9〜neun〜






 女騎士アストレーアは、中庭で呆然と立ち尽くす姫の姿を見つけ、静かに近寄った。石の通路が奏でる靴底の音が、確実に存在を知らせていたはずだが、姫は深く考え込んでいるようで、彼女が近づいて来たことに全く気付いていなかった。傍まで近寄って、それでも気付かない姫に、アストレーアは声をかけた。
「ティア様? どうなさったんですか?」
 小さく跳ね上がった肩。突然聞こえて来た声に、ティアイエルは驚いていた。
「アストレーア」
 振り返ったティアイエルは、突然声をかけられた事に驚きの表情を浮かべていたが、不思議と落ち着いている。
「どうなさったんですか?」
 更に距離をつめながら、女騎士の黒い瞳は小さな姫の背後に向けられていた。緑の庭園に映える白いテーブルの上とその足元には、散らばったティーカップ。卓上で倒れたティーポットからは、姫お気に入りの紅茶が流れ出し、薄いピンク色の雫が青い芝生に零れて落ちている。
 そして先程から姿の見えない、赤い瞳の翼人。アストレーアの心に不安の影が過ぎった。場のただ事ではない状況の中、冷静にたたずむ姫と、姿の見えない翼人。彼は近頃、まるで人が変わったように暗く、そして恐ろしい空気を作り出していた。腕の中の小さな姫を、あんなに可愛がっていたのに、今では鬱陶しいとさえ感じているように思えた。
「アストレーア」
 もう一度名を呼ばれ、アストレーアは我に返った。すぐ傍で宝石のような紫の瞳が見上げていた。
「アストレーア、私研究所に戻ろうと思うの」
 女騎士の表情が凝固した。
 戸惑っているアストレーアの答えを待たずに、ティアイエルが言葉を続ける。
「彼らを止めるには、そうするしかないの」
 人間を憎み、滅ぼそうとしているゼルエルと、そのゼルエルを憎み、消そうとしているイロウル。どちらが残っても、やがて人間達には災いが訪れる。それを止める手立てがあるのは、研究所しかない。自分達と切って離せないあの場所には、少なくともイロウルを止める方法があるはずだ。
「だからと言って、あなたが研究所に戻る必要はない」
 怒りを含んだ黒い瞳が真っ直ぐに見ていた。
 研究所に戻れば、ティアイエルにとって苦痛の日々が戻ってくる。そう考えたアストレーアは、何としてもティアイエルを行かせたくなかった。常に見守り、妹のように可愛がっていたからこそ、引き止めたかった。
 厳しい表情で見つめる女騎士に、愛らしい微笑が向けられた。
「アストレーア、彼らを止めるのは私の責任だと思っているの。イロウルはゼルエルを憎んでる。何故かは私にはわからない。けれど、二人が争うと知っていて放っておくなんて、私には出来ない」
「ティア様…」
「私は人間だけど、こうして翼も持っている。とても中途半端な存在だけど、同じ翼を持つ人を失いたくないの」
 遥か遠い空を見つめる紫の瞳はとても切なくて、それは誰かを強く想っていなければ出来ない眼差しだと、アストレーアは思った。
 同時に、この小さな姫は随分強くなったと思った。彼女はもう城へやって来た頃とは違う。ひとりでも立ち上がれる強さを手に入れたのだ。彼女を変えたのは、恐らく――
「ティア様、あなたはもしや……」
「え?」
「いえ、何でもありません」
 アストレーアはゆっくりと首を横に振った。
「そこまで言うのならば、私が研究所までお連れします」
「でも……」
「あなたはこの城の姫君。姫君をお護りするのが騎士の務めです」
 そう言って女騎士は優雅に腰を折った。艶やかな黒髪がしなやかな肩を滑る。
 ティアイエルはアストレーアの所作に思わず見惚れた。なんて、美しいのだろうと。女性らしい強さと美しさを兼ね備えた彼女は、永遠にティアイエルの憧れであり続けるだろう。


 二人はアストレーアの愛馬で南方の研究所を目指した。
 疾走する馬の背で、ティアイエルは俯いていた。表情は暗い。
 何か嫌な予感がしていた。予知の力など持ち合わせていないが、暗いヴィジョンが頭から離れない。それは何を意味しているのか。誰の事なのか。
 どうか思い過ごしでありますように、とティアイエルは指を組んで強く願った。




