7〜sieben〜






 北方の女騎士・アストレーアは、ある場所に向かって馬を走らせていた。
 手に入れた情報を元に、小さな姫を迎えにいくために。

「王、私はやはり姫を……ティアイエル様を迎えに行こうと思っております」
 跪きながらアストレーアは深々と頭を下げた。
「アストレーア……」
「王、私はあの方をどうしても失いたくないのです。そしてあの日の事を、謝罪したいのです」
「しかし……」
 彼女が何を言っても、王は曖昧な答えを返すだけだった。
「私はティアイエル様を本当の姫だと思っております。あの方が何者だろうと関係ないのです。王、貴方は違うのですか? 翼人だから拾われたのですか?」
 ティアイエルは白い翼と空色の髪を持ちながら、ただの人間なのだと、あの青年は言った。自分はそれを頭から信じきっていた。あの子の話もろくに聞かず避けていた。
 驚かなかったと言えば嘘になる。だが、本当は翼人であるかなんてどうでも良かったはずだ。彼女を本当の娘として愛していたはずだ。
 あれからずっと考えていた。もし彼女が最初から普通の人間だったなら、もし彼女が白い翼も空色の髪も持っていなかったら、城へ連れ帰らなかったかと。
 それでもきっと、彼女を娘として迎えていただろう。だから出来ることなら戻って来て欲しいと願う。しかし真実を知って逃げ出した自分の愚かな姿を見られ、どうしてあの子の前に顔を出せようか。
 今でもあの子の悲しみに満ちた顔を忘れる事は出来ない。謝って許してもらえるはずなんてないが、それでも、例え許して貰えなくても、謝りたいと心から思っていた。
「……迎えにいってやってくれ。頼む……」
 王は顔を背けながらそう言った。その頬には涙が伝っていた。
「必ずや、ティアイエル様をお連れして参りましょう」
 アストレーアはもう一度深々と頭を垂れた。





 ティアイエルは付きっきりでゼルエルの看病を続けていた。あれから数日が経ったが、未だ目を覚まさない。目は覚まさないものの、体の傷は日に日に良くなっていた。特に薬をつけているわけでもないのに不思議だ。これが本当の翼人の力なんだろう。自分にはないけれど。
 少し風に当ろうと、ティアイエルはバルコニーへ出た。いつの間にか扉は自由に開くようになっていた。手摺にもたれ、相変わらずの暗い景色を眺めている時だった。
「ティアイエル様!」
 下方から女性の声が響いてきた。聞き覚えのある懐かしい声だった。
「アストレーア!?」
 眼下で見上げるその人を、ティアイエルは忘れてはいなかった。自分を妹のように思ってくれていた人だ。優しくて、美しくて、そして強い騎士。アストレーアは馬を落ち着かせながらこちらを見上げていた。
「やっと……やっとお会いできました!」
 黒髪の美しい女騎士は明るい笑顔で言った。その笑顔が懐かしくて、ティアイエルは泣きそうになった。が、同時に何故彼女がここにいるのか、と不思議に思った。
「アストレーア、どうしてここが……?」
「ある方が教えてくださったのです。どうか降りてきて。私と共に城へ帰りましょう。お義父様もそれを望んでおられます」
「お義父様が……?」
 そんなはずはない。あの日、自分がただの人間だと知って、義父は絶望していた。それなのに今更自分に帰って来て欲しいだなんて、そんなのは嘘だ。
「本当です。私も王も、貴女をひどく傷付けました。だから、どうか謝らせてください。戻って来てください」
 ティアイエルの不安を読み取ったのか、アストレーアはそう言葉を続けた。必死に訴える彼女の目は、嘘をついているようには見えなかった。彼女を取り囲む空気も、真実だけを語っていた。
 嬉しかった。本当に嬉しかった。また前みたいに、あの城で過ごせるのだ。義父王とアストレーアと、みんなと。
 ティアイエルの表情が笑顔になると、アストレーアも安心し、手を差し伸べた。
「さあ早く。貴女なら、その場所からでも降りられるでしょう?」
 一瞬、何もかも忘れて降りてしまいそうになった。しかし、今ベッドに横たわるあの人を置いて行く事は出来なかった。何故か出来なかったのだ。
 彼女の表情が一変して暗くなった。
「ごめんなさい。今は、行けないの」
「どうしてですか?」
「ごめんなさい……」
 理由を聞いても、ティアイエルは謝るだけだ。
「……わかりました。また明日迎えに来ます。お願いですから明日こそ降りてきてください」
 仕方なく、アストレーアは馬を走らせてその場を立ち去った。



