sechs〜







 何故あんなに腹が立ったのかわからない。ただ無性に腹が立って、あいつを誰の手にも触れさせたくないと思った。
 ――誰の手にも?
 いや違う。自分の偽物に触れさせたくなかった。自分と同じ顔で、同じ髪で、勝手な事をされるのが嫌だった。だから閉じ込めてやった。
 何故? それがわからない。わからないから余計に腹立たしい。
 ゼルエルは、ピリピリと張り詰めた空気を背負いながら長い廊下を進んだ。
 ――やつを消してやる。この手で。
 彼が通り過ぎると、花も生けずに飾ってあった無駄に豪華な花瓶が、音もなく粉々に砕け散った。

 薄黒い空がますます暗くなって、冷たい雫が落ちてきそうな夜。ゴウゴウと唸りを上げて吹き荒ぶ風が水の匂いを遠くから運び、嵐の予感を醸し出していた。
 偽物を作り出した理由を問いただす為、ゼルエルは再び研究所へと足を運んだ。ラボの研究員達は、所長の命令でやっていたと言った。ならば、その本人に追求してやればいいだけのこと。
 怒りに身を染めたゼルエルは、適当に目に付いた部屋の窓を破って中に入り込んだ。明かりの点いていないその部屋は、どうやら研究員の部屋のようだ。
 興味のない場所を早々に立ち去ろうと一歩踏み出した時、風が血の匂いと人の叫びを運んできた。

 誰かが、人間達を殺している。
 誰かとは、人間以外の存在。

 ゼルエルはニヤリと笑った。
 ――好都合だ。ついでにアイツも消してやろう。
 その前に所長を探し出さねば。先に殺されてしまったら意味がない。ゼルエルは足早に所長室を目指した。
 辿り着くまでには幾つか部屋や小さなラボがあった。何処も惨劇の後だった。割れたガラスに散乱した様々な物。あちこち所構わず飛び散る赤い血。怪我を負ってうめく人間や、既に事切れている者もいる。偽物は、手当たり次第に暴れているようだ。
 だがゼルエルにとっては関係のないことだった。人間が死にそうになっていようが、助ける気もない。彼の目的は、自分の偽物を始末することなのだから。

 風に聞いてみると、所長は特別ラボにいるという。特別ラボとは、ティアイエルが生まれた場所であり、あの偽物が生まれた場所でもある。
 少女の名を思い浮かべて、ゼルエルはまた不自然な感情を覚えたが、今はそれ程気に留めることもなかった。
 特別ラボもやはり荒らされた後だった。あいつは、ここにいる人間全てを殺すつもりなのだろうか。室内を見渡すと、奥の方に呆然と立ち尽くす中年の男を見つけた。身につけた白衣には、彼のものか……真っ赤な血が付着していた。
 音もなく、ふわりと飛んで傍まで近寄ると、所長はゆっくりと顔を向けた。絶望と恐怖と、色々な感情に支配された表情を浮かべていた。
「貴様に聞きたい事がある」
 両翼で羽ばたきながら、ゼルエルは上から見下ろした。
「……彼のことかね」
「そうだ。貴様らは無から作り出せる技術を持ちながら、何故人間を使って翼人を創った?」
 ゼルエルが問いかけると、所長はフッと笑みを浮かべた。
「我々も馬鹿ではないんだよ。いずれ支配されると解かっていて、その兵器を創ろうとするかね?」
「なんだと?」
 では、こいつらは全て計算済みだったといのか。だからティアイエルのような失敗作が出来て。その後いくら待っても【次】が出来上がらなかったと。
 怒りに震えるゼルエルに、追い討ちをかけるような言葉が続く。
「彼はね、我々の最高傑作なんだよ。君にそっくりだろう? 美しさも力も、全てオリジナルと同じだ。彼は……」
 最後まで聞かずに、ゼルエルは所長の喉元を強く掴んだ。力を込めて、このまま死ねばいい。そう思った。
 だが、所長はそれでも話を止めなかった。
「……ぐっ! か、彼は、君に対峙するよう創ったものだ……。いずれ君が私達を殺そうとした時に……」
 ゼルエルは更に力を込めた。
「がっ……私は、ティアイエルを創った時……自分はとんでもない事をしでかしていると気付いた。だから、人間を使って実験を続けることに、嫌悪を抱いた……だから……」
 そこまで話した時、所長の体を人の手が突き破った。丁度心臓の辺りを、獣が食い破ったように、そこから人の手が現れた。
 所長は息絶えた。ゼルエルが彼の喉を開放しても、血を滴らせる体はダラリと力を無くし、宙に浮いたままだった。

