10〜zehn〜








 蒼い瞳の翼人・ゼルエルは、少女の使っていた部屋で床に座り込んでいた。特に何をするワケでもなく、ただぼんやりと。
 彼女が消えてから何日経ったか。自分はこの場所で何を待っているのか。考えたところで答えは見つからなかった。
 それまで停滞していた室内の空気がわずかに乱れ、ふいにゼルエルは立ち上がった。ぼんやりとしていた蒼い瞳は、突然に色を変え、警戒心と敵意を剥き出しにした。自分の力を張り巡らせた砦内に、誰かが進入したのだ。
 ゼルエルには、その人物の気配に心当たりがあった。自分と同じ空気を背負う者――
「ああ、やっぱりここに居たんだね」
 まず声だけが室内に響いた。声の生じた窓際を蒼の瞳が凝視すると、やがてその場所に風が渦を巻いて集結し始める。そして徐々に人の姿を描き出した。
 何よりも先に赤い瞳と視線がかち合った。自分と同じ顔は、薄笑いを浮かべながらこちらを見ていた。
「ずいぶん探しちゃったよ……でもやっと会えた」
 笑いをこらえたような声が近づく。イロウルは愛しい者を見るように切なく、しかしながらもその奥に狂気を潜めた赤い瞳で鏡に映した自らの顔を見つめた。
 静かに、神の創り出した至高の美に手を伸ばし、右手を首に宛がった。喉元を締めたまま、イロウルはゼルエルを壁際へと追いやる。ゼルエルは身動きひとつ取らない。そして伸ばされた左の手は、相手の頬に触れるか触れないかの際で指先を止めた。
「君を殺してあげる。そうすれば、彼女は僕の物になる」
 端正な顔が歪んでいた。血の色をした赤い瞳が、目の前の同じ顔を忌々しげに睨んだ。
「そうだ、お前がいるから、彼女は僕を見てくれないんだ……!」
 怒りに震える声を押し殺しながら、イロウルは、ゼルエルの頬に爪を立てた。その美しい顔を抉ってやろうと言わんばかりの形相だった。
 ゼルエルの頬に傷跡が浮かぶが、蒼い瞳は凍てつかせるように、赤い瞳をじっと見ていた。蔑むような、哀れむような、そんな視線。
 その視線に一瞬イロウルが怯んだのを、ゼルエルは見逃さなかった。
 ふいにゼルエルの右手が、頬を掴んでいたイロウルの左腕を掴む。と、突然。赤い瞳が見開かれた。イロウルの左腕が、まるで鎌鼬(かまいたち)に襲われたように激しく裂けたのだ。
「ぎゃああああッッ!!」
 イロウルは後退り、薄緑の飛沫を撒き散らす左腕を掴んで身悶えた。神の創り出した至高の美の偽者が、飛び散る薄緑に染まる。左腕から覗いているのは、腱でも筋でもなく、彼と機械を繋いでいたような無数の細いコード。滴るのは赤い血ではなく、棺桶の中で彼を包んでいた奇妙な液体。
「お前は俺とは違う。全てが創り物だ。その顔も、身体も、髪も、翼も。あいつを想うその心も創り物だ」
 言いながらゼルエルは音も立てずに歩を進める。赤い瞳が冷静な蒼い瞳をギロリと睨んだ。
「お前に何がわかる!!」
 怒りの言葉と共に広げられた真っ白な翼から、棘(トゲ)のように羽根が飛散した。だが、羽根の刺さった場所には何も無かった。
 ゼルエルはその背に大きく美しい翼を生やし、ふわりと宙を舞って交わしていた。その優雅な動きを赤い眼差しが憎らしげに追う。
「お前が邪魔なんだよ! お前なんか、僕の【至高の力】で壊してやる! そうすれば、彼女は僕を愛するようになるんだ……!」
 イロウルが瞳を剥くと、床に突き刺さっていた棘の羽根が引き抜かれ、そして一気にゼルエルに降りかかった。さすがに虚を衝かれ、腕や足には幾本もの羽根が、深く突き刺さっていた。
 傷口から流れるのは赤い血。生きとし生ける物の証。それがイロウルの怒りを増長させた。苦痛に身を捩るゼルエルに近づき、薄緑の滴る左手で空色を掴んで無理やりに顔を上げさせた。
 勝ち誇った表情で見下げるイロウルを見て、ゼルエルは不敵に笑った。余裕とも取れるその笑みに、イロウルの表情が見る見るうちに変化する。空いている右手がゼルエルの肩を掴み、迷いも無く立てられた爪は肉を抉った。ゼルエルは、それでも、歯を食いしばって激痛に耐えながらも叫び声ひとつ上げない。
「お前のあいつを想う心は愛じゃない」
 ゼルエルがニヤリと笑った。言葉と共に一筋の汗が端正な顔を伝う。
「なに?」
 イロウルは眉をひそめた。
「お前があいつに対して抱いているのは……同じ境遇に生まれた者同士、慰みあう心だ」
 そう、イロウルがティアイエルに対して抱いているのは、愛という感情ではない。【翼人】としての形状を与えられながらも、決して【翼人】にはなれないという、同じ境遇を分かち合う者への仲間意識。イロウルはそれを愛と勘違いしているだけだ。
「俺を殺しても、あいつはお前を愛さない。あいつは、自分を【可哀想な存在】だなんて思っていない」
 イロウルは、ティアイエルという存在が居たからこそ、自分を哀れな存在だと思うようになった。彼女が自分にゼルエルの姿を見る度、ひどく荒んだ気持ちになっていった。彼女をわかってやれるのは自分だけなのに、それなのに、彼女は決して手の届かない存在に憧れを抱いている。
 どう足掻いても、自分達は【翼人】にはなれないのに、どうしてそれがわからないのか、と。自分達は、この世界でたった二人きりの【哀れな存在】なのに。