 真っ暗だった天も、やがて少しずつ明るみを増してきた。
 眠れなかった。何度も同じ考えが頭の中をグルグルと回って、眠れなかった。
 ――私はどうしたらいいんだろう。
 城に戻れるなんて夢みたいだ。できる事なら今すぐ帰りたい。そう思っているのに、何故かアストレーアの元へ飛べなかった。この人の元を離れる事に罪悪感を覚えた。
 何故? 彼が怪我をしているから?
 違うような気がする。だが明確な理由が思いつかない。
 ――でも、ここに居たっていずれは……。
 だったらチャンスは今しかない。扉は自由に開く。ゼルエルは眠っている。邪魔するものは何もない。
 ティアイエルの心がぐらりと揺れ動いた。今しかない。そう思ったら、窓辺に向かって自然に足が動いていた。
 下から吹き上がる風に、空色の長い髪が舞い上がる。
「ティアイエル様!」
 風と共に昇ってきたアストレーアの声。
 夢中だった。白い翼を広げ、夢中で彼女の元へ舞い降りた。
 ただ無心に、ティアイエルはほんの小さな幸せを望んでいただけだった。




 アストレーアに抱えられるようにして馬に乗せられ、しばらく眠っていた。懐かしい香りが心地よかった。安心できた。ふいに目を開けると、眩しい光に目が眩んで、ティアイエルは目を細めた。
「こんな場所でも随分良くお眠りになってましたね」
 頭上から聞こえて来た、笑いを含んだ優しい声。その言葉にティアイエルは顔が熱くなった。
「う……仕方ないでしょう。夕べ殆ど寝てないんだもん」
 慌てて目を擦り、頬を膨らませた少女の姿に、アストレーアは微笑んだ。
 小さな笑いがティアイエルの耳を優しくくすぐった。アストレーアの女性らしくしなやかな腕の間から見える景色は、自然のありのままの姿だった。生い茂る緑も、天から降り注ぐ太陽の光も、ゆったりと動く白い雲も、彼のような空色も。研究所でも、あの砦でも見られなかった景色。全てが懐かしくて、涙が零れそうだった。

 城に戻ったティアイエルを迎えてくれたのは、数え切れない程の笑顔と優しい言葉だった。誰もが愛しい姫君の帰りを喜んだ。
 人々の温かさに触れ、ティアイエルは大粒の涙を零して皆に応えた。戻って来られたことがこんなにも嬉しいだなんて、こんなにも戻って来たいと願っていたなんて、自分自身驚きだった。
「さあティアイエル様、お義父様がお待ちかねですよ」
 アストレーアに手を引かれ、人の輪から抜け出すと、そのまま歩き出した。
 頭ひとつ分高い女騎士の笑顔を見上げながら、ティアイエルは不安な心に支配された。アストレーアも城の皆も自分の帰りを喜んでくれたが、果たして義父王は同じ気持ちなのだろうか。
 あの日の義父の表情を忘れたわけではない。もう一度同じ顔をされたらどうしようか。また逃げ出そうか。
 でも今度こそ、逃げる場所なんてないのだ。
 手を引かれ、俯きながら歩く。このまま、長い廊下が終わらなければいいと思った。どんなに歩いても辿り着けなくて……アストレーアが諦めてくれればいいのに。
 しかしティアイエルの願いも虚しく、色々と考えているうちに白い壁がどんどん流れていく。そして、とうとう義父王のいる部屋まで来てしまった。
 心臓が早い速度で鳴り響く。足がすくんでそれ以上進めない。ティアイエルの細い手がアストレーアの手を強く握ると、彼女は振り返り、そして軽く微笑んでみせた。
「心配はいりませんよ。大丈夫です。さあ……」
 ゆっくりと開け放たれた扉。
 ティアイエルは顔を上げることが出来ずにいた。そこにいる人の顔を姿を直視できない。その空気を即座に感じ取った王は、ゆっくりと立ち上がり、そして静かに歩み寄って来た。
「ティアイエル……」
 ひどく聞き慣れた声。それは、母親も父親も知らずに育ってきた彼女を、初めて“娘”と呼んでくれた声だ。怒りでもなく、悲しみでもなく、響く声は限りなく優しかった。
 ティアイエルはためらいがちに瞳を上げた。優しい眼差しとかち合った。それだけで今にも涙が溢れそうになる。
「こんな事を言っても、もう遅いかも知れん。私はそれ程までにお前を傷付けた。だが、どうか言わせて欲しい。本当にすまなかった。どうか許して欲しい。お前を本当に愛しているのだ。どうか、どうか……」
 王は、自らが権力者である事を忘れてひざまずき、まるで神に許しを請うかのように深く頭を垂れ、何度も何度も許しの言葉を繰り返した。
 ティアイエルは溢れる涙を抑え切れなかった。止め処なく頬を伝う雫が、自らの手をしっかりと離さぬよう握った王の手に、ひとつふたつと落ちていく。
 王は顔を上げた。そこにあったのは、ずっと待ち望んでいた愛しい少女の顔。涙でクシャクシャになっても、彼女の美しさは変わらなかった。
 王は微笑み、ティアイエルをそっと抱き締めた。