「ふふ。あんまり余計な事ベラベラ喋られると、こっちも都合が悪いんでね……」

 宙に浮く死体の背後に、うっすらと影が浮かび上がった。徐々に鮮明になっていくその姿は、空色の髪も、美しい顔立ちも、真っ白な翼も、まるで鏡に映した自分のよう。
 ただ瞳の色だけが違っている。血を吸ったような、赤。
 複製が腕を振ると、死体が彼の手からするりと抜け、だらしなく床に落ちた。
 氷の様な冷たい蒼の瞳が、憎々しげに目の前の存在を凝視する。
「ハジメマシテとでも言うべきかな。この間は自己紹介も儘ならなかったからね。僕の名前はイロウルだよ」
 ニッコリと笑ってみせる複製体に、ゼルエルは勢いよく飛びかかった。それをサラリと交わしながら、イロウルは声を出して笑った。
「おやおや、随分血の気が多いみたいだね、オリジナル君は」
 言いながら、イロウルはゼルエルの腕を掴み、腹に蹴りを入れた。
「ぐっ……」
 ゼルエルは痛みを感じ、腹を押さえながら片膝を付いた。だが蒼い瞳だけは、じっとイロウルを睨みつける。
「やっと喋れるようになったんだからさ。もうちょっと色々話をしようよ」
「喋れるようになった……?」
「うん。前に君に会った時は、まだデータをインプットされる前だったからね。ここにいる人間達が色々教えてくれたよ。ほら、こうやってさ」
 イロウルは床に転がった所長の頭を無造作に掴み上げた。すると所長の体はみるみるうちに干からび、遂には骨と化した。
 目の前で広がる信じがたい光景に、ゼルエルは瞳を見開いた。
「こうやって色んな人間から情報を得たんだよ。……あれ? もしかして君はこんな力を持っていないのかな? ということは、僕はオリジナルの君よりも優れているってことになるね!」
 ただの骨と化した所長を投げ捨て、イロウルは心底嬉しそうに笑った。
 そんな力は勿論自分には無い。けれど、人間達がそんな力を与えるとも思えない。この存在は、生まれた時から何かが狂っているとしか思えなかった。
 ふと、自分が微かに震えていることに、ゼルエルは気が付いた。今まで震えたことなんてなかったのに。自分の複製が恐ろしいとでもいうのか。
「やっぱり君とはお友達になれそうもないな」
 微かだが、震えるゼルエルに気付いたイロウルは、残念そうに顔を見つめた。
 もっと面白いやつかと思ったのに。自分を見て震え上がるなんて、その辺の人間と同じじゃないか。つまらない。
「そうだ!」
 何かを思いついて、イロウルはゼルエルに近寄った。
「ねえ、君を殺して魂を吸い取れば、あの子のこともわかるかな?」
 全く同じ顔を見つめ、その頬を軽く撫でながら、イロウルはささやいた。
「なに?」
「あの子だよ。僕達みたいに背に翼を持った、髪の長い綺麗な女の子。……ティアイエル」
 背に翼を持った女なんて、この世に一人しかいない。
 頭に血が昇った。自分と同じ偽物の声で、少女の名を呼ばれた事が、この上なく気に入らなかった。ゼルエルの蒼い瞳がカッと見開かれると、強い力がイロウルの体を弾き飛ばした。さすがに応えたのか、イロウルは一瞬バランスを崩した。だが宙でクルリと回転すると、再び体勢を立て直した。
「ふ〜ん、意外な反応だな。君は彼女の事が疎ましいんだと思ってたのに。この間、彼女がそう言ってた」
「そう言ってただと?」
 意味がわからず問いかけるゼルエルに、またしても挑戦的な笑みが向けられた。
「僕は別に殺さなくても、触れるだけで相手の持つ情報を引き出せるんだよ。でも、翼人の心はガードが固くて上手く探れないんだ。だから、彼女の事も君の事も深く知ることは出来なかったよ」
 触れるだけ――砦の屋上であったことを思い出すと、ゼルエルを包む空気の緊張感が、最高潮に達した。
「君はやっぱり面白いね。……ここの人間を皆殺しにしたのはね、これ以上勝手な事をされると困るからだよ。君にも少しは感謝して欲しいくらいだけど。って聞いてないみたいだね。ま、いいや。悪いけどさ、僕も色々忙しいんだ。これ以上遊びに付き合ってられないんだよね!」
 イロウルが人間の血で汚れた両翼を広げて大きく羽ばたかせると、彼の背後の窓が派手に割れ、その破片が容赦なくゼルエルに降り注いだ。
 腕や足や腹、至る所を鋭い破片で深く切り付けられ、ゼルエルは血だらけになって両膝を付いた。
 その姿を嬉しそうに見つめて、不快な哄笑だけを残し、イロウルは飛び立った。