「黙れ!!」
 肩を掴むイロウルの力が強まった。さしずめ、図星を指されたといった所だろう。しかし、人間と同じ形をした手から生まれるにしては強過ぎる力に、ゼルエルは一際表情を歪めた。
 その苦痛の表情が悦びなのか、イロウルが口元を吊り上げた刹那、その表情がそのまま凍りついた。ゼルエルの手が何かを引っ張るように力強く握られたと同時、見えない力が、広げられていたイロウルの片翼を引き千切っていた。背中から薄緑の液体が飛び散る。千切られた翼からは、か細いコードがダラリとのびる。
「あああァァァッッ……!!」
 イロウルは背中を抱いて床をのたうち回った。その姿を、蒼い瞳が冷たく見下ろす。
「どうやら、普通に痛覚はあるみたいだな」
 翼の痛覚は鋭い。普通と言っても、人間ではおよそ想像もつかぬほどの激痛だ。傷口から電気を流されたように、血管を伝って身体中に強烈な痺れが走る。
「許さない……許さない!!」
 イロウルは怒り狂った。肩を激しく揺らし、荒く呼吸を繰り返す彼の赤い瞳は、すでに正気を失っていた。
 その怒りの空気に反応してか、室内に置かれていた様々な物が、ゼルエルを目掛けて飛び交った。しかし、あまりにも的外れな攻撃は、真の翼人の前では無意味。ゼルエルの身体を包む風が全て弾き飛ばし、短い空色の髪をふわりと浮かせる。
 イロウルの苛立ちはあからさまだった。かつて同じ境遇の少女に対し、紳士的な態度を取っていたのが嘘のようである。
 逆上したイロウルは、床一面に広がった残骸から武器となるものを探り、やがて見つけた花瓶の破片を手にゼルエルに飛び掛った。軽く首を折って交わしたゼルエルの頬に、薄っすらと切り傷が浮かび上がる。
 しめたものだと、イロウルは怪しい笑みを浮かべながら休み無く破片を振り回した。が、逆上して何も見えなくなっているイロウルを抑える事など、冷静なゼルエルには容易い行為だ。破片が目掛けて迫ってきた所で、薄緑の液体が伝う腕を掴み、決して離そうとしなかった。
「お前は物を動かす力があるようだが、それは至高の力じゃない。翼人なら、そんなモノ使わなくても俺を殺せるはずだ」
「うるさい!!」
「人間達が【至高の力】と呼ぶものは、大地の、空の、水の、風の、ありのままの自然の声を聞く力だ。そうして自然と心を通わせ、恩恵を受けて生きる力――それが我々翼人の力。お前には聞こえているか?」
 干からびた大地の声が。
 汚された水の声が。
 黒く染められた空の声が。
 それらを運ばねばならない、風の悲痛な叫びが。
「そんなものはいらない! 僕はお前が邪魔なだけなんだ!!」
 今にも泣き出しそうに、イロウルは叫んだ。
 ゼルエルが嘆息を洩らした。元々救うつもりなどないが、もう何を言っても無駄だと思った。イロウルは壊れたのだ。もし、彼が正気を保っていたら、あるいは聞こえたかもしれない。感じたかもしれない。己が強く求める少女の声が、気配が、すぐ傍にあることに。