 二人は研究所の有様に絶句した。
 ひどい荒れようだった。【生】の気配が全く感じられない。そこら中に白衣を着たまま事切れた人間が転がっており、中にはミイラのように干乾びた不可解な死体もあった。
 あまりの状態に不快感を抱きながらも、ティアイエルとアストレーアは、血の跡が点々とする足場を縫って、ある部屋に向かった。
 彼女たちが向かったのは、ティアイエルがよく訪れていたラボだった。このラボでいったい何度データ収集が行われたか、もう数える気も起きない。あれは自分がゼルエルの下僕として相応しいかどうか、調べられていたのだろうか。
 そんなひどい仕打ちを行ってきた人物を、どうして自分は助けたいのか。不透明だった自分の気持ちに、ティアイエルは少しずつ気付き始めていた。

 二人はラボの至る所をひっくり返して、イロウルに関する情報を手当たり次第に探した。イロウルはゼルエルと違い、人の手で作り出された存在だ。きっと何か弱点の様なものがあるはず。研究所の所長が、あんな危険な存在を野放しにするはずはないと考えた。だから手に負えなかった時のために、何か対策を講じていたはずだ。
 ティアイエルは必死だった。早く、早く見つけなければと心が急く。あの人を助けなければ。手遅れになる前に。
 ふと、ティアイエルは考えた。所長が、人目につくような、イロウルに簡単に見つかってしまうような場所に大切な物を隠すだろうか。隠すなら人目を忍んだ場所を選ぶはずだ。
 ティアイエルはあたりの空気に気を集中させた。以前ゼルエルがそうしていたように、空気を動かしてみようとした。【至高の力】を持たない、失敗作の自分にできるかどうかはわからない。けれど、やってみなければわからない。
 ティアイエルは瞳を閉じ、集中した。しばし沈黙していた気配が、やがて動き出す。停滞する空気のなか、不自然な風を捉えた。床下から立ち昇る空気――すぐそこだ。
 ティアイエルはその場所まで歩いて屈みこんだ。床を軽く叩いてみる。下は空洞だ。
「アストレーア!」
 呼ばれた女騎士は振り向いて彼女に近寄った。
「見つかったのですか?」
「ううん。でも、この下に何かあると思うの。空洞になってる。開けられないかな?」
 紫の瞳が訴えると、女騎士は頷き、腰に携えていた剣を抜いた。意外と厚い床板は抜くのに時間を要したが、アストレーアが力を込めると上手い具合に力が働き、大きな音を立てて床板が外れた。
 ティアイエルの予想通り、その部分だけ床が抜けていて、人間がひとり通れるくらいの幅がずっと地下に続いていた。どこかに繋がっているようだ。ラボとは違った風の匂いがする。
「行ってみましょう」
 剣を鞘に収め、身を乗り出したアストレーアを、ティアイエルが制止した。
「待って、私が行ってくる」
「しかし……」
「大丈夫。この先に危険な感じはしないから」
 強い眼差しで訴えられ、アストレーアは渋々引き下がった。そんな彼女を安心させるようにティアイエルは一度頷き、そして地下に潜っていった。

 ティアイエルは非常用はしごを使って地下へと降りていく。薄暗いが不安はなかった。うごめく風が危険はないと教えてくれていた。
 この先には何があるのだろうか。淡々とはしごを降りていくと、やっと地面に辿り着いたが、まだ道は繋がっているようだ。
 ティアイエルは迷わずに進んだ。すると、やがて微かに光が差しているの場所が見え始めた。