 ティアイエルは閉じ込められた部屋の片隅で、膝を抱えて座っていた。薄暗い室内、明かりも付けずにただそうしていた。日も差さないから、外の景色だけでは時間もわからない。外は激しい雨と風で、大きな窓はガタガタと音を立てて揺れている。
 怖かった。ひとりでいることも、閉じ込められていることも。こんな雨の日はハビアと別れた日を思い出してしまう。
 泣きそうになるのを、唇をぐっと噛んで堪えている時だった。突然、大きな窓が勢いよく開いたのだ。見えない力で完全に施錠されていたはずだが――合わせて強い風が入り込み、それに乗せて大量の雨の雫が床を濡らした。
 驚いて立ち上がり、近寄ると、瞳の前を大きな影が遮った。闇の中でもはっきりとわかる空の青と雲の白が、ふわりと舞い降りてきた。
「きゃっ!」
 血だらけの翼人は、ぐったりとティアイエルにもたれかかった。彼女がその体を支えると、背の翼はふっと消えた。ティアイエルは重さに耐え切れず、床に転がってしまった。覆い被さる存在は、青白い顔で意識を失っていた。
「え、と……」
 どっちだろう。瞳を開いていれば、どちらか分かるんだけど。
 だが、今はどちらかなんて気にしている場合ではなかった。
 ――と、とにかく手当てをしないと。




 夢を見ていた。闇に呑み込まれる夢。
 深い海の底で、永遠にたったひとり。孤独との闘い。
 膝を抱えて蹲る空色の髪と純白の翼と、そして蒼い瞳を持つ幼い子供。
 ――助けて。
 子供は声にならぬ声で助けを求めた。
 だが、父も母も、仲の良かった友達も、もう助けてくれる仲間などいない。永遠にたったひとり。
 ――嫌だよ。ひとりは嫌だよ。
 泣き叫ぶ幼い子供。
 その声が通じたのか、遥か頭上から、一筋の光が差してきた。
 優しい光に導かれるように、少年はゆっくりと昇っていった。




