4〜vier〜






 ポットに波々と【フリュイ】を入れ、ティアイエルはある場所へと向かった。そこは色々な本が置いてあって、彼女にも読めるような簡単な文章のものも沢山ある。あまり本というものを読んだ事がなかったティアイエルは、部屋を見つけた時から非常に興味を持ち、今度ゆっくり読んでみたいと思っていたのだ。
 上機嫌で書斎の扉を開け、中に入ろうとしたティアイエルの笑顔が一瞬にして凍りついた。
 先客がいたのだ。
 自分以外でこの場所にいるのは―――あの冷たい蒼の瞳を持つ青年しかいない。どうして今日に限って、ここに居るんだろうと思う。勿論彼はティアイエルが扉を開けたことに気付いた。慌てて逃げ出そうとしたが、背中越しに言葉がかけられた。
「何も逃げる事ないだろ。入れば?」
 予想だにしなかった言葉に足を止め、恐る恐る振り向くと、青年はこちらを見ていなかった。本当は今すぐ出て行きたいのだが、そう言われて逃げ出せば余計機嫌を損ねるかも知れないと諦め、仕方なく中へと足を踏み入れた。
 部屋の中には大きなテーブルがひとつあり、椅子が六つ並べられている。ティアイエルは渋々青年の向かい側に腰を下ろした。彼は無言で、ずっと本を読んでいる。
 最初はただ座っていたティアイエルだったが、流石に間が持たなくなり、その辺に置いてあった本を適当に読み出したが、大変難しい文章で、とてもじゃないが読めなかった。読んでみたかった本は、青年の後ろの棚にある。しかし、どうしても近づくのをためらってしまう。
 それに何だかひどく緊張してしまい、喉の渇きを覚えてポットのお茶をカップに注いだ。すると、青年は本から目を上げ、注がれる薄いピンクの液体に視線を向けた。
「それ、何?」
 見られていた事にすら気付いていなかったので、突然問いかけられ、驚いてお茶を溢しそうになった。
「あ、え、えっと……ハーブティよ。し、知らないの?」
 普通の人なら一度は飲んだ事のある飲み物のはずだが、どうやら彼は知らなかったようだ。珍しそうに薄ピンク色の液体を眺めている。
「ふーん……綺麗な色だな」
 意外だった。そんな感想を言うとは思ってもみなかった。この世のものとは思えぬ美しさを持つ存在が、一瞬にして飲み干されるようなものを綺麗だと言う。自分の美しさを埋め込んだ目の前の少女すら、美しいと言わないのに。
「の、飲んでみる?」
 そっとカップを差し出すと、青年は受け取ってくれた。少し嬉しいと感じたのは嘘ではない。
「へえ、人間の飲む物も結構いけるんだな」
 青年の言葉に、また不自然さを感じた。
「あ、あの……あなた、食事とか、その、どうしてるの? 地下の貯蔵庫、使ってないみたいだけど……」
「翼人は人間のものは食べないし飲まない。基本的に空腹を感じることは無い」
 貯蔵庫の謎と、自分の謎が一気に解けた。彼も、そして自分も、空腹を感じない体をしているのだ。きっと喉も渇かないのだろう。ティアイエルは人間の遺伝子を強く持っているので、辛うじてそれが残っていると思われる。だから喉が渇くのだ。
 カップを空けてしまうと、青年はその後も好んで【フリュイ】を飲んでいた。気に入ってくれたようだ。それが、不覚にも少しどころかとても嬉しいと感じてしまった。自分が気に入ってる物を喜んで貰えると、とても嬉しい。
「あ、あの……あなた名前、何ていうの?」
 喜びついでにずっと気になっていた事を口にする。問いかけると、案の定睨みつけられた。怖い。
 ――やっぱり聞かなければ良かった。