 イロウルを拘束しながらも、ゼルエルは辺りの気配を探っていた。
 何処だ、何処にいる?何故ここにいる?
 彼女が呼んでいるのは自分か、それともこいつか。
 わからない。自分が呼ばれているとも思わなかった。だが、例えそうだとしても、イロウルを彼女の元へ行かせるわけにはいかない。これ以上、自分と同じ顔で声で姿で、彼女を惑わせたくない。
 あの少女を本当に必要としているのは――
 いなくなって初めて気付いたのは――

 イロウルの腕を掴む力が強まった。
「俺を消しても、お前は【俺】にはなれない」
 蒼い瞳が赤い瞳を睨んだ。全てを射抜くかの視線に、イロウルは酷く怯え、そしてガタガタと身を震わせ始めた。
 その蒼い色が憎い。嫌い。怖い……?
 強い憧れと、強い憎しみが同時に溢れ出し、イロウルは赤い瞳を潤ませて必死に逃げようとした。だが、腕を掴む強い力がそれを決して許そうとはしなかった。
 半狂乱になって暴れるイロウルを壁に押さえつけ、恐怖に怯える自分と同じ顔を見据えながら、ゼルエルは彼の首に右の手をかけた。
「けれどあいつは違う。赤い血も流れるし、白い翼も空色の髪も本物だ。例え至高の力などなくても、翼人になれる。俺が関わっていた実験は、お前のようなまがいモノを生み出すのとはワケが違う」

 思い出せ。何故彼女を創り出したのか。自分は彼女に何を求めていたのか。
 例えば彼女が、自分と同じ力を持ち、自分と同じ蒼い瞳を持ち、自分に従順な下僕であったとしたら。何の感情も示さない、おもちゃの兵隊であったとしたら、こんなにも興味を抱いただろうか。
 自分には無い心を持つ少女。自分には無い瞳の色を持つ少女。自分とは違うものを持つ少女。いつも怯えていた彼女の紫の瞳が、表情が、一度でも明るく輝いたら……それが自分へ向けられるのであれば。それが叶うのなら、どんな犠牲も払える気がする。

「あいつは、お前にはやらない」

 呟かれた言葉と共に、ゼルエルの手から青白い炎が上がった。
「うああァァァッッ……!!」
 赤い瞳が舞い上がる蒼を映し出す。炎は腕を伝い、肩を這い、身体中へと広がってゆく。イロウルの左腕から流れ出していた薄緑の液体は、炎の力で気化してしまった。
 イロウルは蒼い炎を纏ったまま、ゼルエルの両肩を強く、強く掴んだ。血の色をした瞳からは、薄い緑の涙が流れて落ちていた。
「どうして、どうして……? 君は何でも持っているのに……誰よりも美しく、誰よりも強い【至高の存在】なのに……。どうして彼女も奪ってしまうの?」
 イロウルは子供のように泣きじゃくった。
「……みんなが、研究所のみんなが、僕のことをなんて呼んでいたか、僕はちゃんと知ってるんだよ……」

