〜Ende〜






 機械と薬品の臭いが充満する科学研究所には、ひとつだけ自然の香りが漂う場所がある。
 それは研究所員達の休息の場として設けられた、公園を模した空間で、移植した本物の木々や草花が振りまく、ありのままの自然の香りが心地よい場所だ。
 その空間の奥、草花を育てる温室の片隅で、ティアイエルは膝を抱えて座り、顔を伏せて震えていた。
 ――寒い。
 人の消えた建造物は何の設備も働いておらず気温が低い。無論、温室も既に無機能となり、美しく咲き乱れていた花々も、青々とした葉をつけていた植物も、すっかり元気を失ってしおれている。
 だがティアイエルを襲う寒さは、外気温の低さから来るものではない。
 身体の芯から起こる震えに、少女はきつく瞼を閉じて耐えていた。





 ティアイエルからのメッセージを受け取ったゼルエルは、研究所へ向けてよどんだ空を翔けていた。
 彼女が何を思ってあのメッセージを送ったのか、突き止めるために。

 ――研究所で待っています。

 少女の白い羽根は、自分ではなくイロウルを呼んでいた。
 何故自分ではなくあいつなのか、明確な理由があるなら本人の口から聞きたい。何故あいつを選ぶのか。
 遠方を見据える蒼の瞳が、南方の空が赤く染まっているのを見つけて見開かれた。研究所の方角から風が運んでくるのは火の匂い。それを嗅ぎ取って、ゼルエルは表情を歪め、飛翔速度を一気に上げた。

 ゼルエルが到着した頃には、一体誰が放ったのか、研究所は火の海であった。燃え上がる炎は容赦なく其処彼処を燃やし、渦巻く煙は視界を灰色に染めていた。
 風の力を借りて炎と煙を防いでいたゼルエルは、一度瞳を閉じ、辺りに気を集中させた。
 ――何処にいる。
 問いかけると、流れていったはずの風が逆流を始め、ゼルエルを取り囲んだ。濁った空気の中で僅かに残っていた純粋な風が、蒼い瞳の翼人の周りでクルクルと渦を巻きながら、その耳に答えをささやく。
「あそこか……」
 閉じられていた瞼が開かれ、蒼い瞳が、炎の壁に遮られた前方を真っ直ぐに見据えた。

