8〜acht〜






 イロウルは、巧みな話術と神が与えたその完璧なまでの美しさで、あっという間に城中の人間の心を捕えてしまった。女官達はおろか、城の兵やアストレーア、更には王までもが彼に心奪われていた。
 かつてこの城に現れた翼人は、自分の複製であって、彼を止めるために自分はここにいる。そしてティアイエルを助け出した……と話して聞かせると、王は疑いもなくイロウルを信じてしまった。
 ただひとり、ティアイエルだけは心を許しはしなかった。笑顔の奥に密かな思いを隠して、イロウルに接していた。
 彼は、イロウルは本当に優しく、紳士的だ。ゼルエルとはまるで正反対の性格で、特にティアイエルに対しては、何度も甘い言葉をささやいて気を引いていた。まるで、恋人に愛の言葉を捧げるように。
 時には何もかも忘れ、イロウルの甘い罠にかかりそうになった。けれど、どうしてもゼルエルの姿がちらついてしまう。同じ顔に同じ声。違う人だとわかっていても、ゼルエルの影が重なってしまう。

 最初の頃は余裕の態度を決して崩さなかったイロウルだが、徐々にティアイエルの様子に気付き始めていた。何度気を引いても、自分に目を向けさせても、紫の瞳は目前の自分ではなく、遠くにいるあいつを見つめているのだと。自分の中に、あの忌まわしい存在を見ているのだと。
 苛立ちは徐々にイロウルの心を支配し、やがてそれは表情となって表れ始めた。笑みを絶やさなかった端正な顔立ちは日々暗さを増し、時には苛立ちを抑え切れず、その辺の物に当ったり、時には気に入らない者を見えない力で傷付けたりもした。
 やがてイロウルは死んだように暗い表情を浮かべるようになった。彼に心を奪われていた筈の人間達は、あまりの変わりように次第に彼を持て余していった。遠巻きに見つめ、脅えて近づかなくなっていった。それがイロウルの苛立ちを一層募らせているのだった。


 砦にいる時、毎日憧れ続けた太陽の光は、目が眩むほどにまぶしく辺りを包んでいる。城の周りに生い茂る緑の森は何処までも広がり、優しく穏やかな空気を作り出す。様々な小鳥達のさえずりがあちらこちらで響き渡り、神の祝福を受けたように真っ青に晴れた空は、翼人の髪のよう。
 白い回廊をゆっくりと歩きながら、ティアイエルは有るがままの自然を堪能していた。ゆるやかに波打つ空色の長い髪と、天に浮かぶ雲のように白いワンピースの裾が、風に吹かれて軽く揺れる。風が緑の香りを運んでくれた。それがとても心地よかった。
 ふと、中庭にひとつの影を見つけた。白い石で造られた可愛らしい天使の像は、手に持った瓶から水を注ぎ、池に住まう生命に命の源を与え続ける。庭の中央の池を取り囲む、青々と生い茂る芝生。その一角に置かれた白いテーブルと椅子。そこに腰掛ける……自分と同じ髪色の人。
 ティアイエルは彼に見とれていた。しばらくそうしていたが、やがて我に返って軽く頭を振った。
 ――違う……彼は違うのよ。
 何故そこまであの人の事が気にかかるのか、よくわからない。
 あの日以来会っていない。怪我は治ったのだろうか。無事なのだろうか。あの日の夜、彼は自分を抱き締めてくれた。それが、この上なく嬉しかったなどと……そんな事を言ったら、あの人は怒るだろうか。勝手に逃げ出した私を彼は許してくれるだろうか。また会えるだろうか。もしも会えたら、今度は二人でお気に入りのお茶を飲めたら……。
 ――お茶……そうだ!
 何かを思いついて、ティアイエルは慌ててその場を走り去った。


