早く足を動かしながら、ビオレータは必死に懇願した。彼に無視されたら、もう疲れて死んでしまうかもしれない。
男は了解してくれたようで、上方にあったレバーをぐっと引き、歯車を止めてくれた。

 歯車から逃れたビオレータは、床に突っ伏してぐったりしていた。だらしなく四肢を伸ばし、乙女の恥じらいなど皆無状態だが、とりあえず今は猫だし、はっきり言ってそんなことを気にかけている余裕もない。走り続けたせいで体力はない。しかし息を荒げつつも、これだけは言わねばと、うつ伏せたまま言葉を吐き出す。
「あ、あの……あ、ありがとう……ご、ございました……はあ」
 息も切れ切れ、ビオレータがやっとの思いでお礼を告げる。乾いた喉に息が張り付き、かなりの不快感だ。
 すると、男は屈みこんで笑い出した。
「いや、困ってたんなら早く言えばよかったのに。てっきり遊んでたのかと思ったよ」
 そんなわけないでしょー! と内心で叫びながらも、とにかく息を整えるので精一杯だった。というか、彼はいつからそこにいたんだろうか。さっさと助けてくれれば良かったのに。


 ようやく落ち着きを取り戻したビオレータに、男は冷たい水を与えてくれた。かなり大柄で、猫型ビオレータからすれば巨人に見えた。怖がって怯えていると、彼は名を名乗って警戒心を和らげてくれた。サラというらしい。とても優しくしてくれたことと、見た目の割に女の子っぽい名前が何だか意外だった。
「大丈夫か? なんであんな所で遊んでたんだ? 危ないぞ」
「あ、遊んでいたわけじゃないんです……私もどうしていきなりあんな所で回るはめになったのか、ちょっとわかりません」
 本当に一体どうなっているのか。一緒だったミュゲはどこへ行ってしまったのか。というか、ここは何処なんだろうか? ビオレータの頭は大いに混乱している真っ最中である。
「あ、あの……なんか、ここは見た事がないものばかりあるんですけど……どこですか?」
「ここはアスラーゼ城の動力室だよ。危ないから出て行った方がいいよ」
 アスライーゼ? はてそれは何処でしょう? ビオレータは思い切り困惑したまま首を傾げた。自分が知っているのはエスタシオンとブルーメのみ。アスライーゼなんて聞いたことがない。
 そこでビオレータははたと気付いた。今自分は猫の姿である。猫の姿の時は、エスタシオン以外で言葉を話してはならないという決まりがあったのだ。ミュゲだって、いつも猫の時は周囲に気を使っているではないか。
「あわわわ……どどど、どうしよう! ミュゲくんに怒られちゃう〜」
 混乱の末、ビオレータは泣きべそをかいた。もうどうしていいのかわからない。ここはどこ? ミュゲくんはどこ? とグズグズ泣いていると、サラが頭を撫でてくれた。
「落ち着きなって。なんでこんな所で遊んでたのか、話してみなよ」
 どうあっても遊んでいたと思われているらしい。それはともかく、ビオレータは気を取り直してこれまでの経緯を全て正直に話し出した。

 ビオレータはサラに抱えられ、動力室とやらを出た。ビオレータの話をどこまで信用してくれたかはわからないが、とりあえずミュゲ探しを手伝ってくれるという。やっぱり優しいところが意外だ。
「あの、お願いがあるんですけど……」
「なんだい?」
「私が猫の姿で喋ったことは、ミュゲくんには内緒にしておいてください」
 ビオレータがあんまりにも怯えるので、サラはそのミュゲというのが恐ろしい猫の獣人かなんかなのだと想像してしまった。きっとどう足掻いても逆らえないのだろう。まるで女王さまみたいだ。なぜそんな事を内緒にするの? と聞いてみたら、喋る猫なんておかしいでしょ? という答えが返って来た。なぜおかしいと思うのか、サラにはわからなかった。喋る猫なんて、そんなに珍しいものでもないのだが。
「それにしても……“えすたしおん”なんて聞いたことがないな。でも女王さまなら何か知ってるかも知れないよ」
「女王さま?」
 うん、とサラが頷いた。
「この城の王さまだよ。美人なんだけど……ちょっと怖いんだよね」
 巨人のサラですら怯える女王さまとは、一体どんな人なのか。きっとサラ以上に巨人なんだわ! と想像してビオレータはすくみあがった。
「とりあえず坊っちゃんが帰ってきたら話してみるから、そうしたら女王さまに会えると思うよ。それまでそのミュゲくんを探してみよう。城の中にいるかも知れないしね」
「ありがとうございます〜」
 坊っちゃんって誰だろう? と思いつつも、ビオレータは心から感謝した。