 研究所は炎に包まれ始めたが、緑の空間は、そこだけが別世界のようにまだ生きていた。天窓から入り込む外界のほのかな明るさが、薄暗い空間を微かに明るく見せる。
 蒼い瞳が辺りを見回すと、緑が生み出す澄んだ空気が彼を慕って少女の居場所を教えてくれた。闇を閉じ込めた小さな温室の片隅で、探していた少女は座っていた。膝を抱え、俯いているため顔は見えない。辺りの闇が彼女の輪郭をおぼろげにし、今にも消えてしまいそうである。
 ゼルエルはロックされた温室の入口を開けるべく、壁に設置されたセンサーに手をかざした。研究所内のロック管理システムは、通常個々に配布されたIDカードをスキャンする事により解除されるようになっていたが、ゼルエルの場合は指紋を照合することで所内全てのロックを解除できるように設定されていた。しかし壊れてしまったのか、温室のセンサーが作動する事はなかった。蒼い瞳がセンサーを睨みつけるが、それでもセンサーは壊れもせず、作動もしなかった。入口の内側にびっしりと絡み付いた植物が、まるで侵入者を防ぎ、大切なものを守るかのように、ドアの開閉を拒んでいるのだ。
 表情を歪め、ゼルエルは透明な小窓に握った拳を打ちつけた。触れた手先から強い力を送ったが、ガラスの壁は物ともしない。脆いガラスなど、彼にとっては何ということもない障害であるはずなのに、内側に張り詰める見えない力が、全てを無効にしているようだ。
 やがて、外界の異変に気付いたのか、ティアイエルの肩が微かに揺れ、ゆっくりと俯けていた顔を上げた。虚ろだった紫の瞳が、この場にいるはずのない存在を見つけて見開かれていた。
「……ゼルエル。何故あなたが……」
 何故イロウルではなく、彼がここにいるのか。呼んだのは彼ではないのに。
 だが驚きと共にティアイエルの心の中には密かな喜びがあった。けれどそれだけ。二人を阻むガラスの壁は厚い。この中に、彼を入れてはいけない。
 一瞬だけティアイエルは笑顔を見せたが、すぐに表情は沈んでいた。
「……あなたが無事ならそれでいいの。早くここから逃げた方がいい。もうすぐこの場所も火の海になるから……」
 言いながらティアイエルは再びぐったりと項垂れた。
 その姿に、ゼルエルは初めて不安という感情を抱いた。もう少しで手が届く所にいるのに、ガラスの壁が世界を分け隔てているような感覚。流れる風、燃え上がる炎。温室外が【生】の空気を漂わせているとすれば、室内は【負】の気に満ちている。そして、ティアイエルの様子は明らかにおかしい。
 それは、かつて楽園に住む仲間を失った時の感覚に似ている。彼らは【負】の気に包まれ、やがて色を変えて消えていった。
 ゼルエルは瞳を凝らして温室の中を見つめた。
 そして気付く。純白であった少女の翼が、闇にまみれてしまうほど、変色している事実に。
「どういうことだ……何をした……!」
 湧き上がる怒りは空色の髪を逆立て、手先の触れたガラスにはわずかに亀裂が走った。
 ティアイエルの翼は、黒に近い紫に変化していた。その色が一体何を意味しているのか。翼人であるなら、誰しも知っている事実。
 黒い翼は、死期が近づいている証拠。
「答えろ! 何をした!」
 怒声に怯える様子も見せず、ティアイエルはわずかに顔を上げ、紫の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「……私、イロウルを止めようと思ったの……」
 ティアイエルは、ゼルエルを置いて城に戻った日の事から詳細を話し始めた。
 城に帰ったら、イロウルが待ち受けていたこと。
 イロウルは、自分こそが真の翼人であって、ゼルエルが複製であると偽っていたこと。そして彼はゼルエルをひどく憎んでおり、消そうとしていたこと。そんなイロウルを止めようと研究所にやって来て、所長の秘密の部屋で、ようやく彼を止める方法を見つけたのだと。
 イロウルは、所長が言っていた通り、ゼルエルがやがて力を増してきた時に対峙させるために創られた存在だ。瞳の色以外は完全な複製。そんな存在に、危険の要因を感じなかったわけではない。もしかしたら、イロウルはゼルエルに手を貸すかもしれない。そして仲間を増やし、人類を滅ぼすかもしれない。そうなった時の為、研究所はイロウルの開発と共にもうひとつ、翼人という種族を消し去る方法を生み出していた。
 そして完成したのが、翼人だけが持つ特有の組織に変化をもたらす、触れただけで翼人特有の組織を判別して感染し命を蝕んでゆくもの――毒薬だ。
 人間にはなくて、翼人にだけ存在するもの。それは白い翼。

「私、イロウルがあなたの所へ行ってしまう前に何とか止めたかったの。だからメッセージを送ったのに……間に合わなかったのね」
 やはり紛い物はダメね、と少女は己の非力さを小さく軽く笑い飛ばした。
 そんな姿も、蒼い瞳には遠く感じる。
「それで、お前はそれを口にしたというのか?」
 ガラスの向こうで項垂れた少女が頷くと、ゼルエルの怒りが増長した。彼女の翼は、こうして話している間にも変色が進んでいる。紫だった色が、どんどん黒ずんでゆく。目を見張る速度で死期が近づいている。
「何故そんな事をした!」
「……私、よくわからないけれど、傷ついたあなたを置いて城へ戻ってしまってから、ずっと気がかりだったの」
 怪我は治ったのだろうか、無事でいるのだろうか、今何処に居るのだろうか。
 同じ顔、同じ声、同じ姿のイロウルが傍にいるのに、彼の後ろにずっとあなたを見ていた。赤い瞳が蒼であったなら、どんなに良かっただろうかと強く思った。イロウルが怒りで我を失い、あなたの元へ飛び立った時、どんな事をしてでも止めたいと思った。あなたを助けたいと思った。