 光は、小部屋の中から漏れていたものだった。使っていたそのままの状態で、その小部屋は放置されていた。デスクの上には開かれたままの本が数冊。つけっばなしの機械。使用者が、何らかの理由で一時その場を離れ、そのまま戻らなかったのだろう。使用者は研究所の所長であると、ティアイエルは判断した。流れる風が教えてくれた。この上に、所長室があると。
 本棚にぎっしりと詰められていたのは、彼女には読解不可能な難しい本と、極秘事項と思われるファイルばかりであった。そのファイルを次々に手にとり、ティアイエルは血眼になって情報を収集し始めたが、棚のファイルからは手掛かりなど見つからなかった。
 ティアイエルは今度はデスクの引出しを探し始めた。中身を引っ張り出しつつ目を通し、それを何度も繰り返した。
 見つからない、見つからない。焦りが心を支配する。
 もうあの人を止めることは出来ないんだろうか。あの人を助けることは出来ないんだろうか。そしてやがて猛威を振るうのは、あの赤い瞳の……。
 そう諦めかけた時、ティアイエルの手が止まった。デスクの一番下の引出しには、鍵がかけられていた。何度か引いてみたが開きそうもない。
 ティアイエルの紫の瞳が引出しを凝視した。鍵なんて探している暇と余裕がなかった。ただ必死で、ただ純粋な想いを抱いているだけだった。しばしそうしていると、突然引き出しの鍵部分が小さな音を立てて崩れた。ティアイエルの想いが通じたのか、鍵は彼女の眼力だけで壊れてしまったのだ。その力を、以前ゼルエルが使っていたなどと、彼女は知る由もない。
 途端、ティアイエルの表情が明るくなる。思い切り引出しを開けて、中を探ると、一際分厚いファイルを見つけて手にとった。
 あった。これがイロウルの研究の全てが書かれているファイルだ。
 それには彼を創り出す上での話し合いの段階から、事細かに日記風に書かれていた。一ページ、また一ページと読み進んで、ティアイエルは絶句した。イロウルは本当に無から作り出された存在なのだ。自分のように人間を元として作られたのとは違う。そして日記には、イロウルはゼルエルと対峙する為に創られたのだと書かれていた。
 ゼルエルは、彼が以前言っていたように、世界を支配するため、再び翼人の世界を築き上げるため、新たな仲間を作り出す計画を、この研究所に持ち込んだようだ。研究所としても、自分達の力がどれ程のものなのか、その実験に荷担してみたくなったのだろう。だが、やがてその危険性に気付き始めた。愚かだ。研究が始まった時点で、すでに遅いというのに。
 やがてゼルエルが世界を支配し、人間たちを恐怖に陥れようとした時のための兵器として、イロウルは創られた。ティアイエルは悲しくなった。自分も人の手で創り出された存在だから少しわかる。【翼人】は、人間に滅ぼされようとしているのだ。イロウルでゼルエルを消した後、何らかの力を使ってイロウルを消すつもりだったのだろう。力ある二人が消えれば、力のない自分を消すことくらい、研究所の人間なら簡単にやってみせるだろう。自分たちで作り出しておきながら、いらなくなったら簡単に捨てる。【翼人】も今の世界に必要無いから消すのだ。
 自然と涙が零れた。どうしてこんなに涙が零れるのか、よくわからない。

 でも酷い人間ばかりではない。物心ついた時からずっとそばにいてくれたハビア。紛い物と知ってもなお愛してくれた義父王とアストレーア、お城の人たち。ティアイエルにはそれだけで充分だった。彼らの住む世界を護りたいと、それだけで強く思えた。
 そして、あの人を護りたい。人間たちが自然を壊したと声を荒げた時、彼の痛みが心に伝わってきた。彼の心の中には、誰にも理解できない深い悲しみがある。いったいどれだけの時間、たったひとりで生きてきたのだろうか。徐々に姿を消していく、自然をその瞳に映しながら。
 日記に少女の涙の雫がいくつも零れて落ちた。あっと思って視線を落として……ティアイエルは瞳を見張った。
 そのページに見つけた。イロウルを止める方法を。これを使えば、あの赤い瞳の翼人を止められる。止められるけれど……。
 迷った。心が揺れ動いた。
 でもやらなけらばと思った。彼らを止める方法は、きっとこれしかない。人間が思うように、この世界には【翼人】は必要無いのかもしれない。特別な力を持つ存在は、今の世界には必要無いのだ。
 時代は流れる。それは仕方のないこと。翼人は古の種。神がそう定めて、翼人を滅ぼしたのかもしれない。強過ぎる力は、時に意味をなさないものだから。
 手が、身体が震えていた。恐怖心を落ち着かせようと、ティアイエルは静かに深呼吸を繰り返し、瞳を閉じた。
 それでも、それでも、私はあの人を救いたい。深い悲しみから、深い孤独から。彼が受け入れてくれるかどうかは、わからない。けれど、出来るだけの事をやりたいと思った。
 ティアイエルはゆっくりと瞳を開けた。紫色の瞳は、以前のように死に脅えるか弱いものではない。
 少女の背中に真っ白な翼が現れる。ティアイエルは背から一枚の羽根を抜き取り、その白い羽根に強い想いを封じ込めた。
 ――どうか、届いて……。
 少女の悲痛な想いを封じた羽根は、一度ぼんやりと光って、そして小さな手の中から消えていった。







  8〜acht〜 / 10〜zehn〜




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