 【失敗作】と。
 研究所の人間は、彼に名も与えず、ずっとそう呼んでいた。
 どんなに研究を重ねても真の翼人だけが持つ蒼の瞳は創り出せず、様々な薬品のせいで複製の瞳は血の色になってしまった。空色の髪も、純白の翼も、至高の美も、どれひとつ遜色(そんしょく)ないのに、瞳だけが違う。それだけで彼は【失敗作】とされた。
 イロウルは知っている。眠っている間も彼の意識や意思は存在し、棺桶の外で交わされる会話は全て彼の耳に届いていた。

『あの蒼色さえ創り出せれば、我々の実験は完璧なのに……』
『ゼルエル様は恐ろしい方だけれども、やはりあの蒼い色は神のみが創り出せる【至高の美】なのだ』

 自分を【失敗作】と呼ばせる原因である蒼とはどんな色か。人の手では決して創り出せない蒼に強く憧れ、そして強く妬んだ。
 自分はこんなにも蔑まれているのに、同じ顔で同じ空色の髪と純白の翼を持っているのに、どうしてこんなにも違うのか。
 許さない。その蒼を、必ずこの瞳で見てやる。
 憎悪と羨望は、生きる活力となった。

 やがて研究員達は【失敗作】ではなく、彼を【イロウル(恐怖)】と呼ぶようになった。
 壊そうとしても壊せない。止めようとしても、彼の心臓は止まらない。
 恐ろしい。自分達の手で創り上げたものが、勝手に動き始める。棺桶の中の【恐怖】が微笑んでいる。
 そして、憎悪と羨望の対象である存在の手で、彼は動き出した。

「僕はね、君になりたかったんだよ。僕と違って人間達が褒め称える君にね。そしてあの子と一緒に、ずっとずっと生きて行けたら、それだけで良かったんだ。至高の君には僕やティアイエルの気持ちなんて永遠にわからないよ。だから君が邪魔だったのに。その蒼が憎いのに。君は人間にとっても僕たちにとっても悪魔でしかないのに。でもやっぱり、君には敵わないんだね……」
 薄緑の涙を流しながら、イロウルが笑った。幼い子供のように純粋に。
 その笑顔がゼルエルには少しだけ羨ましく思えた。そんな風に笑った事がなかったから。自分が笑う時は、彼と同じ表情をするのだろうか。
 蒼い炎が、徐々にイロウルの形を崩してゆく。蒼の中で鮮明な色を放つ赤い瞳が、じっとゼルエルを見つめて言った。
「君は我儘な悪魔だね」
 永遠に報われることの無い想い。自分は決して彼になれないと、本当は初めからわかっていた。何でも持っている彼には敵わないのだと。だから、同じ【失敗作】なのだから、彼女だけでも自分に与えてくれたって良かったのに。それすらも許してくれない彼は、どんなに綺麗な存在でも、イロウルにとってやはり悪魔でしかないのだ。

 静かに燃え上がる蒼い炎が、やがてイロウルという存在を掻き消した。




 蒼い炎が消えてなくなり、静寂が戻った時。ゼルエルの目の前に、一枚の真っ白な羽根が舞い落ちてきた。ほのかな柔らかい光を放つ羽根は、吸い込まれるようにゼルエルの手のひらに降りると、一度輝いてそして消えた。
 指先から伝ってくる強い想いを感じて、ゼルエルは拳を握り締めた。

 あいつが呼んでいる。






9〜neun〜 / 〜Ende〜 




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