 ティアイエルには、ひとつだけ意図的に植えつけられた感情がある。それは、主となる存在・ゼルエルへの服従心だ。彼女は思いのほか自我が強く、これまでの観察記録では、その感情が見える事はなかった。だが、短期間でも直接ゼルエルと関わったために目覚めてしまったのだろう。彼への服従心と、彼への淡い想いが重なって、ティアイエルは自分の身すら省みぬ行動に出てしまったのだ。

 ゼルエルは初めて己の行動に後悔をした。愚かな服従心など植えつけてしまったがために、彼女の存在を消してしまう事になろうとは。
 なぜ。なぜ勝手な事ばかりする。なぜ思い通りにならないのか。
 だが、このままティアイエルを死なせようとは思わない。今の自分には、彼女の消えたこの世界など意味がない。
 真の翼人である自分が、思い通りに出来ぬ事などない。

 蒼い瞳が見開かれると、扉に絡み付いていた植物が蒼い炎をまとって燃え上がった。手先を燃やされた植物たちは、炎を恐れて次々に手を引っ込めてゆく。
 解放された扉をゼルエルが蹴破ると、温室内に充満していた【負】の気が彼の身体を蝕もうと纏わりついたが、彼を取り巻く風がそれらを追い払っていた。
 膝を抱えてうずくまるティアイエルに近づき、ゼルエルは片膝を付いた。プライドの塊のような彼が自ら跪くなど、もしも研究所の誰かが生きて見ていたなら目を疑った事だろう。
 少女に触れようとして伸ばした手を、ゼルエルはふと止めた。脳裏にはある言葉が浮かんでいた。

 ――お前が殺されないで済む方法がひとつだけあるぞ。俺がお前を必要とするように仕向ければいい。

 失敗作など消してしまおうと思っていた。思い通りにならないものなど、いらないと。
 けれど、死を恐れて泣いていた少女が、あの時見せた眼差しがあまりにも強くて。つい首に宛がった手を緩め、あんな条件を出してしまった。
 自分が仕掛けた罠に、自ら堕ちるとは思いもしなかった。
 会う度に怯える瞳が、帰りを待つ存在が、鬱陶しくて仕方なかったのに。押し寄せる孤独という闇から救ってくれた時、鬱陶しかったはずの存在は、一筋の希望の光に見えた。

「触れてはだめ」
 その指先を伝って、黒い気配があなたを襲う。その美しい、純白の翼を汚したくはない。
 だがティアイエルの思いも虚しく、止めたはずの手は、気付けば少女の白い手に触れていた。まるで壊れ物を扱うように、優しく。
 感覚を失っているのか、彼女は触れても微動だにしなかった。指先から体内へと侵入を企てる負の気は思いのほか強力だ。もってあと一時間程度だろう。ゼルエルは微かに震える細い肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「お前を死なせはしない」
 その声は、城に戻ってから聞き続けた、甘い言葉をささやく声とは違う。
 耳に届く自分のものとは違う鼓動は、あの日のように規則的で乱れがない。違っているのは、自分の鼓動がそのまま時を刻む事を止めてしまいそうなほどゆっくりだということ。
 まるで夢を見ているみたい。
 紫の瞳は小さな雫をひとつ零し、閉ざされた瞼の奥へと姿を隠した。