「……ゼルエル」
「え?」
「俺の名前はゼルエルだ」
「ゼルエル……」
 自分の名前が呟かれても、彼は本から目を離さなかった。ただ、聞かれた事に答えただけだった。
 その横顔は神が創り出した最高傑作とでも言えばいいのか、それほどまでに美麗で神秘的だ。自分のものよりも淡い空の青は、手を伸ばしても決して届かない天のように、そこにあるのに遠くて触れることが出来ない。本に落とされる蒼は、宝石の色のように深い。
 ティアイエルは鼓動が音が大きくなっていることに気付いてしまった。
 どうしてだろうか。自分を殺すと言っていた存在を目の前にして、この鼓動は恐怖から来るものではない。夢でも見ているんじゃないか。きっと今自分は夢の中にいて……。義父王やハビアを前にしても、こんな気持ちになったことはない。
 ――そういえば。
 思い出した。彼に聞かなければならないことがあったのだ。
「あ、あの……き、聞きたい事があるんだけど……」
「何だ」
 一度息を呑んで、そして声を発する。
「あの……研究所で私の面倒を見てくれてた……ハビアは今どうしているの?」
 あの日のことを忘れたわけではない。血だらけになって自分を逃がしてくれたハビア。あの後どうなったのか。
「ハビア……ああ、あの若い研究員か。あいつなら死んだ」
 あっさりと言い放たれた言葉に、耳を疑った。
「う、嘘……」
「嘘なんか言ってどうする」
「どうして……」
 しかし、その結末を考えなかったわけではない。あの出血だ、最悪の場合は、と考えた。
 そして再び、目の前の存在に恐怖を感じた。
「あなたが、殺したの?」
 怯えた目で、しかしはっきりと発せられた言葉に、ゼルエルは反応した。
 静かに向けられた瞳は、何の感情も映し出してはいなかった。
「さあな。そう思うなら、そうなんじゃないのか?」
 頭に血が昇った。
 これまで、怒りというものを知らなかった自分。でも今は目の前の存在がひどく憎らしい。さっき、少しでも彼を意識した自分が恥かしいと思う。ゼルエルは人の生死を物のように考えてるのか。
「ひどい! 彼が一体何をしたっていうの? あなたは何の権利があって、人を簡単に殺すの!」
 怒りを含んだ紫色の瞳が青年を睨みつけた。だが逆に睨み返され、ティアイエルは怯んだ。
「ならば、お前は人間達が我々翼人にしたことが何なのか、知っているのか? 人間達が大地を、水を、大気を……自然の全てを汚し、壊したから翼人は滅んだ! 俺達は自然の力を借りてこそ、百年以上の時を生きる。人間達が自然の生態系を狂わせてくれたお陰で、背に翼を生やす存在は俺しかいなくなってしまった!」
 蒼の瞳に悲しみは無かった。ただ、剥き出しの怒りだけがそこにはあった。
 自分は人間だから、彼の悲しみや苦しみはきっとわからない。でも人間だって……
「人間だって生きる為に必死だったのよ……」
「所詮人間のお前に何がわかる!!」
 ゼルエルは机を強く叩きつけた。ティアイエルの肩が跳ね上がる。
 恐れながら瞳を上げると、青年はこれまで見たことがなかった程の怒りの表情を見せていた。
「いいか、俺に逆らうな! 逆らったらその首をへし折ってやる!」
 ゼルエルは怒りを抑えようともせず、そのまま書斎を出て行った。

 ティアイエルは瞳に涙を溜めながら、しばらく呆然としていた。穏やかだった青年に夢を見ていたのに……。やはり彼は危険な存在なのだ。このまま放っておけば、世界は彼の手に落ちる。狂った翼人の支配が始まってしまう。
 何とかして止めなければ……。涙を拭いながら、ティアイエルは自室へと戻っていった。