 ひとしきり泣いた後、ティアイエルはアストレーアの後に付いて自室へと戻って来た。部屋はここを出る前に自分が使っていたそのままの状態で、ティアイエルは嬉しく思った。
 義父王とのわだかまりも解け、少女は心の底からの笑顔で振り返ると、ひとつ気になっていた事を思い出した。
「ねえ、そういえば、どうして私があそこに居るってわかったの?」
「ええ、実は貴女の居場所を教えて下さった方が居るんですよ」
 アストレーアは少女の笑顔に答えるように微笑んだ。
 ――誰? 私の居場所を知っていた人って……。
 突然、不安の影が心を過ぎった。自分があそこにいた事を知っている者は少ない。というか、彼女自身が認識しているのはゼルエルだけだ。しかし彼は暫く眠っていたし、それにわざわざ教えたとは思えない。
 では一体他に誰が知っていたのだろうか。
 その疑問は、次の瞬間あっさりと解決されるのだった。

「やっと戻って来てくれたんだね」
 ひどく聞き覚えのある声が響いて来た。
 忘れる筈は無い。何度も何度も聞いた声だ。その声に恐怖し、その声に夢を見た。
 ――まさか……。
 アストレーアは背後から現れた人物に会釈をし、身を引いて場を譲った。
 ティアイエルは恐る恐る顔を上げた。そこに居たのは見慣れた風貌の人物だった。しかし、何処かあの人とは違うとすぐに気付いた。瞳の色が違う。
「あなたは……」
「覚えててくれた? 嬉しいな」
 ゼルエルと同じ顔をした人物は、眩しい程の笑顔を向けてきた。
 以前見た笑顔と全く同じだった。
 ――屋上で会った人だ。
 気付いたと同時に頬が熱くなった。あの時の事は忘れもしない。それ程までに彼の笑顔と頬に受けた感触は、彼女にとって衝撃的だったということだ。
「自己紹介がまだだったよね? 僕の名前はイロウルというんだ。君をずっと待ってたんだよ」
 優しい笑顔と穏やかな口調。冷たい氷の眼差しとは違い、熱の通った赤い瞳。しかし人間では到底及ばないほど整い過ぎた顔立ちと、晴天の日の空色の髪は、同一人物であるとしか思えない。双子なのだろうか。だがゼルエルは何も言っていなかった。まあ彼の性格からして、自分の事をわざわざ話すとも思えないが……。
 ティアイエルの表情が強張ったまま変わらないのを見て、イロウルは首を傾げた。
「どうかしたの?」
「あの、あなたはゼルエルと同じ顔をしてるけど……その、双子なの?」
 とても言いにくそうに、ティアイエルが問いかけた。
 一瞬だけ驚いたようだが、すぐにイロウルは軽い微笑みを返してきた。
「今まで君には辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳無いと思ってる。もっと早く助けに行ってあげれば良かったね」
「え?」
 思いも寄らぬ言葉に、ティアイエルは思わず顔を上げた。悲しみを帯びた赤い瞳が彼女を見つめていた。
 彼は何を言っているんだろう。私が辛い思いをしていた? もっと早く助けに行けば良かった? 一体何の話をしているのか、さっぱりわからなかった。
「彼は……ゼルエルは、僕の複製体なんだ」
 ティアイエルは言葉を失った。
 聞けば、オリジナルはイロウルの方なのだそう。複製体のゼルエルは彼が眠っている間に目覚め、好き放題勝手に暴れていたのだという。その時、研究所から逃れたという少女・ティアイエルの話を聞き、捕えた。何が目的だったのかは知らないが、恐らくはオリジナルである自分の存在が邪魔で、自分を消す為に何か企んでの事だろう……とイロウルはひどく真剣な表情で語って聞かせた。
 だが、ティアイエルにはその話が信じられなかった。彼は嘘を付いている、本物はゼルエルの方だと思った。何か企んでいるのは、オリジナルの存在が邪魔なのは、恐らく目の前の彼の方だ。
 自分でも何故そこまで思えるのか不思議なくらいだ。根拠も理由も何処にも無い。でも自信があった。
 イロウルの話や所作に、何処か機械的な感じを覚えたからかも知れない。熱が通ったように見えた赤い瞳が、何となく怖いと感じたからかも知れない。
「びっくりしたでしょう? ごめんね。僕が至らなかったばかりに……君を酷いめに合わせてしまった」
「いえ、そうだったんですか。私、何も知らなくて……」
「でも安心して。僕が君を守ってあげるから。この先もずっと……ずっとね」
 イロウルは終始笑顔を絶やさず、そしてそっとティアイエルを抱き締めた。壊れ易いガラス細工に触れるように、優しく。
 ティアイエルは無言のまま、その身を預けていた。だが空色の影に覆われた表情は暗く、真剣だった。しかしそれに気付かれてはいけない。
 今の所、イロウルは自分に危害を加えるつもりはないようだ。それよりも、むしろ好意を抱かれているように感じる。何も知らない無知な少女のふりをして、イロウルの真意を探らねばならない。それが出来るのは自分しかいない。
 ティアイエルはその小さな胸に、密かな決意を抱いていた。







6〜sechs〜 / 8〜acht〜




Copyright(C)2004− Coo Minaduki All Rights Reserved.