◇   ◇   ◇



――困った。

 暗闇が支配する庭園の隅っこで、白猫ミュゲはこっそり草むらに隠れていた。彼が取り乱す事は皆無である。ちなみに今も大して焦ってはいないのだが、困っているのは事実だった。
 ビオレータと共にエスタシオンから帰還中、何かの間違いでブルーメではなく全く別の場所に転移されてしまったらしい。足元が空間になったかと思うと、二人揃って真っ逆さま。地面に落ちる間際、下を歩いていた少女二人に激突しそうになったかと思ったら、見知らぬ城へと導かれていた。さきほど少し散策してみたが、やはり知らない場所だ。それに住んでいる人々の服装も少し変わっているし、見たこともないものが沢山あった。つまりは、エスタシオンともブルーメとも関係のない、異界へと飛ばされた可能性が高い。
 何より問題なのが、ビオレータと離れてしまった事だ。果たして同じ所に落ちたのか、無事かどうかも気になる。見つけようにも城内はブルーメの王宮など比較にならないほど広大で、探すのにも少々疲れてしまった所だ。ゆえに、こうして草むらに隠れて思考を練っている状況だった。
 ふうと溜め息を一つ、気を取り直してビオレータ探しを再開しようと立ち上がったミュゲの耳に、ふいに歌声が届いた。聞きなれない言葉を紡いでいたが、透明で儚い歌声は、とても綺麗だ。
 今まで聞いたこともない美声は、このすぐ近くで発せられている。ミュゲは歌に導かれるように草むらから顔をのぞかせ、そしてぴたと動きを止めた。同時に歌声も止まった。
 歌声の主が、こちらに気付いてしまったのだ。空色の瞳が驚いたように瞬く。まさかこんな近くに猫がいるとは思わなかったのだろう。歌声の主は若い娘だった。
 驚いていた娘はすぐに笑顔を取り戻し、屈みこんで語りかけてきた。
「どうしたの? 迷子になっちゃったのかしら?」
 ミュゲは(いかにも猫を装って)迷子である事をアピールするように、伸ばされた白い手に擦り寄った。すると娘は何の警戒心も持たずにミュゲを抱き上げた。まあ、猫だから警戒される理由がないわけだが。
「可哀想に。このお城は複雑だから、一度迷うと大変なの。私も、未だに迷ってしまう事があるのよ」
 (当たり前だが)完全な猫だと思われているらしく、娘は返答を待たずに一方的に語りかけてくる。どうしようか、とミュゲは考えた。ここで詳細を話せば協力してもらえるかもしれないが、下手をすれば怖がられるだろう。喋る猫なんて気味が悪いに違いない。こちらの常識は通用しないと考えた方が妥当だ。
「あなた、とても綺麗ね。お腹すいてない?」
 娘は薄青の瞳をのぞき込みながら、感心したように語りかけてくる。ミュゲはまるで言葉が通じたとばかりに首を横に振った。当然、通じているのだが。
「まあ、私の言葉がわかるの? 賢い子ね。誰かに飼われているのかしら」
 細い指が白い毛並みを優しく撫でる。ちょっと心地よい。
「あなたのご主人様、お城の外にいるの? 一緒に探してあげたいけれど、私は外には出られないの。どうしよう……誰かに相談してみようかしら」
 娘はミュゲを抱えたまま立ち上がり、そのままどこかへと歩き出した。外に出されたらまずい、とは思ったものの、彼女自身は外に出られないと言っているから、城内の誰かに話を持ちかけるのだろう。少しでも長く城内を歩き回ってくれれば、もしかしたらビオレータが見つかるかもしれない。そうとなったら猫に徹するだけ。
 ミュゲは娘の腕からするりと逃れ、周囲のものに興味を持った風に装いながら通路を動き回った。はぐれてしまうと困るので、通路の途中で何かを見つけたように駆け寄っては立ち止まり、娘の到着を待つ。そうして可能性のありそうな物陰に、黒猫がいないか探していた。
 しかしそう簡単には見つからない。夜という事もあり物陰も暗い。そんな中、黒猫を探し出すのは至難の業だ。どこにいるのだろうか。
 仕方ない、とミュゲは最後の手段に出る事にした。こうなったら、この城の主に話をつけるしかない。主ならば城内はおろか、国中に“ふれ”を出す事ができるだろう。他の場所にいたら手の施しようがないが、とりあえずこの国にいるかどうかだけは確認できる。
 ミュゲは娘に歩み寄り、ねだるような鳴き声を上げた。娘は再びミュゲを抱え上げ、またしても一方的に語りかけてくる。
「疲れちゃったの? どうしようかしら……ロックウェルもファルもいないし、やっぱりフェリーシア様に相談してみようかしら」
 様付けする辺りが何となくそれっぽい。その“フェリーシア様”とやらが城主かもしれない。ミュゲは「それは誰?」と言わんばかりに首を傾げて見せた。
「フェリーシア様はこの国の女王様よ。とても頼りになる方だから、きっとあなたのご主人様も見つけてくれると思うの」
 うまい具合にこちらの意図する答えをくれて非常に有難い。言葉はなくとも意思の疎通が図れるのは偶然なのか、それとも何か他に理由があるのか。とにかく今はこの娘だけが頼りだ。
 そうしてミュゲはビオレータを探すため、城主の元へと連れて行かれることになった。あくまでも猫として。



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