 部屋へと戻ったティアイエルは、バルコニーへと出た。すっかり辺りは暗くなり、腐った夜空には星も瞬かない。研究所にいた時みたいだ。
 城のある北方領土では、星も月も見えたし、太陽も顔を出した。あれが自然の姿なのだろう。南方は科学が発展したせいか、水も汚いし空も濁っている。あまりの違いを改めて感じた。
 それでも頬を撫でる風は気持ちが良かった。ずっとこうしていれば、辛い事も悲しい事も忘れられるだろうか?
 あの城に戻りたいとは思わない。でも、ここから逃げ出したい。だが逃げ出したとして、果たして何処へ行くというのだろうか。
 城には帰れない、ハビアは……死んでしまった。殺されてしまった。最後に会った夜を今でも忘れはしない。怪我を負いながらも、必死に自分を逃がしてくれた。最後まで気遣ってくれた。高速で流れる景色の中で、聞こえた銃声――
 ――銃声?
 確かに聞こえた。しかしゼルエルならば、銃など使わなくても人間一人くらい簡単に壊せるはずだ。むしろ彼は人間の作り出した物を使う事を嫌っているように思える。
 思い出して。銃声の後に聞こえた微かな声を。風が運んでくれた、最後の彼の声を。

 ――何故ですか、所長……。
 ――君は知り過ぎてしまったのだよ。

 確かこんな会話だった。どうして忘れていたんだろう。
 あれは決してゼルエルの声ではない。間違いなく人間のものだった。

 ――あなたが殺したの?
 ――さあな。そう思うんなら、そうなんじゃないのか?

 ゼルエルは、はっきりと自分がやったとは言っていない。まるで自分がやったように思わせているだけ。彼にとっては、ティアイエルが何と思おうが関係ないのだ。だからあんな風に答えたのだ。
 では自分が勝手に勘違いをして、彼を怒らせてしまったのか。
 ――私なんて事を……。何もしていない人に、人殺しだなんて……。
 ひどい後悔の念に駆られ、ティアイエルは胸を押さえてうずくまった。








 何度彼の部屋を訪れようとしただろうか。
 謝りたくて、でも近づく事は出来なかった。近づけば殺すと言われた。その言いつけに逆らえば、首をへし折られる。どうしようもなかった。だが同じ建物で過ごしている以上、いつ出くわすかわからない。そうなった時に気不味いままでは嫌だ。
 だがやはり怖くて……部屋を出たまま、ティアイエルはがっくりと肩を落として屋上へと足を運んだ。部屋のバルコニーから見るよりも、一際広い景色が広がっていた。
「うわ……!」
 少し感動した。
 今日の風は強くて髪が乱れる。でもそんなに気にはならなかった。
 相変わらずの黒雲。晴れることのない天(そら)。それでも遥か遠くまで見渡せる景色は素晴らしかった。南方には小さく建物が見える。
「あれ、研究所かな」
 いつも中にいたから、外側から見たのは初めてだ。見えると言ってもほんのちょっとだけ。その建物の周りは薄い霧に囲まれていて、たまに姿を現す程度だ。
 人間達が壊した自然。それを補うかのように日々発達する科学。土壌は枯れ、水も汚れ、太陽は姿を消した。自然と共に生きてきたゼルエルが、怒りを覚えるのは当然かもしれない。彼でなくともそうなのだから。
 名前を思い浮かべて、本来の自分の目的を思い出した。彼に謝りに行くはずだった。けれど、怖くてどうしてもあと一歩が踏み出せない。
 はあ、と大きな溜め息を吐き、胸の辺りまである手摺にもたれかかると、視界に白い影が飛び込んできた。ゼルエルだ。用を終えて戻って来たのだろう。大空を我がもの顔で舞う華麗な存在。遠目に見ても美しかった。
 本物の翼。本物の空色。自分とは違う。憧れさえした。
 ゼルエルは彼女の姿に気付く様子もなく、もう一つのある塔の屋上へと降り立った。もしかしたら、彼女に気付いてわざと別の場所へ降りたのかも知れないが。
 また深い溜め息を吐き、ティアイエルは部屋へと戻った。







 3〜drei〜 / 5〜funf〜




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