「あの……」
 聞こえて来た少女の声に、イロウルは読んでいた本から目を上げた。その視線は自分を睨んでいるようにも見える。随分前から、彼は自分に対しても笑顔を見せなくなっていた。勿論甘い言葉もささやかない。彼の周囲を包む茨の棘にように鋭い空気は、触れるだけで全てを切り裂いてしまいそうだ。
 ティアイエルは一瞬ためらい、しかし勇気を振り絞って言葉を続けた。
「あの、良かったら、一緒にお茶でもどう?」
「……お茶?」
 イロウルは明らかに不機嫌そうだ。視線が痛いものの、ティアイエルは気にしないようにして、彼の向かい側の椅子に座った。そして運んできたティーセットをそっとテーブルに広げる。
 ティーポットから注がれるピンク色の液体は、ほのかに甘い香りを振りまいた。ティアイエルは笑顔を浮かべながら、二つのカップに並々とお気に入りの紅茶【フリュイ】を注いだ。
 ――ゼルエルも気に入ってくれたし、きっと彼も気に入ってくれるわ。
 苛々しているイロウルが、これを飲んで落ち着きを取り戻してくれたら。そんな淡い期待を胸にカップを差し出す。
「はい、どうぞ」
 少女の可愛らしい笑顔を一度見やってから、イロウルは彼女が差し出した物に視線を落とした。気色悪い色をした得体の知れない液体――イロウルの赤い瞳にはそう映っていた。
「……何故これを僕に?」
「え?」
 不愉快そうに問いかけるイロウルの真意がわからず、ティアイエルは軽く首を傾げた。
「何故かと聞いているんだ」
 鋭い視線は一層険しさを増し、少女を睨みつけた。戸惑いながらも、ティアイエルは驚く程自然に理由を語ってしまっていた。
「ゼルエルが気に入ってくれたから、あなたも飲んでくれるかと思って……」
 忌まわしい名前を耳にした途端、イロウルは表情に変えた。
 ティアイエルは慌てて口を押さえた。しまったと思った。彼の名前だけは、決して口にしてはいけなかったのだ。
 だが既に遅かった。イロウルはテーブルを強く叩きつけ、立ち上がった。
「僕はあいつじゃない! 何故それがわからないんだ!」
 そんなの良くわかっている。
 だって、同じ顔・同じ声を持つこの人を目の前にしても、あの人の姿を見てしまうんだから。
 ティアイエルの思いは、喉の奥でつかえ、言葉にはならなかった。紫色の瞳は見開かれ、口元を手で覆いながら少女は脅えながらイロウルを見ていた。
 イロウルの怒りは、もう誰にも止められなかった。テーブルに広げられたティーセットを容赦なくなぎ払うと、彼はティアイエルに近づき、か細い両の手首を乱暴に掴んだ。
「何故僕を見ない!? 君の傍にいるのは僕なのに!」
 力を込められた少女の手首は、今にも折れそうなほどだった。しかしティアイエルは痛みすら感じぬほどに、目の前の赤い瞳を恐れていた。
 そう、ずっとずっと、この人に出会った時から思っていた。彼は生きているのに死んでいるようだと。瞳が死んでいるのだ。どんなに笑顔を作っていても、瞳だけはいつも笑っていなかった。それが怖かった。
 ゼルエルの蒼い瞳は、確かに氷のように冷たい印象を受ける。しかし彼の瞳には生が感じられた。感情というものが宿っていた。けれどイロウルにはそれが無い。熱が通っているように思えた赤い瞳は、今は真っ赤な血の色に見えた。
 掴んでいた少女の手を乱暴に離すと、ティアイエルの膝は力を失い、青い芝生の上に崩れ落ちた。
 イロウルは彼女を見下ろし、やがて小さく呟き始めた。
「クックックッ……そうだよ、あいつがいるから君は僕をみてくれないんだよね」
 奇妙な笑い声に、はっとしてティアイエルは顔を上げた。そこにあったのは、狂気に満ちた赤い瞳と、ひどく歪んだ端正な顔。
「あいつを消してしまえば、君は僕をみてくれるんだよね。どうしてもっと早くそうしなかったんだろう」
 背筋がゾッとした。今までと違い、彼の赤い瞳ははっきりと感情を宿していた――狂気という名の感情を。それがとても恐ろしくて体中が震え上がった。
 天を仰いで陶酔していたイロウルは、跪いて小刻みに震える少女の手を取り、そっと口づけた。
「待っててねティアイエル。邪魔者はすぐに消してあげるから」
 ぞくりとするくらい優しく微笑んだイロウルの背には、真っ白な翼が現れていた。
 紫の瞳が、静かに舞い落ちてくる真っ白な羽根を捉える。
 イロウルは高らかに笑いながら、巨大な両翼で大空を翔けていった。
 もう誰の声も届かない。きっと彼はゼルエルを憎んでいるのだ。それがどういう理由かは、ティアイエルにはわからない。
 けれど、イロウルの憎しみだけは苦しいほどに伝わってきた。空気を震わせて伝わる彼の怒りは、確かに殺意を含んでいた。イロウルは、恐らくゼルエルを殺す気だろう。彼の赤い瞳は本気だった。
「どうしようっ……」
 ティアイエルは慌てふためいた。ゼルエルの名を出した事でイロウルの逆鱗に触れてしまったことに、深い後悔の念を抱いた。
 ゼルエルに何かあったらと思うと、どうしてか居ても立ってもいられなかった。無力ながらも助けに行きたいとさえ思った。何故こんな風に思うのか、彼女自身は自分の気持ちにまだ気付いていない。
 今から追いかけて間に合うだろうか。イロウルに追いつくことが出来るだろうか。どうしたらゼルエルを助けることが出来るだろうか。焦る気持ちだけが先走り、ティアイエルの頭は混乱しかけていた。
 ――落ち着くのよ……良く考えて。
 こんな時こそ冷静にならなければ。そう自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
 例えばイロウルを追って行ったとしても、自分には何の力もない。だから二人の闘いを止める事は出来ないだろう。けれど、あのゼルエルが黙って殺されるはずはない。もしかしたら、命を落とすのはイロウルの方かも知れない。それは神のみぞ知る結果だ。
 だが、どちらが生き残ったとしても、人間では到底立ち向かえぬあの絶対的な力で、やがては世界を支配し始めるだろう。
 ティアイエルは必死で思考を巡らせた。すると驚く程鮮明に考えがまとまっていく。パズルのピースがひとつひとつ埋まっていくように。
 イロウルを止める手段はきっとある。研究所にはそれがあるに違いない。人間は馬鹿ではない。特に研究所の人間は、選りすぐれた頭脳の持ち主ばかりだ。彼は、恐らくゼルエルを止めるために生み出されたのだろう。しかし、例えゼルエルを消したとしても、残ったイロウルが人間に従うとは考え難い。むしろゼルエルのような危険性を持ち合わせていると考えたに違いない。
 イロウルはゼルエルと違い、結局は人間の手によって作り出された存在なのだ。だったら、止める方法も研究されていたはずだ。
 ――研究所……研究所に行けば……!
 イロウルを止める方法が見つかるかも知れない。







7〜sieben〜 / 9〜neun〜




Copyright(C)2003− Coo Minaduki All Rights Reserved.