「きゃっ」
 いきなり腕を掴まれて、ティアイエルは声を上げた。眠るゼルエル(かどうかはまだ不明)の額に浮かんだ汗を拭いていたら、いきなりだ。
 絶対に起きないと思っていたのに、びっくりした。思わず持っていたタオルを取り落としてしまった。腕は強く掴まれたままだ。
 そのまま、腕を掴んだまま、眠っていた人はゆっくりと瞳を開けた。それでやっと、この人が誰だか分かった。
 ――ゼルエルだ。
 ほっとする自分がいた。赤い瞳ではなくて良かった。赤い瞳の彼が誰なのかは知らないが、ゼルエルと違う人だということは分かっていた。
 ティアイエルは、同時にすぐ逃げ出したい衝動に駆られた。まだ許してもらっていないし、勝手な事をしたと怒られるかも知れない。だが、腕を掴まれたままではそうする事も出来なかった。
 ゼルエルは体中の痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと体を起した。あちこちに走る痛みに視線を落とす。丁寧に巻かれた白い包帯――きちんと手当てをされていた。
「……お前がやったのか?」
 気だるそうな声で問いかけられたが、ティアイエルは怖くて、うんうんと首を縦に振るだけだった。
「この部屋に、手当ての道具はなかったと思うが……」
「あ、あの、あなたが帰って来た時に窓が開いたから、そこから出て他の部屋から取ってきたの……ご、ごめんなさい。勝手に部屋から出て……」
 彼女が謝る理由を、朦朧としたゼルエルの頭は理解していなかった。
 それよりも、確かあの日は強い雨と風で、外はかなり荒れていた。窓から外に出て…その翼で飛んで他の部屋へ渡ったのか。きっとただでは済まなかっただろう。彼女は人間だ。濡れて風邪を引いたかも知れない。
 視線を向けると、青白い顔の少女が脅えたようにこちらを見ていた。目の下にうっすらと出来た隈が、睡眠不足を物語っている。
「俺が眠っている間、お前どうしていたんだ?」
「えっ」
「ちゃんと眠っていたのか?」
「えっと……うん、そっちの方で座ったりして、たまに」
 自分がベッドを独占していたから、他に横になれる場所もなかっただろう。それにずっと自分の看病をしていたに違いない。彼女はそういう性格だ。放って置く事だって出来たはずなのに。
「え……?」
 腕を引き寄せられ、ティアイエルは戸惑った。そのままゼルエルに抱き締められていた。
 頭が真っ白になった。状況を把握できない。どうなっているんだろうか。何故こんな状態になってるんだろうか。
 微かに身じろぎする少女の身体を力なく抱き締め、ゼルエルは呟いた。
「しばらく、こうしていてくれ」
 自分でも何故彼女を抱き締めているのかわからなかったが、ただそうしたいと思った。
 あの夢から覚めたのは、間違いなく彼女のお陰だろう。だから、その温もりを今は感じていたかった。自分と同じものを持つ、少女の温もりを。

 ――ど、どうしよう。
 ゼルエルの腕の中、ティアイエルは固まっていた。
 困惑しながらも心は正直だ。煩いほどに鳴り響いている。ゼルエルにも伝わっているんじゃないかと恥かしくなる。自分の一際激しい鼓動に混じって、彼の鼓動が伝わってきた。ゆっくりと、規則的に波打っている。耳元に感じる息遣いと、優しく触れる空色の髪。心地よかった。
 うっとりしかけた所で我に返り、ティアイエルは慌てて言葉を発した。
「あ、あの、大丈夫? まだ調子が悪いんじゃ……」
「ん……」
 微かに返ってきた声が、何だか苦しそうだった。体も重くなったみたいだ。負担をかけないようにゼルエルの腕から逃れると、ティアイエルは顔を覗き込んだ。案の定、ゼルエルは意識を失いかけていた。美しい顔は白く、額には冷や汗が浮かんでいた。
 ゆっくりと彼の体を元のように横たえ、額の汗を拭った。その感触をおぼろげに感じながら、美しい天使は、再び深い眠りに落ちていった。







  5〜funf〜 / 7〜sieben〜




Copyright(C)2004− Coo Minaduki All Rights Reserved.