 眠るように瞳を閉じたティアイエルを、ゼルエルはそっと抱えて立ち上がった。背中には、汚れを知らぬように真っ白な翼が現れていた。
 いつの間にか炎が近づいていた。木々は焼かれて形を崩し、緑は色を変え、緑の空間を穏やかにしていた澄んだ空気は、むせかえるような臭いに変わっていた。
 全てを呑み込んでしまえと、炎が襲いかかってくる。だが純白の翼が風を巻き起こし、眠る少女を守り抜く。ゼルエルは翼を羽ばたかせ、天窓を破って翔け上がった。


 ティアイエルの意識は虚ろだった。
 風に乗って空を飛んでいるような感覚。運んでくれるのは、晴天の空色と雲の白を持つ翼人。
 これは夢に違いない。そうだ、どうせ夢ならば――
 ティアイエルはわずかに唇を開き、言った。
「私は、あなたを――」
 唸りを上げる風が全てをかき消してしまう前に。
 この想いがあなたに届きますように。






 北方の城を目指して馬を走らせていたアストレーアは、吹き荒ぶ冷たい風に首をすくめ、馬を止めた。振り返ると遠い地に科学研究所が見える。
 漆黒の瞳には涙が浮かんでいた。手がかりを見つけたと言ったティアイエルの思いつめた表情が頭から離れない。
 連れて城へ帰りたかった。だが彼女はどうしても残ると、待たなければならないと、頑としてその場を動こうとしなかった。ティアイエルに強く拒絶され、アストレーアは追い出されるように研究所を後にした。戻ろうにも向かい風に阻まれ、近づく事さえできなかったのだ。
 諦めて馬にまたがると、愛馬は追い風に後押しされて走り出した。恐らくティアイエルが放ったのだろう、背後で火の手が上がるのを知っても、愛馬は止まってくれなかった。
 研究所からは大分離れた丘の上で、ようやく足を止めた馬から降り立ち、アストレーアはしばし遠い地で燃え上がる炎を見つめていた。
 涙が止まらない。幾つも幾つも頬を伝って落ちるが、アストレーアは拭おうとしなかった。
 無事に逃げ果せただろうか。待ち人は間に合っただろうか。きっと城へ帰るから、だから先に戻ってと微笑んだ小さな姫の想いを、待ち人は受け止めてくれるだろうか。
 こんな状況下でも、アストレーアはティアイエルの幸せを願った。どんな小さなことでもいい。彼女が幸せだと思える結末であれば――それでいい。必ず帰ると約束してくれた。だから城へ戻ろう。そして王に全てを話そう。
 一度目を閉じ顔を上げた時、漆黒の瞳に真っ白な何かが映った。燃え上がる炎から飛び出したそれは、白い鳥のように見えた。だが白い鳥の姿は瞬きする間に消えていて、暗雲うずまく空だけが残っていた。
 アストレーアは白い翼の鳥が消えた空を見つめていた。穏やかに微笑みながら。
 いつか、必ず。愛しい姫は、必ず帰ってくるだろう。だから信じて待つのだ。

 黒髪の女騎士は愛馬に跨り、北方の城へ向けて走り続けた。




*    *    *




「それで、女の子はどうなったの? ちゃんとお城に戻ってきたの?」

 話し終えて息を吐いた老婆の膝にすがり、幼子が瞳を潤ませていた。今にも泣き出しそうな表情で見上げてくる孫の髪を優しく撫でながら、老婆は瞳を細めた。
「さて、どうだろうね」
 そう言って揺り椅子をゆっくりと揺さぶり、漆黒の瞳はあの日と同じように遠い空を見上げた――長い時が流れた今も、白い鳥の姿を探して。

 どんな物語にも必ず結末がある。
 この物語を耳にした者が、思い描くのはどんな結末か。

 少なくとも、老婆の心の中では幸せな結末が描かれていた。
 小さな姫の、愛らしい笑顔を時々思い浮かべながら、老婆はいつまでも語って聞かせるだろう。

 翼ある人々の物語を。



 END







      10〜zehn〜 / SS 〜楽園の昼下がり〜




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